衝突

 昼休みのチャイム。どうしたものかとため息をつく。後からこっそり渡そうかと思ったお弁当。あってはならぬ存在だ。

 問題を先送りするかのように、重い足取りで手洗い場にたどり着く。石鹸を泡立てて、冷たい水道水で流す。ハンカチを取り出すと、後ろから声をかけられた。

「ねぇ、日向とお友達なの?」

 ぎくりと、身を強張らせて、ゆっくり振り向く。日向を呼び捨てにするのは彼女しかいない。入り口の前、敷居を跨がずに立つ姿に雨子は無意識に後退った。悪事を働いた訳でもないのに、後ろめたさなど感じる必要はないのに。彼女の責める目は許してはくれない。

 気の所為、彼女は何とも思っていないと楽観視するには無理がある。琴梨の大きくぱっちりした瞳に宿る剣呑とした光に射貫かれた。

 彼女はお弁当を二つ抱えていた。考えなくとも察する。間違いなく片方は日向のだ。

「いつもね、日向の分も一緒に作ってもらうの。日向も美味しいって言ってくれたわ。嬉しかったのよ。だけど、昨日、明日は平気だからって断ったの」

「そ、れは」

「いつもいらないって遠慮するのよ。日向って謙虚だから。可愛くて良いところだけど、私の分だけで日向がないって可哀想だから。口で言ってるだけで本当はいるって知ってるから」

 まるで見えない壁でもあるかのように、彼女は微動だにせず入ってこない。ただ無表情で静かに雨子を見つめた。全てを見透かすよう。

「でもね、昨日は違った。もういいって、頼り切るのは申し訳ないから明日から本当に必要ないって」

 酷いわ。いつも作ってきたのに、急にいらないなんて。

 見透かすよう――ではない。彼女は知っている。日向が言い出した理由を。だからこそ雨子に近づいた。

「美味しいって言ってくれる、食べてくれる彼の顔がすき」

 呼吸の仕方が分からない。明滅する視界に、崩れそうな膝を叱咤して立ち尽くす。何重もの糸が胸に絡みつき締め上げる。

「あなたは、すき? かれのこと、すき?」

「っぁ、わた、しは」

「私より?」

 とどめ。衝撃に頭が揺れて、真っ白に染まる。喧騒が消えて、彼女以外を認識できなくなった。

「小さい頃から見てて、守ってもらって、うれしくて、いつも一緒にいて、ご飯食べて、幼いころは一緒のベットに寝て。身を挺してまで守ってくれる彼が、私のために強くなってくれた彼が。私のために怪我までしてくれる彼が」

 ずっと好きよ。好きだからそばにいたい。あなたは?

 問いかけに、雨子は答えられな。

 ――ちがう。

 答えられないではない。答えなくては、ならない。

 臆した心を奮い立たせる。ぐっと足に力をいれて、見つめ返す。琴梨が、僅かに目をはった。

 ここで逃げては駄目だ、日向にも琴梨にも誠実さを、かける。

 恋に恋をする時間は終わったのならば、進まなければならない。日向と関わるのを止めなかったのなら、責任を果たさなければならない。決めたならば。もう迷うのは許されない。

「琴梨さん」

 一歩踏み出せば、彼女が同じ分さがった。ふるりと震える身体に、怯えた表情。虐めているようで心が痛い。だが、それでも。

「ごめんなさい、私は、日向くんのことが」

「やめてッッ!」

 引き攣った甲高い悲鳴。肩で息をして、ぼとぼと涙をこぼす彼女は、痛々しい。ぎゅうと眉をよせて「わたしのひなたを、とらないで!」と、鼓膜を破る勢いの声量に、さすがの雨子もぐっと押し黙った。

 まるで硝子のようだ。雨子が続ければ、呆気なく割れて粉々になる繊細さ。伝えるべきだ、しかし直球だと琴梨は耐えられないのは明白。

 きっと本気で日向が好きなのだ。ぽっと出の女に慕われるだけでも苦痛なのだろう。分かっていたが、こうして目の当たりにすると二人の絆に亀裂を入れてしまう罪悪感に押し潰される。

 彼が誰が好きなのか。琴梨か雨子か、はたまた別の子。そもそもいない説。この問題は、雨子たち二人では解決しない。

「いつの間に日向と仲良くなったの! ずっと、ずっとわたしが傍にいたのに」

「……ことり、さん。どうか話を」

「もう、近づかないで。わたしたちの、邪魔しないで!」

 ヒステリックに吐き捨てて、彼女は足音をたてて走り去った。残された雨子は暫し茫然としていたが、何時までも固まっているわけにもいかず。のろのろと手洗い場から出た。

 外では、好奇の目を向ける生徒で溢れかえっていた。昼ドラとでも勘違いしているのか、心なしか楽しそうである。野次馬根性、おそろしい。

「いまのお嬢様さぁ聞いた?」

「やばいよねぇ、葵くんのこと好きっていうか、所有物って感じ?」

「さっすがお嬢様だよねぇ。お金持ちってこわぁい」

「つか今出てきたの、お嬢様を庇ってた子じゃん。えっそれであの態度とか、どんだけだよ。葵しか見えてねぇじゃね?」

「いやいやお嬢様の気持ちもわかるって。急に現れた女に取られるとか」

「お嬢様って感じで俺は好きだなぁ」

 ひそひそ、聞こえているのが質が悪い。これはあくまで琴梨と雨子の問題だ。部外者からの無粋な詮索はノイズでしかない。特に琴梨に対しての感情は、彼らが勝手に築き上げた琴梨の理想像から語られているようで、ぐっと拳を作る。振るうためではなく、耐えるための拳。爪が手のひらに食い込むのも厭わず、彼らを一瞥した。

「騒がしくてごめん。気にしないで」

 関係ないやつは黙っていろ。心の中で悪態と、舌打ち。

 苛立ちを隠さない、棘のある声に肩を揺らしたギャラリーたち。気まずそうに顔を逸し、そそくさと散る。巻き込まれたくないのならば初めから覗き込まなければいいのに。冷静さを欠いた雨子は、ひとつ深呼吸した。

 駄目だ、明らかに気が立って、無関係な人たちに八つ当たりをしている。良くない傾向を切り替えるよう目を閉じた。

 琴梨には怒っていない。怒りは自分自身にだ。ちゃんと説明できなかった無力さに呆れる。

 はやく、どうにかしないと。焦燥感に掻き立てられ、走り出した。廊下だろうと今は気にする余裕はない。一刻も早く琴梨を見つけ出して話し会わなければ。

行く先は、日向がいる教室。飛び込むように入り込めば、最初に友人の呆れかえった顔だ。至極面倒そうな足取りで雨子に近づくと、「何をしたんだい」と問い詰めた。

「琴梨お嬢様がご乱心だ」

「え、は?」

「凄い剣幕だよ、あそこまで取り乱す姿は愉快だが。如何せん大声で耳障りで仕方ない。どうにかしてくれ」

 酷い物言い。すっと雨子に見やすいように身体を横に避けた友人に怪訝な顔をしつつ、顎で示された方へ目をやる。

「一緒に帰るったら帰る」

「いやでも、今日は雨の日だろう? 車が来るだろうし」

「断るわ。ほら、行きましょう。ごはん、食べるの」

「っ待ってくれ、今日は無理だって、昨日」

「いいから!」

 嫌々と子供のように首を振って、癇癪を起こした琴梨は日向の腕を掴む。引きずるように出入り口へ、つまり雨子が立つ場所まで来た。目の前で琴梨が、雨子を睨む。

「どいて」

 断るのは簡単だ。日向が困っているのは見過ごせないが、このまま言い争いになれば、晒し者決定である。

 逡巡のち、待ちきれなかった琴梨が雨子を力強く押しのけた。とはいえ、細腕ではたかがしれている、よろけずに道を明け渡した。

「琴梨! 何して」

「日向は私の言うことだけ聞いてればいいの!」

「……っそれでも」

「私、話があるの。だからついてきて」

 言い合う背中が遠くなっていく。剣幕に圧倒された雨子の肩を、友人が叩く。しっかりしろと手を繋いで、引っ張る。

「何をしているんだ、追いかけるんだ」

「え。あ、あぁ。でも、話し合うなら邪魔は」

「真面目なのは良いことだが、恋する乙女ならば邪魔する勢いをつけるべきだよ」

「恋する乙女って止めて欲しい。ものすごく恥ずかしいから」

 乙女の認識ならば配慮してくれ。

 ぐいぐいと、とんでもない力で連れて行かれる。もつれる足、転ばないよう必死な雨子に、打って変わって友人は。

「……どうかしたの?」

 凍てつく表情。感情すら乗らない冷たい瞳が、まっすぐ前だけ見据えている。喜怒哀楽が抜け落ち、人形とすら思える友人の姿にぞっと、身を震わせた。

 友人の力強くなり、雨子の手がぎしりと軋む。痛みに訴えられる雰囲気はない。誤魔化すように握り返した。

「行くよ」

 抑揚ない声に従い、雨子はうなずいた。

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