変わってしまった

「それで? 奴は、どんな姑息な手を使って雨子の愛妻弁当を手に入れたのだい?」

「誤解を生む言い方はやめて」

「大金か? それとも甘言?」

「勘弁して」

 朝から言い合いをしつつ、雨子と友人は校門を通り過ぎた。

 しとしと細雨が降り続ける。濡れた傘を置くと昇降口で上履きに履き替え、教室へと向かう。がやがやと騒がしい校内、雨音すらかき消す。

「私だって愛妻弁当食べたことないのに」

「まず誰の妻じゃないんだけど、それにこれはお礼だから」

「なんのお礼だい」

「助けてくれた、手当してくれた。そのお礼」

「律儀だね」

 むしろお弁当で礼になるのか不安だ。不満そうな友人を一瞥してから、学生鞄に入っている弁当箱へと意識を向ける。

 保健室の一件から日向に変化があった。たまに雨子と、ふたりきりのときだけ、空気を和らぐのだ。ネクタイを緩めて、ゆったりする姿に気を許されたのだと思いたい。希望が混じった願望に近いが。

 口調も砕けてお互い遠慮が減り始めている、悪いのではなく信頼によるものだろう。

 お弁当を言い出したのは日向からであった。珍しく琴梨がお休みの日。一緒に食事をして、玉子焼きを食べてもらったとき、いたく気に入ってくれた。

 雨子の手作りお弁当に羨ましがる姿に思わず「明日にでも作ろうか」と提案した。きらきらと少年のように目を輝かせる期待に満ちた彼に、今更照れくさいし人様に披露できる腕前でもないと否定はできない。そのまま軽く約束したのだった。

 しかし家では出来合いの惣菜らしい。妹が一度料理に挑む事件があったが、曰く「この世の生物が食べれるものではなかった」遠い目をしていた。思いを馳せる目が虚ろだったのは気の所為だ。おそらく。

「……まぁいいけど。あとでね」

「えっ? 一緒に行かないの?」

「私は教師に呼ばれててね。先に職員室に寄るよ」

「何したの?」

「人聞きの悪い。ただ、テストで記入漏れがあっただけさ」

「へぇ……え? それだけで呼び出しって。何を記入しなかったの、クラス?」

「名前」

 ひらりと手を振って、去っていく背中に雨子は苦笑した。名前を忘れたら例外なく零点にされるはずだが、大丈夫なのだろうか。

 そのまま立ち尽くした雨子の後ろから一人横切った。人影は友人へとついていく。あの後ろ姿は友人の恋人だ、どうやら一人になるのを待っていたらしい。

 まるで付き人のような姿、律儀なのを甲斐甲斐しいと思うべきか。それとも見張っていたと不気味に感じるべきか。雨子には判断はつかない。彼らの関係に突っ込むわけにも行かず、そのまま教室へと歩みを進めた。

 開いているドアの前に立つと、ふわりと甘い花の香りが鼻に届いた。顔を上げれば、琴梨と日向がすぐそばの、端っこで話している。

「あ、おはよう。今日は遅かったね」

 雨子に気がついた日向の挨拶に笑みを作った。前まではスルーし合っていたが、こうして言葉を必ず交わす。友達という響きがよく似合う。

「おはよ、電車が遅延してて。授業に間に合って良かった」

「遅れても怒られないよ。寝坊じゃないから」

 いたずらっ子のような笑顔に、雨子は手を振って答える。そのまま自分の席へとついた。どれだけ仲良くなろうと琴梨の前では上手く喋れない。二度ほど琴梨に話しかけたのだが、前までは返事をくれていたのに、あの事件以来無視されるようになってしまった。あまり良い印象は抱いていないらしい。……当然、なのかもしれないが。

「今日も雨ね。ねぇ今日も一緒に帰れないの?」

「うん。琴梨は車だろ」

「あら、日向も一緒に乗ればいいのよ。日向だって雨は嫌いでしょう?」

 鈴のような声はよく響く。それは周りの人間も同じらしく、ちらちらと目線を二人にやっていた。注目を集めるが当人たちは気にしていないらしい。それか慣れているのか。

 鞄から教科書を取り出し、片付け終わる。後は先生を待つだけの手持ち無沙汰の雨子は何気なく彼らへと目を向けた。

「ねぇ、日向」

 心底嬉しそうに、花が綻ぶ微笑み。甘えるように、日向の腕と絡めるためか、細く指が伸びた。瞬間、蘇った記憶が重なる。彼らは何度も腕を組んでいた。

 馬鹿だ、いつも痛みを覚えていたくせに。日向と仲良くなって、図に乗って、油断した。琴梨を嫌いになりたくない、汚い感情で満たしたくない一心で顔をそらそうとして。

「――え」

 琴梨の声が落ちた。彼の腕は、するりと抜けて。まるで避けるように動いた。無意識だったのか日向自身も目を見開き、腕を眺める。そのまま、のろりと雨子に向けられ。

「――」

 目があった。

 がたり、と椅子を揺らして立ち上がる。五月蝿い心臓に、喉を締め付けられるような圧迫感。ぎしりと互いに硬直して数秒後、彼は困ったように目をそらして俯く。

 金縛りが解けて雨子は、縋る何かを探した。喜びなどない。疑問と不安、焦燥感で思考が纏まらない。ぐちゃぐちゃのまま、琴梨を見てしまった。

「っ!」

 花が、枯れていた。今にも泣き出しそうに顔を歪めて、涙が一筋こぼれた。その悲しく見捨てられた瞳が雨子を射抜き、責め立てた。

 変化は、決して良いことばかりを運んでくる訳ではない。何かを破壊してしまうのは予測できたはず。雨子は、自分の軽率さと愚かさに言葉すら失った。

 わたしは、琴梨さんの、邪魔をした。関係を壊してしまった。

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