進む恋

苛む過去への救い

 保健室のドアを開けて、二人中へと滑り込んだ。本来教師が待ち構えていたはずだが、どうも席を外しているらしく、がらんとしていた。

 ベッドにも人影はなく、グラウンドから聞こえる生徒のはしゃぎ声が遠くの方から響いている。

 つんとした消毒液の臭い。苦手な場所だが我が儘など言っている場合ではない。後ろの日向へと振り返った。

「先生いないね。私の手当てじゃ不安だし、呼んでくる」

「大丈夫。自分でできるから。それに血は出てるけど見た目ほど、酷くはない」

 勝手知ったる他人の家、いや保健室。日向は迷う様子もなく、テキパキとガーゼや消毒液、タオルなど用意していく。どうやら何度もお世話になっているらしい。

「とりあえず、冷やさないと」

 冷蔵庫から保冷剤を取り出し、タオルで包む。雨子の赤紫に変色した患部へと巻き付ける手際は慣れたものだ。

「骨に異常はないと思うけど、一応病院には行った方がいい」

「ありがとう。次は、日向くんの番」

 有り難い進言だが、そこそこに遮った。それよりも痛々しい頬への治療に、すぐさま取りかかりたい。

 本当は手首などより、彼を優先したかったのだ。

「俺なら平気。これくらい問題ない」

 気にしてくれてありがとう。と礼を言う彼との間に、明確な線が引かれた。にこりと笑う顔はまるで能面のよう。

 大好きな笑顔なのに、理由は簡単だ。嘘だからだ、ひたすらに本心を奥底に隠しているのだと察する。それほどまでに、彼はわかりやすかった。

 前までは、表面上に受け取っていた。だが今となれば虚像が築かれていると、手に取るように分かる。

 ぎゅう、と心が締め付けられる痛み。指先が冷えていくのを誤魔化すように握りこぶしを作った。かすれた情けない声を絞り出した。

「琴梨さんを守りたいのは知ってる。でも、それで日向くんが怪我するのは、間違ってるよ」

「……痛くないんだよ。本当に」

「嘘だ、だって」

「もう慣れたから、これぐらい痛みを感じないよ」

 なんて、悲しいことを言うのだろうか。言葉を失った雨子に、彼が眉を下げて、はは、と息を吐き出すように乾いた笑いをこぼす。

 ああ。そんな笑顔が欲しかったんじゃない。私が好きなのは。

「鍛えてるしね。これぐらいは。それよりも、そっちの怪我は」

「いたい」

「腫れてるもんな。やっぱり今すぐにでも」

「ちがう、違うっ」

 強めの語気で否定をかぶせる。どくどく、うるさい心臓を服の上から押さえ込むように手を当てて、息を整えた。腹の底にたまる激情をぶつけないように、慎重になれと自分に言い聞かせた。

 平気じゃない。危ないこと変わりはない。

「日向くんはさ、私が怪我したら凄く心配してくれたよね。自分が殴られたときより、痛そうにしてた」

「そりゃそうだよ。だって、君は違うだろう。慣れてないし、それに」

「同じだよ。一緒だよ」

 何の差異もないはずだ。現状、雨子が感じているのだから。彼の思考を完全に把握できるなど、大口を叩けない。

 だが、それでも。彼の優しさは、あの雨の日から知っている。靴をくれた彼を、目を閉じれば瞼の裏に鮮明に浮かび上がる。

「私は、日向くんが怪我したら、痛く感じる。同じでしょう」

「、そ、れは」

「日向くんが怪我した、悲しむ人は、たくさんいるよ」

 雨子だけではない。ツンと横を向く友人だって、口では冷たくとも気にかけているだろう。琴梨もズレているが、きっと辛い。

「だから、自分を蔑ろにするのはやめて。悲しくて、苦しいよ」

 立ち尽くす日向の手を握った。冷たい、まるで氷のようだ。雨子の体温を分け与えるように、包み込んだ。

 不思議と、恥ずかしさはなかった。モヤモヤと渦巻く、黒い不満方が上回っている。許せないのかもしれない、大好きな人が、己を大切にしないことが。

 これは、怒りだ。

「そう、か。きみは」

 ぽつりと呟くと、ぽすんとソファに腰を下ろした。

 力なく崩れ落ちるようで、慌てて雨子も隣に座る。その間にも納得してもらうまで、決して離すものかと日向の両手を握りしめていた。

 しばらく、沈黙が流れた。遠いどこかを眺めるような瞳には何が写しているのか。ぼぅとした顔は気が抜けているようにも見える。

 じわじわと体温が同じくらいになった頃、ようやくぽろりとこぼれ落とすように「強いね」と言った。

「そんな風に叱ってくれるとは、思わなかった」

「知った風で、生意気でしょ。ごめん」

「ううん。むしろ――ああいや、そうじゃないな。駄目だ、甘えてしまいそう」

「……その、私は日向くんの友達だと思ってる。友達だから、弱音とか甘えるとか、そういうの、しても、おかしくないというか。……と、友達って言ってもいいならだけど」

「友達だよ。とっくの昔に」

 卑下を否定して、彼は言葉を悩むそぶりを見せた。それから、一つ頷く。

「友達、だもんな」

 背もたれに全体重を預けて、だらしなく足を投げ出した。肺の中にある息を全て吐き出すように、深い音。目を閉じる姿は疲れ切っている。

「ごめん。昔話に、付き合ってくれる?」

 もちろんだと、雨子は迷わない。間髪なくうなずいた。






 琴梨と日向の家は昔から親交があった。子供同士も度々遊ぶぐらい仲良くて。だが、普通とは程遠い日常だった。

 身の代金狙いの誘拐犯に襲われるのも少なくなかったのだ。心配した両親はボディガードを雇うことにしたらしい。

 しかし、琴梨は四六時中付きまとう黒服を嫌い、自分の親とも顔見知り幼馴染みである日向を指名した。

「日向がいてくれれば、大丈夫よ」

 日向は一度、迷子になった琴梨を見つけ出した功績があった。

 琴梨の親はそれならばと、渋々了承した。そして、日向の親も。

「琴梨お嬢様を守れ」

「強くなりなさい」

「命に代えても」

「琴梨お嬢様に、もしもあれば、私たちの家は」

「子供でも、男が傍にいるといないでは、違うからな」

 頼み込まれた日向は悟った。自分に拒否権がないのだと。高圧的な四人。  

 琴梨の親と自分の親に睨まれた、その日から悪夢のような日々が始まった。

 鍛えて鍛えて、血反吐を吐くような努力をして。自分を押し殺して。琴梨を守って。それでもボディーガードの能力には到底及ばない。

 自分がお飾りだと知ったのは、中学二年生。誘拐犯に腕を折られて守り切れなかったとき、後ろから黒服が現れて颯爽と助けたのだ。

 当たり前の話だ。

 日向は子供だ、有事に役に立たない可能性の方が高い。だから、表向きは日向を置いて、ボディーガードを琴梨の視界に入らぬ場所に配置していた。琴梨を納得させるためだけに、日向は使われただけなのだ。

「何をしていたの!」

「ちゃんとしろ! なんのために鍛えたんだ!」

「琴梨に何かあったらどうするつもりだね」


 お飾りなのに。

 いなくてもいいはずなのに。

 ただの琴梨へのカモフラージュなのに。


 誘拐犯に襲われ、入院した日向を責め立てたのは、あの四人。二人の両親だ。

 彼らの言葉だけが頭の中に響いて。折れているはずの腕から痛覚が消えていく。

 そうか。

 たとえ飾りでも。

 対処できなければ、責められるのか。

 まるでテレビを見ているように、彼らが遠くなる。身体が、自分のものではなくなるような不快感。

 それ以来、日向は、自分の痛みを殺した。

 心が泣き叫ぶ衝動も、感情も全部。

 鍛えて、琴梨だけでも、守るために。大切な幼馴染みの笑顔を守るために。







 日向の語る昔話。抑揚のない、他人事のような口調。

 いやそれよりも酷い、まるで感情が込められていない。喜怒哀楽が消え失せていた。

「俺ね。雨が好きな理由で、一つ。言ってないのがあるんだ」

 顔を歪めた、まるで自分を恥じるように、憎むように、唇を噛みしめた。己の醜さを嫌悪するかのように、吐き捨てる。

「雨は、濡れることを嫌う琴梨が、車で帰る」

 その日だけは、役目の重圧を感じないから。

「最低だろ。無責任で、情けない。逃げたいって思ってるんだ」

 自嘲めいた笑みだ。ようやく宿った感情が、嘲り。

 痛みから目を逸らしているだけで、今も血を流し続けているだろう。

 雨子は、視界が歪んだ。ぐっと目に力を入れて、耐える。間違っている。泣きたいのは、雨子ではない。

「つ、らいよ」

「つらい?」

「だって、それじゃあ、あなたが、危ない目にあう。壊れてしまう」

 もう、壊れかけている。都合の良い人形になろうと、暗い底に沈んでいこうとしている。

 踏みとどまって欲しくて、日向の手を軽く引っ張った。

 虚ろな瞳が揺らぐのを、確かに見た。

「だって、琴梨さんを狙うのは、大人だよね」

 身の代金だの金銭目的の人間の大半は、大人ではないだろうか。それも鋭利な凶器を使うのも厭わない、危険な人間もいるはずだ。

 いくら後ろでボディーガードが見張っていても、最初に対応するのは、紛れもなく日向だ。

 思わず彼を見つめれば、彼は導かれるように口を震わせる。

「そう、だね。俺より強い人間なんてごまんといる。守り切れなかったらって不安になる。毎日毎日鍛えているけど、それでも適わないから」

 つまり彼は。そんな危機に、もう既に何度も遭遇しているのだろうか。そのたびに叱責を受ける。自分の親からも。

 では、彼を褒めてくれるのは誰がいたのか。彼自身の怪我を心配してくれるのは。

「そういう危険な奴が相手でも、俺にお願いをする彼女の親と、俺の親にも不信感はあるし。……言葉に、しづらいけど、わだかまりっていうか。胸がさ、つまって、苦しくなる。息ができなくなるよ」

 紛れもない本心が垣間見えた。塗り固められた仮面にヒビが入り、合間から覗かせた顔。

 年相応の、まだ守られる対象であるはずの男の子だった。

 頼るべき親にまで危険な役目を言い渡されたとき、彼はどう思ったのだろうか。それはあまりに、息子である自分を心配していないように感じ取れたのではないか。

 推察しようが完全に気持ちを理解できない。ただ、その過去を勝手に想像して、残酷な独りぼっちを思い描いて勝手に心痛めて泣きそうになるだけだ。

 同情、哀れみとも違う。怒りも含む悲しさは、きっと雨子が感じるべきものではない。当人が耐えているのに、赤の他人が苦しむ姿を見せるのは間違っている。

 眉を寄せ、漏れ出そうになる激情を殺す。

 羨望を抱いていた、輝く太陽な日向を。何も知らず、無邪気に、無責任に。楽観的で、彼の想いなど、目を向ける気もなかった。

 ――そんな身勝手な、自分は。恋に恋をしていたのだろう。だからこそ、琴梨に後ろめたい気持ちがあったのだ。相手を思いやれない、恋愛に及ばない気持ちで合間に入ろうとしたのだから。

 なら、今は?

 ふと、湧き上がった自問。それは、と返答を窮したときだ。

「ついさっきまでね」

「……えっ?」

 ふわりと軽くなった声がふってきた。

 幾分か苦しさが緩和されたそれは、今までとも少し異なる、明るい声だ。安心したような、気が抜けたような、初めて聞く声音。

 はっと顔を上げれば、日向がこちらを見ていた。目を細めた柔らかな微笑みが、雨の日の笑顔が重なった。

 あの日以来見れなかった太陽の、雨子が恋をした顔だった。

 とくり、と心臓が跳ねる。あのときと同じ、暖かさが心に広がる。前とは違って羨望ではない、手を伸ばして、彼の抱える全てを分けてほしいという願望。

 新しい気持ちだ。前とは似て非なるもの。

 恋に恋をしたのではなく。今度は、ちゃんと。

「ずっと苦しかったし、今も残ってる。でも、ちょっとだけ、楽になれた」


 ありがとう。


 晴れやかに、覆っていた霧が霧散する。目尻には微かに涙があった。

 何故、雨子に礼を言うのか。首を傾げたが、結局理由は最後まで教えてはくれなかった。

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