片鱗

 ぱたぱたと階段を駆け上がって、姿が見えた。

 飛び込むように入ってきた友人は、意外にも息が切れている。

 いつも余裕を崩さない彼女らしくない、と目を見開けば。

 友人が顔を歪めた。

「雨子、きみ……!」

「呼んできてくれてありがとう、助かったよ」

「無理は駄目だと言っただろう」

「言われてないけど」

「いつも言っている。だから常時無理をしないでくれ。ああ、手首が腫れてるじゃないか!」

 ぎゅむ、と不良の足を踏みつけて駆け寄る。

 ぎゃあっと不良が鳴いたが、全く聞こえていないらしい。

 眼中にないと、雨子を抱きしめた。

「あんな不良と常識知らず無神経娘なんて、ほっとくべきだ」

「失礼なこと言わないで」

「今回は七割、あの娘のせいだ」

「あと三割は?」

「二割、不良。一割雨子」

 やはり、雨子には甘い。飛び込んだのだから自己責任なのだが。

 琴梨さんも、悪い人じゃない。

 空気を読んで、その言葉は飲み込んだ。

 友人の怒りの炎に燃料を投下するつもりはない。沈黙が正解。

「おーい、聞いてるか? なんだお前、大丈夫か? おとなしいな。頭打ったのか?」

 やってきたのはあの、人気の先生だった。

 ぺちぺちと頬を軽く叩いている。

 叩かれた不良は、呆けたように、ぽかんと口を開いたまま。

 投げられたショックが強いのか。

 自分より身長が低い相手に、負ける訳がないとでも考えていたのだろうか。

 正直、雨子も勝てないと思っていた。

「悪いな、葵」

「いえ。平気です」

 不良を渡して、にこりと微笑む彼は一瞬だけ眉を寄せた。

 痛みに耐える表情に、雨子は勇気を出して口を挟んだ。

「……あ、あの、ごめん。私のせいで殴られちゃって」

「そんなことない。来るの遅れて、ごめんな……手首大丈夫か」

 腫れてるな、すぐに冷やした方がいい。

 真剣な顔に、雨子は首を横に振る。

 それはこちらの台詞だ。明らかに日向が大変である。

 見ているだけで痛みが移りそうだ。

 赤から青紫になっている患部を確認し、教師へと向き直った。

「あの、日向くんは、今すぐ保健室に行っても?」

「おーそうだな。お前も一緒に手当してこい」

 教師は心配そうに了承した。

 妙に静かな不良を捕まえたまま、頭を掻いて、ぐるりと見渡す。

「すまん、お前と、お前。一応状況の説明とか聞きたいから、ついてきてくれ」

「人を指でささないでもらえますか」

「おーおー、今日も元気だなぁお前は」

「馬鹿言わないでださい。今日はテンションがた落ちです。死にかけてますけど」

「お前、いつも同じテンションだから先生わかんない」

「そんなのも分からないなんて、それでも担任ですか。教師失格ですよ」

「よーし、いつも通りだな。先生、嬉しくて泣きそうだ」

 先生は、当事者である友人と琴梨を選ぶ。

 友人は軽口を叩いているが、どこか不機嫌そうだ。

「すまない、雨子。付き添いたいのだが、無理そうだ。そこの軟弱な男で我慢してくれ。頼りないだろうが許してくれ」

「……あのなぁ」

「なんだい、文句あるのかい。なら証明してくれ。君が頼りがいのある男だと。例えば、お姫様抱っこで彼女を保健室にエスコートするとか」

「いや、それ注目浴びて、恥ずかしさで逃げたくなるやつだろ」

「本気でしたら私は、きみを殺さなければならない……。何故、私の可愛い雨子を、君に触れさせなきゃならないんだ。は? 触れるな。殴ろ」

「一人で完結して暴力振るうのは止めてくれ。怖いぞ」

「お姫様抱っこするなよ。指一本触れるなよ」

「しない。というか、されたくないだろ……」

 友人と日向の会話に全力で頷く。

 お姫様抱っこなど、人生でされたことがない。されたくもない。

 テンポの良い二人を眺める。

 先ほどの緊張と恐怖から解放され、今の穏やかな日常に浸っていたい気持ちになる。

 危険に晒された雨子に、気を遣ってくれて冗談を言っているのか、通常運転なのかは不明だが。

 おかげで気分が楽になった。

 あとは彼に誠心誠意謝罪、怪我の手当をしよう。

 先生が琴梨を連れていくのならば、周りの好奇な眼差しに晒されて、話しかけられることもないだろう。


「――まって、嫌よ」


 琴梨が、叫ぶように教師を拒絶した。


 日向へと抱きつく力を強めた。

 いつもお淑やかで静かな声の彼女とは別人のようだ、取り乱し、涙をこぼした。

「嫌ったら嫌」

 子供のように、ぐりぐりと日向の肩に頭をこすりつけて、頬と頬をつける。

 日向が痛みに顔を歪めた。

 怪我をしているのを、琴梨はまるで見えていないように。

「琴梨、落ち着いて。先生も困ってる。すぐに向かうから」

「嫌よ、ずっと一緒だって言ったじゃない! うそつき!」

「っごめん、だけど」

「日向も一緒に来てくれるでしょう? いいわよね?」

 拗ねた顔で、彼の両頬を引っ張った。

 子供の悪戯だ。きっと、そこに意味はない。

 そう。何も、ない。

 日向が頬を切れて、青紫さえ。

 彼の痛みを訴える声も。

 表情も。彼女は。

「――日向くん!」

「きゃっ……!」

 見ていられなかった。

 彼は最後一瞬、全てを諦めた顔をした。

 痛みを奥底に押さえ込んで、彼女の望みを叶えようと、笑った。

 痛々しくて、怪我よりも苦しそうで。

 自分の心をないがしろにする、それが、あまりにも辛くて。

 彼女の驚き、怯える悲鳴を聞きながらも、雨子は構っていられない。

 分かっている。自分が入る隙間もない関係なのだから、自分が口を出すのもおかしい。

 しかし、それでも。

 雨子の心はきしみ、耐え切れなかったのだ。彼が我慢できても。

「早く、傷、冷やそう。駄目だよ、そのままにしたら。琴梨さんも、お願いだから、先に保健室へ」

「怪我……? 大変! あとで一緒に保健室に行きましょう! きっとすぐに治してもらえるわ」

 はにかむ彼女は、美しい。どこまでも。哀しいほどに。

 日向は、笑顔のままだった。

 まるで人形のように。

 全て押し殺して、ただ、彼女が正しいのだと、納得したように。

 ぎゅうと胸が締め付けられる。

 雨子は息苦しさに、視界が歪んだ。傷も心配だ。

 だが、それを上回る歪さ。

 片鱗、彼らを観察すれば違和感はあった。

 しかし、これほどまでに壊れかけていて、ねじれているとは想像もしていなかったのだ。

「だめ、だよ。それじゃ、日向くん、苦しいよ。ねぇ琴梨さんも嫌だよね、日向くんが、大切な人が、痛い思いしてるのは、嫌でしょう」

「どうして? 日向は苦しくないわ」

 絞り出した必死な願いを、琴梨はキョトンとした顔で蹴る。

 瞬間、雨子は絶望に落とされ、目の前が真っ暗になった。

 彼女は。日向の怪我を、そもそも気付いていなかった。

 患部は頬だ。

 目を合わせていた。

 泣きついたとき触れていた。

 それなのに。 

 言われて、ようやく。

「わか、った」

 ぽつりと声が出た。無意識だ。

 するすると、雨子の意思関係なく円満解決に導く提案を口に出す。

「私が、職員室に行きます。ですから、琴梨さんと日向くんは保健室に」

 そうだ。二人を引き離すのが駄目ならば自分が行けば良い。

 状況説明は雨子でも十分だろう。

 心の中で 、ふつふつと煮えたぎる熱を飲み下して、なかったフリをした。

「雨子それは」

「駄目だ!」

 友人にかぶせるように、日向が叫んだ。

 どこか痛ましげな、悲鳴じみた制止に、誰もが息をのみ目を向けた。

 幾つもの目線に晒された日向は、はっとしたように言い淀む。

 気まずそうにしたが、再び「行かないと、駄目だ。手首が腫れてる」と続けた。

 指摘されて患部に意識がいく。

 じわりと痛みが広がるそれ。

 しかし殴られた彼に比べれば問題はない。後回しでも。

「別に痛くな――」

 言いかけて、雨子は瞠目する。

 彼の泣き出しそうな顔が酷くなっていく。

 心配そうに揺れる瞳を見届けて、そこでようやく理解したのだ。

 同じだ。今、雨子は琴梨と同じことをしようとした。

 心配している誰かを後回しにしようとした。

 悲しくて止めに入ったくせに。

 彼が雨子を心配しているのを知っているのに。繰り返そうとした。

 琴梨は日向を後回しに。雨子は日向の傷を心配しているのに。

 雨子は雨子自身を後回しに。日向は雨子の傷を心配しているのに。

 ぐっと押し黙り、次に発言すべき内容を模索したが、見つからない。

 押し切れば勝手に琴梨は行動し、保健室に日向をつれ行くだろう。

 だが、それでは。日向が辛いのは変わらないのでは。

 ぐるぐる堂々巡りの雨子に、終止符を打ったのは。

「……いい加減にしないか。君、葵日向をなんだと思っているんだ。おもちゃじゃないんだぞ」

 友人の忌ま忌ましげな舌打ちをだった。

 琴梨の手首を握る。

 痛いわ、と眉を下げるのを彼女は黙殺した。

「大事なら、彼の傷を優先させろ。我が儘を言って、他人の迷惑も考えない行動はするな」

「考えているわ!」

「わめくな。だからお前は成長しないんだ。甘やかされて蝶よ花よと育てられて、ガキのまま」

 散々な言いようである。

 そこで初めて友人が、怒りに燃えていることに気が付いた。

 憎悪ともとれるほど、蔑んだ瞳。嫌悪感に溢れた言葉たち。

 今まで琴梨と衝突していたが、その比ではない。

 固まる雨子に、友人が表情を和らげた。

 ぱっと切り替える姿は恐ろしい。

 反撃すら許さない威圧感を受けて、口が貝のように閉じて動かない。

「さっさと行くといい。言いなり男を連れて」

 どうやら日向にも怒っているのだろう。

 友人から庇うように立ち塞がれば「ちっ守られやがって」と呟いた。

 口調が崩れているよ。心の中だけで指摘した。

「でも、まぁ」

 ふと思い出したように、友人は白々しい態度を取る。

 幾分か怒りが静まっており、唇には微かに笑みが乗っていた。

「まぁ、先ほどの一言だけは、良かったかな。蟻の一歩分くらいは見直したよ」

 琴梨の手を掴み、歩き出す姿は、さながら容疑者を連行する警察である。

 半笑いの担任は、身を縮こまらせてついて行く。

 もはや先導するのは友人である。異様な光景だったせいで、周りの意識も全てそちらに向けられていた。

 今のうちだ。雨子は、後ろにいた日向の手を握った。

「保健室に行こう」

 ぽかん、としていた。固まっている彼を不思議に思いつつ、こそこそと保健室へと歩いた。その間、日向はされるがまま、ただ雨子を見つめていた。

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