羨望の恋

もう戻れない

 ぴぴぴ、と電子音が響いて意識が浮上する。

 ぱちり、と目を開ければ、見慣れた天井。窓から入ってくる太陽の日差しに眩しさを覚えて、数度瞬きをした。

 二度寝したい衝動抑え付けて、どうにか上半身を起こした。

 壁際の、整理されている勉強机の上には、昨日嫌々ながらも用意したクッキーがあった。綺麗なラッピングされたそれに、現実を思い出す。

 ぽすんと立てた膝に顔を埋めた。

「クッキーの形も大事だけれど、何よりも大切なラッピングよ。ピンク色でリボンとかつけて、とにかく男ウケする可愛いを意識するの。私のやつあげるから、ちゃんとしなさい」

 姉に「何故ラッピング用品を持っているのか」と問いかければ「いつ必要になるか、わかんないでしょ、良い男っていうのは突然現れるもの。待ってくれないの」と自信満々に言い切った。

 まるで男が何か別の生き物のように扱う。

 よく戦うゲームとかで遭遇する化け物か何かとでも思っているのだろうかと疑いたくなる。

 渡すつもりなどない、無駄になる。

 まるで自分に言い聞かせるかのように呟く。それでも雨子は、こっそり自分で食べてしまえば良いという、簡単な回答を選ぶ気にはならなかった。

 きっと心の底では、何かに期待しているのかもしれない。

 無様にも誤魔化して隠しているくせに、期待を抱く己の汚さに嫌悪した。

 寝癖のついた頭をガリガリと掻いてベッドから立ち上がり、夜着を脱いで身だしなみを整えた。持ち物を確認した後に、意識しないようにしていたクッキーを手に取る。

 無造作に鞄へ入れようとしたが、このままでは折角のラッピングが台無しになってしまうと、寸前で止める。滅茶苦茶になるのを躊躇うなんて、思い切り渡すつもりなのか、と舌打ちしたくなった。自分の気持ちだというのに、ままならない。

 暫し悩んでいると、事前に姉から押しつけられていた小さな紙袋を思い出した。何のための紙袋なのか、雨子にはそのとき分からなかったが、ラッピングが崩れない為だったのだろう。

 準備の良いことだ。有り難く使わせて貰うことにした。




「おや、おはよう」

 教室に入ろうとドアに触れるより早く、開かれた。驚いた雨子の目の前には友人。どうやら彼女が出ようとしていたらしい。

「おはよう」

「雨子、来て早々なんだが。今は教室に入らない方が身のためだ」

「え、何かあったの?」

「早く着きすぎるのも考え物だね」

 至極面倒そうに、体を横にずらすと、教室の中を見るように促した。

 不満さを隠そうともしない友人の様子に違和感を覚えつつ、雨子は大人しく従い覗き込んだ。

 日直すら登校していない時刻だ、人などいないだろうと思ったが、それは間違いであった。

 教室の隅、昨日お世話になった日向とお嬢様が、二人並んで窓から外を眺めていた。

 くすくすと笑い合い、楽しげ。日向が目を細めて、優しく、愛おしげに彼女を見つめる。その視線に含まれているのは、疑いようもない愛情だと雨子は気付いてしまった。

 鋭利で残酷な刃が胸に突き刺さり、血があふれた。呼吸がうまく、できない。

 雨子の感情も疑いようもない、これは明らかに。

 睦まじい姿から逃げるように、雨子は目を背けた。

 体は素直で、見たくないと理解するより早く動いてしまう。

 苦しい、と訴える心を踏み潰した。芽生えた思いなど、なかったことになればいいのに。

 どうしようもないことを、雨子は願ってしまう。

「あめこ、きみ――」

 茫然としたような、意味すらないような声が名前を呼んだ。

 反射的に顔を向ければ友人が目を見開き、瞬きすら忘れて雨子を見つめていた。

 驚き、困惑が入り交じった表情に全て見透かされているような気持ちになる、雨子自身が認めていない感情さえも、彼女には見抜かれているような気味悪さ。

 いたたまれなさに身動ぎして、逃げたくなる衝動をこらえた。

「なにも、言わないで」

 雨子の口から溢れた落ちたのは、懇願。

 頼りなく震えた声に、友人が苦いものを飲み込むように顔を顰めた。それから数秒沈黙して、吐き捨てるように呟いた。

「正気かい? 彼に思いを寄せるなんて。彼に関わると必然と、あのお嬢様との問題も、出てくるのだけれど」

「……っ別に、伝えるつもりはないよ」

「きみは、彼らを避けていたと思ったんだけれど、私の勘違いだったのかな」

 友人の言葉は、雨子が認識したくなかった感情を、強引に引き出すようだった。

 なかったことにしたかったが、友人の些細な言葉で表に現れるのだから、恐らく隠し通すのは不可能であったのだろう。

 雨子は自分の震える手を強く握りしめた。

「確かにそうだね。面倒は嫌だから。でも」

 ――菊永さんの名前すきなんだ。

「初めてだったから」

 無意識に、ぽつりと落ちた言葉。宝物の話をするかのように、ゆったりと噛みしめるように。

「名前を、あめを、好きだって言ってくれたの」

 ――優しくて、綺麗な名前だから。

 雨子は自分の名前が何よりも嫌いだ。雨も大嫌いで、憎むべき対象でしかない。

 なのに彼は、優しいと、癒やしだと微笑む。

 彼の目にうつり、感じる全てが雨子とは異なっているのだと、そう。

「彼も住む世界が違うって思ってしまったの」

 自分には届かないものだからこそ、恋い焦がれてしまう。雨子にとって希望すら抱いた。

 そんな風に思えたら、雨を好きになれたら。同じ世界に居られたら、どれほど幸福だろうと。

「夢見がちな妄想。馬鹿げてる。……分かってるんだけどね」

 もし彼の思いを共感できれば、感じ取られれば。雨を今よりは好ましくなれば。そうしたら。

「雨子、それは短絡的だ。発想が飛びすぎていて滅茶苦茶すぎる。もし雨を好きになろうとも、君は君自身を好きにはなれない」

 残酷な断言。

 友人は意地悪をしている訳ではない、ただ真実を伝えている。何より雨子がのめり込まないように、間違えないように引き留めようとしてくれている。

「君は、今は熱に浮かされている状態だ。冷静な判断が出来ないのだよ」

「そう、なのかな」

「そう、無責任に優しくされて。弱った心には毒のように回った、それだけ」

「無責任だなんて、そんなの」

「雨子、本当は全部理解しているんだろう。なかったことにしているだけで」

「……そうだよ、知ってる」

 知っている。この思いが彼と通じ合うのは困難であることも。

 知っている。幾ら彼の思考に近づこうとも、コンプレックスは――雨子自身は、救われない。

 知っている。彼には、あの子が、いる。

「きゃ、風で雨が入ってきたわ」

「大丈夫? 琴梨、そろそろ窓を閉めよう」

「ええ、ありがとう。……早く晴れないかしら」

「しばらくは、雨が続くはずだよ」

「待ち遠しい、雨が降ると困ることが多すぎるもの。帰りも車で、つまらないわ」

「……髪、濡れてる」

「さっきの雨のせいね、拭いてくれる?」

 ああ、本当に。彼らの間には一ミリだって隙はない。

 雨の水滴が、彼女の艶やかな黒髪に伝う。きらきらと美しく輝くのを当然のように、彼の指が拭った。

 二人が纏う空気が甘やかで、他者を拒絶しているかのようで。

 見つめ合うのを、雨子は眺めることしか出来なかった。

 この空間から逃れるが為に友人は、出ようとしていたのだろう。

 雨子も、とてもではないが、入りたくない。小さく息を吐いて、踵を返そうとした。

「あ、菊永さん!」

 彼の、声が。雨子を呼んだ。

 ぎくりと固まるのも、お構いなしに手を振った。

 友人が舌打ちしたが、聞こえなかったふりをして、彼へと頭を下げた。一瞬躊躇してから、雨子は笑顔になるように意識した。できる限り平常心を装ってから傘を差しだして「昨日はありがとう」と一言だけ伝えた。

 恐ろしさから、琴梨にも、日向にも目を向けることは出来なかった。

 鞄に入った、満更でもなく作ったクッキー。もう彼に渡されることはないだろう。

 それが、やけに重く感じた。

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