幕間

太陽と罪人

「もう、日向。遅いわ、待ってたのよ」

 自分の家と比べ物にならない敷地。立派な門構えを潜る。庭園と呼んでも差し支えがない程、手入れが行き届き、噴水まで設置されていた。見慣れたとはいえ、どうしても辺りに漂う雰囲気が苦手であった。

 瑞々しい花々を一瞥し、豪邸の玄関前で待ち構える琴梨へと謝罪をした。

「ごめん。ちょっと雨に濡れて着替えてた」

「大丈夫? だから一緒に車に乗りましょうって言っているのに」

「……うん、ありがとう。でも、俺は雨の中を歩くの嫌いじゃないから」

「変わっているわね」

 幼い頃から琴梨は、そう評する。否定が通じないのは身に沁みているので、曖昧に笑って誤魔化した。

 雨は好きだ。一人になれるから。

 本心を伝えれば、純粋で無垢な琴梨は困惑するだろう。何も教えられず育ってきた彼女は心に鎧を纏わない。その代わり聞き流すという防衛手段を取るのだ。

 そもそも危害を加える輩は、彼女に接触する前に排除される。

 厳重に守るという建前で、鳥かごに囚われた少女。自覚すらさせてもらえず大人の道具にされる。

 同情とは違う感情から、無視出来ないでいた。

「今日はね、司さんが来てくれてるの」

 厚い雲に覆われた空を見上げていれば、琴梨が手に触れる。

 指を絡ませ、声を弾ませつつ報告された内容に、一瞬家の中に入るのを躊躇した。

 司。彼は自分たちより三つ年上の男性であり、琴梨の婚約者である。幼子の内から面会し、仲も良好。温厚な性格で打ち解けるのも早かった。

 家柄も申し分ない男が琴梨に恋情を抱いているのは、誰から見ても明らかだった。

 容姿も相まってお似合いの二人である。

 日向も司が嫌いではない。

 むしろ同姓という気安さ、琴梨に関して深く知る人物として信頼を寄せる相手だ。

 だからこそ、この状況が嫌に息苦しかった。

「琴梨、俺」

「三人で、お茶しましょ」

 遮ったのは決して、わざとではないだろう。

 彼女は頬を紅潮させて司が待つであろう部屋へと急ぐ。

 彼女の軽快な足取りとは反して、自分の足は鉛のように重かった。

 司は、日向と琴梨の間柄に十分な理解を示している。琴梨の未熟な精神を肯定し、それら全部愛する男だ。寛容で、末恐ろしさを覚える不気味さを称えた彼は、日向については言及しない。たとえ。

 ――たとえ、琴梨が。日向と司を同じぐらいに愛していても。

「三人で集まれるのは、久しぶりね」

「うん、そうだね」

「やっぱり三人が一番ね。お父様に言って、過ごせる時間を増やして貰おうかしら」

 琴梨は幼い。親愛と愛の区別が出来ないほどに無知で無垢で、強欲だ。

 司と結婚するのを是とし、なおかつ日向を手放さない。想像すらしない。

 全てを奪われ、全てを与えられた少女は、手に入れた物を失う選択肢を知らない。

 日向の父親は厳然たる態度で「必ず従え、守れ。怪我をさせてはならない。父さんに恥をかかせるな」と言い聞かせる。

 日向の父は、琴梨の母と幼馴染みであり絶対の信頼を受けていた。

 その縁だからなのか、はたまた別の何かなのか。父は己が命より琴梨の母を、ひいては娘である彼女を優先した。息子に厳命する程に。

 ――彼女の世界は、両親、司、日向だけで構成されている。

 それ以外は望んですらいないのだ。

 日向が離れるのすら寛容できないのだと言外に伝える。

 事実、琴梨以外の人間と関われば「どこに行くの?」「私といないと駄目でしょう?」と問いかける。幾度なく交わされた会話に隙などない。

 光景、声がよみがえった。

 小学生の頃、一度だけ別の用事を優先したことがあった。

 日向が他の誰かと仲良くなるなんて有り得ないわ。だって私と、ずっと一緒にいてくれるのでしょう。なのに、どうして。

 昔。とある同級生と出掛けようとして、引き留められた際の発言。

 大人しく従えば良かったが、日向には、結果どうなるかなど想像すら出来ていなかった。何せ琴梨に歯向かったのは、初めてだったのである。

 ただ新しい友人との遊びに胸を弾ませていた。

 夜。放っておいたのを、彼女から聞いた父は激高した。

 激しい叱責のち、凍てついた空気に肌が痛みを訴えるような寒空の下に、一晩放り出された。

 翌日。寒さで満足に動けない自分に、彼女はしがみつき寂しかったと泣きついた。

 慰めるように、謝罪するように凍えた手で頭を撫でた。彼女は不満げに顔を蹙め、二度と離れないでと棘を刺した。

 日向の心に深い傷をつけた出来事は、今も脳裏にこびり付き消えてはくれない。

 拒否する選択肢は端からない。

 父からの圧力、彼女の屈託ない信用にも似た妄信。凍りついた記憶が日向の思考を鈍らせ、裏切るなど到底不可能だと思えた。

 彼女と司に挟まれる空間は苦痛だとしても。

「さぁ行きましょう」

 自分とは違う、細く、白い手が導くように引っ張る。か弱い少女の力。日向ならば軽く振り解ける。

 だが、それは。この世にある、どの物質よりも硬質で外れない枷だ。

 大人に都合が良い人形に仕立てられた彼女。

 境遇を察しておきながら、何もせず傍観した罪だとでもいうように、日向の体は自分の物ではなくなっていた。友人関係すら思い通りにはならず、言われるがままだ。

 こうなったのもお前のせいだ。ありもしない幻聴が苛む。

 息苦しい。

 胸中に浮かんだ感情に目を細める。

 顔を上げれば、彼女が微笑む。太陽のような輝きは、日向を残酷なまでに焼き尽くす。不格好になりつつも笑顔を返した。

 ふと、先程会った少女を思い出した。雨のように静かで、優しい少女を。日向自身を心配した、初めての人物。

 困ったように笑う姿に、日向が意識を奪われそうになった時。

 琴梨が阻むように声をかけた。

 雨の少女は、幻影のようにゆらりと揺らめいて霧散する。

「司さんも、日向を待っているわ」

 どうだろう。頼りない言葉は音にはならず、口の中で溶けた。

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