矛盾

「ありがとう、おくってくれて」

 駅前に着き、頭を下げる家まで送ると言う日向を、どうにか説得して納得させた。不満そうな心配しているような表情を見せる彼を直視できず、俯いたまま唇を噛みしめる。

 傘を今のうちに帰してしまえ。

 心の中に浮かんだ警告に、雨子は傘の柄をつかむ手に力が入る。返してしまえ、面倒事になる。

 明日、学校で、などクラスの人間に見られてしまう。

 いや、それだけならばいい。彼の隣には常にご令嬢がいる、どういう反応するかは浅い関係である雨子には想像できないが、今朝のあの目を向けられるような状況をわざわざ作る必要もない。

 今のうちに関わるきっかけなど潰してしまえ。

「それじゃあ、気をつけて帰ってね」

 苦笑をしつつ彼は手を振る。待ってと言うはずだった口からは「また、明日」と別の言葉を吐いていた。

 遠ざかる背中に、今なら呼びかければ間に合う、それなのに身体は動かない。ついには彼の姿が消えても何も出来ず、ただ棒のように立っていた。

 空を見上げる。忌ま忌ましかった雨は降っていない、灰色の雲は残っているものの隙間から太陽の光が差し込み、青い空がのぞいていた。綺麗だとは思う、今間の雨子なら嬉しさに笑みこぼれ、安心感を抱いただろうただろう。それほどまでに雨が嫌いだ。だが。


 俺はね雨が好きなんだ。


 きらきらと、太陽の光など霞むほど美しい瞳の彼が笑った。きっと大した会話とは相手は思っていないだろう。せいぜい世間話程度。だが雨子の心に深く残り、じわりと熱くさせる。

 傘を握っていない手を心臓部分に当てる。服の上からでは心臓の動きなど分かりもしないが、それでもいつもより脈が速い気がした。

 傘を、返さなかったのは。もし、電車を降りて、最寄り駅から家までの道を歩く途中で、雨が降ってきたら困るから。折角貰った服を濡らして汚してしまう。

「だから、だから……」

 誰もいないのに、言い訳をする。他の誰にでも無い自分自身に。

 そこまで考えて雨子は乾いた笑い声を零した。自嘲を含む、嫌な笑いだ。

 必死に理由を後付けしている時点で本心ではないのは明白である。

 なのに、認めたくないのだ。

 普通の感情だろう、雨子と同い年の子供ならば、クラスメイトに惹かれるというのも日常的にあるはずだ。告白して付き合っている人間も少なくない。現に雨子の友人も恋人がいる。

 しかし雨子の想いを寄せてしまった相手が相手だった。日向本人は「そういう感情はない」と断言していたが、それにしてもだ。ご令嬢がどう思っているかなど本人にしか知り得ない。恋とは違うと他人が言っても、それが事実かなど今の雨子には判断出来ない。

「帰ろう」

 ぽそりと呟けば、予想より大きく響いた。

 脳裏にこびりついたご令嬢と日向の顔をかき消すように雨子は早歩きでホームの中へと進む。

 改札を抜けて階段を下りれば、まもなく列車が来ると知らせるアナウンスが流れた。人と目線が交わらないように俯いて目を閉じる、列車が起こす風が頬を撫でて、髪を揺らしていく。

 手に握った傘を落とさないように、しっかり持ち直した。





 家の玄関を開けてすぐ、雨子はパンプスを視界に捉えて嫌な気持ちになる。いつもならば自分より遅く帰ってくる姉が既にいるようだ。

 ちらりと靴箱の上に置かれた時計を見れば、飴子の普段の帰宅時間より二時間過ぎている。ポケットに入れていた携帯電話を取りだせば、母からの着信が入っていた。

 何故出なかったのかと責められるのが容易に想像出来た。心配しているからだとしても、窮屈に感じてしまい、憂鬱になる。連絡しなかった雨子に否があるので、不満を口に出すわけにもいかない。

 履き慣れていない靴を脱いで揃えてから、重い足取りで居間へと向かう。

「あー、やっぱりねぇ、私の思ったとおり! そうだと思ったぁ!」

「晴子、お行儀が悪いわよ」

 母と姉の声がした。上機嫌の姉と、不機嫌そうな母。対照的な話し声。母も帰っているようだ。

 いつも遅いくせに。

 可愛げの欠片もない文句を雨子は心の中で呟く。

 そろりと中を覗けばテーブルに載せられた夕食に手を伸ばしつつ、テレビを見て笑っている姉の姿。

 物を食べながら大口を開けているのは品がないが、その明るさが彼女の長所でもあるので雨子は何も言わない。

 普段通りの様子に安堵した。問題は、やはり一人だ。

「雨子!」

 晴子を見ていた母の目が、おそるおそる覗いていた雨子を捉えた瞬間、怒りをにじませて、叱りつけるように名前を呼んだ。びくり、と反射的に身体を強ばらせた雨子を鋭く睨み付けた。

「た、ただいま」

 ぼそりと帰宅時の挨拶をしたが、母には届かなかったらしく怒鳴った。

「こんな時間まで何してたの! 連絡もよこさないで、遊び歩いてたんじゃないでしょうね!」

「いや、遊んでたわけじゃないけど」

「夜遅く、女の子が一人歩いてたら、ご近所さんがなんて言うか。不良と噂されてもおかしくないわ、それとも悪いお友達でも出来たの」

 偏見だ。最近の女子高生が七時過ぎに帰ってきて、そこまで妄想をするものだろうか。何故そんな発想になるのか。

 雨子は頭が痛くなるのを感じた。

「おかあさん、思考やばすぎ。別に雨子だって友達や彼氏の一人二人いるだろうし、いいじゃん。まだ七時だよ」

 晴子の言葉に母親は奇声を発した。何を想像したのか青ざめているので、雨子にとって不本意なものであることは確かだ。

 後ろめたくないのに、と雨子は焦りを覚えて口を開いた。

「ちがう、雨に降られて。怪我もしたから知り合いの家にお邪魔してたの」

「……ん? そういや、服着替えてるじゃん。借りたの?」

 ここまでテレビにしか向けていなかった視線を雨子に移すと、キョトンと不思議そうに姉が質問した。

 あまりに遅い指摘だ。

 母は雨子の姿を目にうつしていたのに、気付かないのはどうしてか。激昂していて冷静に周りを見ていなかったのか、はたまた興味がなかったのか。

「雨子、人様に迷惑かけたの? 何しているのよ、その人にはちゃんとお礼を言ったの? お母さんからもお礼をしたいから連絡先を教えなさい。いえ、服までお借りてるのだから直接ご挨拶した方がいいかしら。それなら明日、何か買って」

 問いかけているくせに、雨子の返事など一切聞かず、話を進めていく母に、危機感を覚えた。

 母のこういう無遠慮に人の事情に頭を突っ込んでくる所が雨子は苦手で、どうしようもなく怒りのままに、叫んでしまいたくなる。

 母を怒って傷つけるなんて、という辛うじてある自制心が止まらせ、耐えるように息を吐いた。

 文句を必死に飲み込んでいる雨子の変わりに、晴子が笑いながら母の暴走に待ったをかけた。楽しんでいる様子ではあるが、今の状況では味方が一人でもいるのは有り難い。

「落ち着きなよ、あんまり子供の友好関係に大人である親が来たら相手は、ドン引きだから」

「晴子、あんたは黙っていなさい! 大体食事中に喋るなんて」

「ねぇねぇ雨子、助けてくれた人って女友達なの? それとも彼氏?」

 母の小言を無視するように遮った姉の勇気を見習いたいと思いつつも、何と言うべきか逡巡する。友達というには、関わった時間が短い。

 一瞬だけよぎった言葉を、胸の奥の方へと押し込めた。理解したくないと拒否し、口を開いた。

「クラスの子」

 当たり障りのないもの。誤解を生みそうな性別などは上手く隠したつもりだったが、目敏い姉は、新しいおもちゃを見つけた、と立ち上がった。

 がたん、と椅子が揺れたのも気にせず瞳を輝かせる。

「雨子、あんた彼氏できたの! うっそぉ! 地味子のあんたに? よくやったじゃん、逃がすなよぉ、獲物は大きいの? イケメン? 今度連れてきてよ」

「男の子とは言ってない」

「あんたの様を子見たらわかんのよ。男なんでしょ?」

「……そうだけど、男の子だけど、彼氏ではない」

「わざわざ家に招いて服、貸してくれたんでしょ? 気があるに決まってんじゃん」

 何でもかんでも恋愛に結びつけたがる晴子らしい言葉だ。勘の良い人間ではあるが、飛びすぎている。

 実際は、ただの知り合いでしかない。

「でもその服、女物よね? 雨子よりよっぽどセンスがよくて、かわいい」

 一言余計な姉に、知り合いの妹のものであることを伝えれば、品定めするようにじろじろと、全身を検分する。

 気持ちの悪い視線だと、雨子は逃げるように身じろぎした。

「お礼なんていらないと思ったけど、相手が男なら話は別でしょ。それも妹さんも関わってくるんだったら、女子力見せなきゃ」

 謎の理論を当然のようにぶつけられて、雨子は既に、頭がついていかなくなっていた。

 適当に話を合わせて、今すぐ自室に閉じこもってしまいたい。ベッドに身を委ねて寝てしまえれば、どんなに楽か。

「手作りクッキーでも作って、家庭的な所でも見せつけな。大体の男は自分の為にっていうのが嬉しい、しかもお菓子作りとか、よく分からないけど、女子力あってかわいい。とか単純だから」

 散々な言い様だ。

 異性を軽く見ているような口調に嫌悪感がわいて、雨子は意図的に返事をしなかった。

 異性、というより、日向を単純だと馬鹿にされたような気がしたのだ。

 彼に会ったことがないから、そんな酷くぞんざいな扱いを出来るのだろう。彼は。

 そこまで考えて、雨子は首を振る。自分だって彼の事を何も知らないのだ。ここで反論しても姉に言い負かされてお終いだろう。

「もういい? 私疲れてて」

 逃げ出す為に後退りをしたが、場を離れるより早く、晴子が雨子の肩を掴んで、まぁまぁと宥めてくる。

 自分が我が侭で姉を困らせているような錯覚をさせた。

 母がまだ何か言っているのに、気にも留めず台所へと連行して、椅子にかけられていたエプロンを、雨子に着せる。作るまで逃がさないという圧に、姉が諦める気配がない事を悟り、本日何度目になるか分からない溜め息を盛大につく。

 何でも良いから解放されたい、その一心で雨子は渋々と手を動かした。

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