眩しい魔法

 ぱっと傘を咲かせば、自分が持っているものより随分大きくすっぽりと体を覆い隠してくれた。男性用の物なのかもしれない、幾分か重いそれを、しっかり持ち直して、紺の傘を差す日向と並んで駅までの道を進む。

 大きな傘同士がぶつからない為だけではない、少し広めにとった二人の距離を眺める。

 小ぶりになったとはいえ、雨粒が傘を叩く音のせいで他の雑音が殆ど届いてこない。無言のまま気まずい空気になり、それが駅まで続くのは嫌なので雨子はいつもより声量を上げて、彼へと話しかけた。

「今日は色々と助かったよ。ありがとう、その、今度お礼させて」

 この恩情にどのようなお礼をすれば良いのか雨子には想像もつかなかった。菓子折りの一つ、買った方がいいかもしれない。服一式に、お風呂。そして怪我した時、血を拭ったハンカチ。何より靴。彼らの優しさが思い出したくもない心に巣くう痛みを和らげてくれた。

 思い返せば何から何まで頂いていて菓子折りではすまないのではないかと唇を噛みしめた。

 彼の表情は傘のせいで全く見えないけれど、空気が震えて笑っているのだと肌で感じ取った。雨音に紛れているが耳を澄ませば穏やかな声がする。嫌みなど一切ない、人を安心させるよう意識された優しい声だ。

「実はさ、その服で妹と喧嘩したんだ」

 彼も聞こえづらいのだろう、声を少しだけ大きくする。だが穏やかさは変わっていない。本当に何も気にしていないようで、むしろ不安がる雨子を安心させるように続けた。

「一回しか着てないのに捨てるとか言い出して。それじゃ勿体ないし、何よりその服を作ってくれた人達に申し訳ないだろう? だから思わず怒って、それで口論になって。久しぶりの大喧嘩だった。今日の朝まで口すらきかなかったんだよ。長引きそうな喧嘩で、どうしようかと思ってたんだけど」

 傘を少し傾けてこちらを覗き込んできた日向は、にっと唇に笑みを象る。どきりと心臓が大きく跳ねて驚く雨子の頬についた水滴を拭った。

「だから、もらってくれて助かったんだ。妹と仲直り出来たし、服も無駄にならない。服を返されたらまた逆戻りするし妹の機嫌も下がるだろうし。靴も、そのお礼だから気にしなくていい」

「でも」

「俺を助けると思って、もらってくれないか?」

「……あり、がとう」

「お礼を言うのは俺の方だ。ありがとう、もらってくれて。妹と仲直りさせてくれて。妹と、仲良くしてくれて。それから……――色々と、本当に、ありがとう」

 目を細めて納得したように、何か他の意味を含ませた声音を響かせた。違和感を覚えたけれど問いかける前に日向は、心なしか足取りも軽く前を向いて進んだ。近かった顔が遠ざかり、雨子はうるさい心臓を落ち着かせる為、こっそり深呼吸をした。だけれど静まる気配のない速い脈に疑問が浮かぶ。

 いきなり顔が近づいてきて驚いたにしては、何かが違うような気がした。些細な違和感であった為、それ以上は何も分からない。疑問に思いつつも、答えが簡単に見つらなないような気がして、一先ず置いておく事にした。

「良かった」

 ぽつりと彼の声を辛うじて耳が拾った。恐らく相手は雨子に聞かせるつもりはなかっただろう言葉だろう呟き。

 良かった、というのはどういう意味なのか。真意を測りきれず雨子はあえて、その言葉に触れた。変な感覚から逃げたい気持ちと、話題をつきるのを恐れての事だった。

「何が良かったの?」

 服を受け取ってもらえてか、雨子が納得したからか。色々な予想をしていると、聞かれていたのが余程驚きだったのか、数秒無言の時間が流れた。

 無視されたか、聞こえなかったのかと疑う程の絶妙な時間に雨子が、もう一度聞くか話題を変更するかで悩み始めた頃、日向は口を開いた。

「菊永さんが、朝から元気なかったようだから。今は顔色良くなって、嬉しいなって」

 言うか悩んだのか、少し戸惑いを含んでいた。だがそれを気にする余裕は雨子にはない。まさか気付かれていたとは想像もしていなかったのだ。

 仲良くもないクラスメイトだ、それも会話したのは朝の時と靴を無くした下校時のみ。それに端から見て元気ないのを表に出していたつもりはない。友人に少しだけだ。なのに。

「なんで……?」

「……朝から、何だか表情が暗いっていうか。悲しそうに見えて。そんな時に、あんな現場に鉢合わせ焦ったよ」

「あんな現場って?」

「雨の中、うずくまってたから」

 確かにあの時は嫌な事が立て続けに起こり、いっそ全て投げ捨ててやりたいようなヤケになっていた。あれなら他人から見ても落ち込んでいると明らかだっただろう。

「そんな、焦る程に落ち込んでた?」

「失礼な事を言うと、川に飛び込んで消えようとしているというか」

 そこまで言わせてしまう程だったのだろうか。いや、そう思われても仕方ないのかもしれない。

 確かに朝からの出来事、嫌な事ばかりが脳内に駆け巡っていた。子供のように泣きじゃくるのはプライドが許さないのに、どうしようもなくそうしたくなって、ぐちゃぐちゃな状態だった。あそこで声をかけられなかったら、自分はどうしていたのかなんて、今でも雨子には分からない。惨めな気持ちで家に帰り、靴をなくしたのを、母に叱られたか。それとも。

「ごめん、気を遣わせて。その朝からね、嫌な事が続いてたの。お母さんや姉さんの事とか、傘を取られちゃった事とか、先生に怒られた事とか、雨降ってるし、靴まで失ってさ、怪我して、雨に濡れて、情けなくて、惨めったらしくて、恥ずかしくて」

 彼は黙っていた。ただ静かに聞いてくれる心地よさに、ぽろぽろと零す愚痴。一度喋れば止まらなくなり、次々と溢れる。

 言葉にすればするほど楽になる。などとあり得なかった。むしろその逆だ。雨子の心を蝕み、一言一言重みが加わっていく。よせば良いのに、止まれなくなった。

 息継ぎもなく言い切ってから、自嘲の笑い声を上げた。何よりも今が情けないではないかと詰まる。たったこれぐらいの事で泣き言を零す自分の弱さに吐き気がした。

「ごめん、そんな些細な事なの。気を遣わせてごめんね。でも、もう」

 大丈夫だからと言い聞かせて、暗示をかける。そうしようとした雨子を遮るように日向が「雨は嫌い?」と問いかけた。

 突然の問いに一瞬反応に遅れて、雨子は目を瞬かせた。不快にさせたのかもしれないな、と俯きながらも「雨は嫌い。大嫌い」と答えた。

「濡れるし、湿気すごいし。靴はぐちゅぐちゅして気持ち悪いし。洗濯物は乾かないし」

 それだけが理由ではない。むしろそれらの要因は後付けだと雨子は自覚しているのだ。本当に嫌いな理由、それは雨の日は決まって母が呪いを吐くせいである。

 

 ――雨子、あんたはね、名前の通り暗すぎるわ。もう少しお姉ちゃんを見習いなさい。うじうじと悩んで黙り込んで……。


 何度も、何度も言われた、じめじめとしているだのと口うるさく。それを笑う姉の顔、母の声。刻み込まれたそれらは、いつも雨子を苛む。

 雨が降れば、必ず嫌な事が起きると、もう教え込まれてしまい、雨子の意思など関係なく気持ちを落ち込ませた。

 だから。だから私は、雨が、名前が、この世の何より、大嫌いだ。

 自身が心の中で呟いた呪いは母の言葉と混ざり合って、黒く淀んでいく。視界が灰色になるような感覚、体が自分のものではなくなるような錯覚。雨音が責め立てるように鳴り響き、神経を逆なでされる。忌ま忌ましくて仕方ない、頭の中で母の声がこびりついて離れてくれない。

 苛立ちを彼にぶつける訳にはいかない。極めて冷静を装って嫌な点を上げていくと「そっかそっか」と頷いてから日向は立ち止まる。いつの間にか前を歩いていた彼はくるりと振り返った。

「俺はね雨が好きなんだ」

「あめが、すき?」

 思ってもいない返答に雨子は間抜けな声が出た。母や姉は雨を疎み、それを見て育った雨子からしたらあり得ないとまではいかないが、珍しい人種である事には違いなかった。なんせ、雨が好いている人間など周りにそういなかったからだ。大概の人は雨が降れば、外で遊べない、服が濡れる、髪型が崩れると不満を漏らしている。その中で好きなどと、少なくとも雨子は聞いた事はなかった。

 雨の、どこがいいのか。何も良いことなど思いつかない。

 疑わしく思っている雨子の様子など日向は特に気にした風もなく、続ける。

「雨が降ったときの香り、雨音が雑音を消してくれる静寂な空間、雨が周りから俺を隠してくれているような感じ。……俺を、一人にしてくれる」

 ふわりと手を引かれる。足下に水たまりがあったらしく避けさせてくれた。ぱっと離れていく手のぬくもりが恋しくなり、手を伸ばしかけたのを寸前のところで止める。

「雨はね、俺にとって優しくて、癒やしなんだ。悲しいことがあっても雨が降れば和らぐ」

 癒やしとまで言い切られて雨子は言葉を失い、瞬きを忘れて彼を見つめた。

 かれは。

 彼は、雨子とはまるで見ているものが違う。住む世界が違うのではないのかと疑う程に。見ているものが、感じているものが。何もかもが。

 雨子が最悪だと思っていた物を、いとも簡単に変えようとしてくる。今まであった凝り固まった頑固な価値観を優しく崩した。素晴らしく良いものなのだと、俯いてばかりの顔を上げさせて教えようとしてくれていた。

 ありえない、おかしい。間違っている。雨は、そんなものではない。否定が心に降り注ぐ。雨子自身の声が、日向を拒絶しようとする。反発する中で彼の優しい言葉が、雨子に根付く暗闇を全て飲み込んで、溶かすように響いた。

「それにほら」

 彼が傘をおろす。そして動けない雨子の手から傘をするりと取ると同じく閉じた。

 ぽつりと一粒が頬を濡らしたが、それっきり空から降ってこない。いつの間に止んでいたのかと見上げれば、厚く灰色の雲に切れ目が出来て、眩しい程の光が差し込む。

 瞬き、ひとつ。

 ――雨子の瞳にうつるのは、太陽に照らされる彼の優しい笑みだった。雨粒が太陽の光に反射し宝石のように輝く。それを纏い本当に楽しげに幸せそうな彼が雨子に手を差し伸べる。きらきらと美しい光景が脳に焼け付き息すら忘れる。時間すら止まったような錯覚が襲って声が出なくなる。

「晴れたとき。降る前よりずっと、綺麗なんだ。雨に濡れた地面や、草花についた水滴がきらきらして。俺は好きなんだよ」

 導かれるように彼の手に自身のを重ねる。雨子より大きく温かな手が包み込んだ。一歩近づいて、彼が遠慮がちに頭を撫でた。普段なら親しくもない男子にそんなことをされれば不快になるはずなのに、不思議と雨子の心は凪いだ。

「今日は嫌な事ばかりの一日だったんだね」

「……うん」

「だったら明日の事を考えよう。きっと明日は良い一日になるようにって。今日という日が笑い話に出来るぐらいに良い日にするんだ」

「あし、た……あしたは、良い日になるのかな」

「なるよ。なるようにしよう。菊永さんが楽しくなるように俺も手伝うよ」

 俺は菊永さんの友達になりたい。駄目かな。

 困ったように笑う彼に雨子は目頭が熱くなった。こんな事で泣く女だとは思われたくなくて、必死に隠す為に俯く。ぼやけた視界に怪我した膝が見えた。痛々しい傷は彼がくれた絆創膏で綺麗に隠されている。

 親の事など深く聞かない日向の優しさが心を癒やしていく。

「苦しくてつらいときは、誰かと遊んで忘れるのが一番なんだ」

「……っ、う……」

 返事をしたくても、声が涙に濡れている事に気が付いて口を閉ざした。代わりに彼の手を強く握れば、握り返してくれる。

 嫌な事ばかりだった一日。姉や母、先生、雨、怪我、靴。全部どうしようもなく最悪の出来事だ。だが、今この瞬間、悪い事ばかりではなかったと思い直せた。友達は心配する優しさをくれていた、日向と日向の妹も優しさをくれた。何より目線を変えれば嫌だった事も緩和されるのだと知れた。

 嫌な事は深く刻まれて残っている。最低な一日だったけれど、それでも日向が和らげてくれた。

 日向は、雨子とは違う目を持っている。世界を持っているのだ。雨子にとって嫌な事も楽しい事に変えてしまうような、魔法のようなそれ。彼の感じるものは全て喜びだ。何もかもが光り輝いている。

 幼い子供のように無邪気に笑って、雨子が思うより悪くないのだと、悪い事ばかりではないと、明日の事を考えようと教えてくれた。

「菊永さん」

 名前を呼ぶ彼の瞳に太陽の光が差し込み、宝石のように煌めいて見える。その宝石が、心が、この世の何よりも美しく、愛しいと思ってしまった。

 ああ、まずい。

 どくり、と心臓がはねた瞬間、自身の感情に待ったをかける。

 だめだ、と心が訴え警鐘が頭に鳴り響く。生まれかけている感情を捨てなければと焦って、服の上から心臓を押さえた。

 そんな雨子の心中などお構いなしに彼はトドメを刺した。

「だからね、俺、菊永さんの名前すきなんだ」

「……な、まえ知ってたの?」

 頬が涙で濡れている事も忘れてぱっと顔を上げれば目を細めて穏やかな表情を浮かべる彼がいた。驚く雨子に勿論だと頷く。

「うん、優しくて、綺麗な名前だから。今日話して、分かったよ。菊永さんは名前の通り、優しい人だ」

 名前など、知らないと思っていた。なのに彼は名前を知った上で、優しい、好きだと言うのだ。雨子が最も嫌い、疎ましい名前を。


 ――ああ、だめだ。止められない。

 雨子は彼の価値観に尊敬し、憧憬の対象となった。そして小さく芽吹いた気持ちに身を焦がし、嗚咽をこぼす。

 気付いてしまった時点で、取り返しのつかないところまで来ているのだと雨子は悟った。

 諫める自身の声など、何の役にも立たない。

 この芽吹いた気持ちが、花開くときなど来ないと理解しているのに手折り、摘み取ることが出来ない。優しく頭を撫でる手を振り払えなかった。雨子は、ただひたすら縋るように彼の手を握り締め、離せなかった。

 思い出すは彼の隣で可憐に微笑む、あのご令嬢。報われぬ恋だと、嘲笑う声が心の中で響いた。

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