たからもの

「お姉ちゃん、靴のサイズは大丈夫?」

「は、はい。ぴったしです」

「良かったぁ。靴擦れとか起こしても大変だからね。一応絆創膏数枚持って帰ってね」

 日向の家に来て、早二時間経ってしまった頃、我に返った雨子はお暇する事を告げた。その言葉にもう帰るのかと拗ねた様子で日向の妹に些か引き留められもしたが、外が暗くなってきた事もあり、日向の「ご迷惑をおかけするんじゃない」という助け船から玄関までこぎ着けた。

 水色のスニーカーに足を入れれば、思いの外ぴったりだ。殆ど履いていないのだろう、新品特有の固さがある。綺麗な真新しい靴だと、すぐに分かってしまい、これから雨と泥水で汚してしまうのかと罪悪感に心が重くなった。

「あのさぁ。ここは、もっと可愛いの買って来なよ……」

「……可愛いだろう?」

「本気で言ってるの。機能性重視じゃん」

「そっ、そんなことない! 似合うだろうなっておも……いや、ええっと」

「照れて誤魔化そうとするの、かっこ悪いからね、お兄ちゃん」

「ふみ!」

 二人の言い合いに雨子は、瞬きしてから首を横に振った。水色も好きな色で、デザインも好みであった。大切にしたい、大事に履きたい。今から雨で汚れるのも勿体ないと思う。何より似合うと思って買ってもらえたというのは、むずがゆくも、幸福感に満たされた。幸せを噛みしめるように好きだと伝えた。

「わたし、すきです」

「お姉ちゃん、気を遣わなくて良いよ?」

「いいえ。これがいい。動きやすくて、可愛くて」

 ありがとうございます。

 嘘偽りない本心。言葉では足りないほどの気持ちは、質素なお礼のみになった。少しでも伝わるように頭を下げてから微笑むと、彼は目を見開いて、気恥ずかしそうに目線を逸らしてから「よかった」と安堵の声をこぼした。

 雨子たちの様子に、納得出来ていなかった妹も肩をすくめてから、仕方ないと苦笑する。もう口出すつもりはない、と手に持っていたものを差し出した。

「あとは、これね。お姉ちゃんの服」

 絆創膏まで予備で渡してくれる厚意に、もう何とお礼をしたらいいのかと悩む雨子に紺色のチェック柄がプリントされた紙袋を差し出された。中身を覗き込めば、見たことない店名が書かれたビニール袋が入っている。膨らんだ中には恐らく着ていた雨子の制服が入っているのだろう。

「乾燥機に突っ込もうとしたんだけど、縮んでも困ると思って。濡れたままでごめんね」

 眉を八の字にして謝る妹に雨子はとんでもない、と首を横に大きく振った。ここまでしてもらったのだ、謝られてしまえば何も返せていない雨子は心苦しい。

 お互いに困っているのを見かねたのか、日向が苦笑いを浮かべて「もう暗いし、送っていくよ」と声をかけてきた。

「え、でも、危ないですよ」

 送ってくれるとは言うが、駅で別れた後、彼は一人で家に戻る事になる。この辺りは街灯が少ない、暗い夜道を一人歩いて帰ってもらうというのは、想像しただけで気が気ではない。

 そう断る雨子にキョトンとした顔で日向は固まった。微動だにしない彼に何かまずい事を言ったのかと不安になり、雨子まで体を強ばらせる。無言で見続ける異様な空間に、妹が耐えきれなくなったように忍び笑いをこぼした。

「お姉ちゃんって、面白いね」

「おもしろい?」

「まさか、そんな事言うとは思わなかった。よく考えてみて。一人で帰るのはお姉ちゃんも同じなの」

「私は大丈夫だよ。そこまでお世話になる訳には」

 何より駅まで行ってしまえば、その後は街灯が多い自分の近所に辿り着く。そこまで危険はないはずだ。それよりもだ、目の前の彼も同じく年頃の男子高校生。心配なのだと当然のことを言えば、妹は笑い転げた。

「お姉ちゃんって変わってるね」

 妹は散々笑った後に、咳払いをしてから腰に手を当ててから、ぴっと反対の指を雨子に向けた。ぷくりと白く柔らかそうな頬を膨らませて怒っているのだと態度で見せているが、笑みは隠しきれていない。

「あと、人のこと心配しすぎで自分の事ないがしろにしすぎ!」

「ないがしろ、そこまでは」

「お兄ちゃんってそんな頼りない? 確かに細っこいけど鍛えてるし、そこらの男より強いよ。ねぇお兄ちゃん?」

 ぱっと日向へ顔を向ける。彼は未だキョトンとしたまま固まっていた。

「お兄ちゃん? ……え? なにその変顔、どうしたの?」

「日向君?」

 日向を頼りない男。そんな風に思っていると勘違いさせたのだろうかと雨子は焦り始めた。別にそういうつもりはなかったのだ、ただ同年代である彼も男性であろうがなんだろうが同じ高校生という子供だ。それに、このご時世では男女ともに、危険はあると考えていた。

 雨子が危険なように、彼も同じく危険なはずで守られる子供だ。同じなのだから、お互い自衛しようという気持ちなだけなのだ。決して彼が頼りないなどと考えた事はない。

 事実、ここまで雨子は日向に運んでもらった。息切れもせず、軽々と。その様子から同年代の男子より力があるというのは身にしみている。決して軽くはない雨子を運ぶというのは相当な力がいるはずなのだから。

 何より、困っている異性のクラスメイトを抱きかかえて家まで来るという発想が雨子には十分男らしく感じられた。恐らく今まで関わってきた男性の中で日向は誰よりも頼りがいがある。

 その心情をはっきり口にするのは如何なものか。気恥ずかしさで死んでしまうと声にはならず、無駄に口がぱくぱくと動くだけになった。酸素を食べる魚のような、滑稽だろう雨子の顔に漸く日向の時間は動き始めたらしく、はっとしたように複雑な顔で頭を掻く。照れ隠しのようにも見えるし、困っているようにも見える彼は誤魔化すように「ええっと」と口ごもりつつ、傘立てから紺色と黒の傘二本を引き抜いた。

「俺のことなら、心配しないで。妹が言うように、一応鍛えてるし」

「……本当に? 無理してない?」

 しつこいのも失礼だと知りながら最後に、もう一度問いかけた。もう彼の表情は複雑さは消え去っており、安心させるような笑みで頷いた。

 ならばこれ以上断るのはよろしくないと、雨子は「ありがとうございます、よろしくお願いします」と頭を深々と下げる。

 確かにあの暗闇の道を一人で歩くのが怖くない、とは言い辛い。だからこそ送ってもらった後に彼が一人で帰るというのが心配で仕方がないのだが。

 まだ何か言いたくなる口を自制し、雨子は日向の隣に並ぶ。がらりと玄関の扉を開けて足を一歩前へと進めた。

 後ろで見送ってくれている日向の妹へ振り返ると、にこやかに手を振っている。

「またね、お姉ちゃん。気をつけて」

「色々とありがとうございます」

「いーよ、いーよ。また遊びに来てね、お話ししよう……あっ勿論、今度メッセージ送るね! お話ししよう」

「お、おまえ、いつの間に連絡先交換してるんだ」

 呆れたように呟き、日向が苦い表情になる。それに妹はにやりと意地悪に口端をつり上げた。揶揄うように声を転がす。

「ええー、お兄ちゃん、交換してないの? ふうん? 羨ましい?」

「そうじゃない、お前が迷惑かけないか心配なんだ」

「駄目だから、たとえお兄ちゃんが彼氏になっても、ぜぇーったい私達の会話にはいれてあげないから! 女の子同士の秘密なんだ」

「だからそうじゃない、あと彼氏って――ああもう、もういい。行こう」

 気持ちを切り替えるように、大きなため息をついてから雨子に黒色の傘を差しだして帰るように促す。抗う必要もない、後ろで控える妹にぺこりと会釈して「またね」と遠慮がちに手を振った。上手く笑えていたかは分からないが、妹は嬉しそうに腕を上げて大きく振ると「家についたら連絡してね、心配だから」と最後まで優しく接してくれた。

「お兄ちゃん、送り狼にはならないでね! お姉ちゃん傷つけたら怒るから!」

「文!」

 最後、自身の兄に向けて明らか余計な一言を付け加える。案の定、流石の兄である日向も我慢の限界だったらしく声を張り上げて叱りつけた。

 しかしそんな事で堪える妹ではなかったようで、楽しげに笑ってその場から逃げ出すように奥へと引っ込んでいく。その姿を呆然と見送っていたが、送り狼という単語で微妙な空気になったのを肌で感じ取ってしまい、沈黙する。

 この状況を打破するには。と日向を見れば同じく雨子を見ていた彼と目が合う。暫くしてお互いぎこちない笑みで、先程の言葉は聞かなかった事にしようと頷く。声にはしなかったものの暗黙の了解だと、どちらともなく門をくぐり、歩を進めた。

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