奪われているという幸福

 親しくもない男の家で風呂に入るという異様さに、雨子は緊張に支配されていた。シャワーをものの五分もしないうちに終わらせて、用意してくれたものであろう服に袖を通した。何も身にまとっていない頼りなさは緩和されて、少し安堵しつつ脱衣所を出れば、近くでしゃがみ込んで携帯電話を触っている日向の妹が見えた。

 こちらに気が付くと、ぱっと顔を上げて目を輝かせた。品定めするように雨子の全身をくまなくチェックして、一つ満足そうに頷く。

「うん、私の見立て通り、超似合ってるよ、おねぇちゃん!」

「貸していただいて、ありがとうございます」

 頭を下げてお礼を伝えれば妹は照れたように頬を赤く染めて微笑んだ。

 細身のパンツに桃色のキャミソール、白色のパーカー。ボーイッシュにまとめた服装はシンプルである。実に雨子の好みで動きやすい。

「いいなぁ可愛いなぁ。実はちょっと前に挑戦してみよっかなーって買ってみたものの、これが驚く程、私に合わなくてさ、困ってたんだよねぇ。やっぱり試着すべきだったって後悔してさぁ。でもでも、試着ってめんどくさくない? 私嫌いなんだよねぇ、いちいち服脱いで試着して、もう一度元の服を着て。そんな行程を繰り返すって考えただけで、もう、イーってなっちゃう」

 彼女と知り合って間もない雨子ではあるが、既に実感しつつある。彼女は一度喋り出すと、とてつもなく長い。口を挟む隙を見せない。息継ぎはどこでしているのか、少し不思議である。

 しかし話題を振るのが苦手である雨子にとって、彼女との会話は楽しいと感じた。ころころと変わる表情と声音。喜怒哀楽が激しいが、それが雨子の心にも影響し、聞いているだけで同じ気持ちにさせる。

「この服さ、店のディスプレイに飾られたマネキンが着てたの。かわいい! 最高! って一式衝動買いしたんだよ。でもさ、帰って着たら全然似合わなくて、捨てようか悩んでたんだよ」

「す……そ、それは。ちょっと勿体ないですよね」

「そうそう。だから助かったよ、捨てずにすんだ! ありがとうね、お姉ちゃん!」

 ふと違和感を覚えて目を瞬かせる。どうして捨てずにすむのか、と悩んだ瞬間唐突に浮かんだ予測に顔が引きつる。まさか、とおそるおそる雨子は問いかけた。

「あの、この服、洗って返しますね?」

「え? ううん。服はお姉ちゃんにあげるよ。私は着ないし。是非もらってよ」

 雨子は目眩がした。見ず知らずとまでは言わないが、仲良くもないクラスメイトに、ここまで恩情を与える彼らが聖人にすら思える。

 いくら困っている人を見過ごせないとはいえ。服の世話までしてくれる義理などありはしないはずなのに。

「あの、服までいただくのは、ちょっと」

「お姉ちゃん、この服好みじゃなかった? よく似合ってるよ。どうせ処分する予定の服だったんだし、誰かに着てもらった方が絶対良いんだけど、いやかな……?」

 小首を傾げて目を潤ませた妹はお願いと手を合わせてくる。身長差がない二人だから子犬のような表情を間近に、真っ直ぐ向けられた。縋るような瞳に加護欲を掻き立てられ雨子は呻く。困りますという一言がどうしても出てこず「嬉しいです、ありがとうございます」と蚊の鳴くような声で答えた。

 すると妹はころっと表情を喜びに変えて、にっこりと満面の笑みで万歳する。

「よかったー! 嫌だって言われたらどうしようかなって思った! お姉ちゃんって結構遠慮するタイプな気がしたから、困りますって断れるかと思っちゃったよ!」

 あの悲しそうな顔は演技だったのだろうか。だがそれよりも雨子は言うつもりだった言葉を的確に当てられて、ドキリとした。考えが読まれているような感覚だ。目の前の少女が幼く見えるだけで、実は策略家で油断できない人物なのではないだろうか。演技派なのかもしれない。

「そういや名前はなんていうの?」

「きくなが、あめこです」

 ふと問いかけられて雨子は一瞬、言葉がつまった。いつもそうだ、自身の名前を言うとき、言いたくないと無意識に拒否しそうになる。

 完璧な笑顔で答えたつもりだったが雨子の些細な変化を敏感に察知したらしい日向の妹は怪訝そうに首を傾げた。その動作を無視するかどうするか逡巡したが、聞くまで諦めない姿勢を見せる妹に根負けして重い口を開いた。

「きらいなの、わたし。自分の名前が。あめってイメージが悪いでしょ?」

 自分で言ったはずなのに、鋭いナイフが胸を刺した。ずきずき痛むそれを感じないふり、知らないふりをして笑みを作る。幸いな事に妹はそこまで深入りをして来なく「わたしもさ、自分の名前嫌いなんだよね」と同感で終わった。それが雨子にとって、とてもありがたく、ほっと息をつく。

 こっちだよ、と手を引かれて客間に通される。手入れが行き届いており埃一つないだろう綺麗な室内の中央にある机の前に腰を下ろした。

 ふかふかした紺色の座布団に身じろぎしつつ、姿が見当たらない彼を探し見渡す。

「葵君は……」

「ひなた」

「ひ、日向君は、今どこに?」

「お兄ちゃんは消毒液が切れてたから買いに行ってるよ」

 家につく前から膝の血は既に止まっていた。シャワーを浴びる時に汚れも落ちているので、手当はいらないのではないか。そう目の前で傷の具合を確認する妹に意見したが「駄目だよ、傷口から菌とか入っちゃう」ときっぱりと断られた。

「あと靴も」

「……へ?」

「流石に靴はなくてね、私の貸そうかと思ったんだけど、サイズがちょっと違って」

「だっだっめです! 靴まで! まって、ええっとお金、お金も渡してないですよねっ」

 一瞬理解が追いつかず間抜けな声を出し固まっていた雨子だったが、文代の弾丸トークに、はっと我に返る。慌てて財布を取り出そうと鞄を探っていると、止めるように文代が苦笑した。

「気にしないで、お礼だから」

「お礼? 何のですか? むしろお世話になってお礼がしたいのは私の方で」

「ううん。助かったから。お姉ちゃんのおかげ」

 どういう意味か。訝しく見つめたが、答えるつもりはないようで曖昧に微笑んで、机の上に置かれていた煎餅の袋を掴み破った。ぱり、といい音をさせて噛み砕き咀嚼すると雨子にも勧める。手渡された醤油味だろう煎餅に戸惑いつつ、頭を下げてから文代を習って、遠慮がちに齧りついた。醤油の甘辛い味が、とてもおいしい。追求は無駄なのだろうと雨子は黙って味わった。

 暫くは、ぱりぱりと音だけが響いていたが、一枚食べきった文代が再び口を開いた。

「ごめんね、待たせて」

「……こちらこそ、面倒かけてごめんなさい」

「そんなの気にしなくて良いよ、あんな格好では家に帰れないもんね。それに、お兄ちゃんが友達、しかも女の子連れて帰ってくるなんて。天変地異というか……ちょっと嬉しかったんだ! 友達いないのかと思って」

「葵君は友達多いよ」

 人好きする笑顔に、今回のように困っている人に手を差し伸べる優しい性格。同性、異性どちらとも人気があるはずだ。少々同性には女性からの人気が高い事に羨ましがられているが、それでも好きだと答える人物の方が多いはずだ。

 だが、そんな彼が友達を連れて遊ばないのは。

「日向君はいつも、ほら、あの子と帰るから。休日も一緒なんじゃないですか?」

「あの子……ああ、琴梨さん?」

 そう琴梨。財閥のご令嬢で日向君といつも一緒にいる彼女の名前だ。その人であると頷けば妹は苦い顔になる。その顔に見覚えがあった、確か日直の子もこんな顔をしていた。

「琴梨さんかぁ、滅多に家に来ないからなぁ。いつもお兄ちゃんが琴梨さんの家まで行くから」

 当然家に来ているものだと勝手に考えていた雨子は少しだけ目を見開いて驚く。その表情にやはり妹は困ったまま、頬杖をついた。

「琴梨さん、お兄ちゃん大好きだからなぁ」 

 本人がいない場所で恋心をさらりと知ってしまい、体がぎしりと固まった。全く関わりない自分が聞いていい話ではないのではないか。

 息をのんだ空気が妹にも伝わったらしく、不思議そうに雨子を見つめたが、すぐに何かに気が付いたようで、はっとして訂正した。

「ち、違うよ! 好きって言うのは……ええっとううん、説明がしにくいんだけど、恋愛的にって訳じゃないよ、あれは」

「いえ、あの私が聞いていい話ではないと思うので、いいですよ」

「いやいや、そんな大それたものではなくてね、勘違いさせてごめん、ええっと説明させて」

 言い繕うようにして手を目の前でぶんぶん振るが、雨子が信用していない目をしていたせいだろう。暫く、ううんと唸り、頭を抱える。どう説明したものか分かりやすく悩んでから、自分自身にも確かめるような口調で問いかけた。

「お姉ちゃんはさ、琴梨さんには婚約者がいるって知っている?」

「あ、はい。ついさっき、日向君が言ってました」

 婚約者という存在の登場で雨子の中で、複雑な恋愛関係を邪推してしまった。ご令嬢と日向の身分違いの恋、という少女漫画でよくありそうな話を。思い合う二人が婚約者、身分違いという壁を乗り越えて大恋愛なんて在り来たりな展開。

 だが、そうではないと妹は否定した。

「違う、違うんだよ。琴梨さんと婚約者さんの関係は良好だよ。とっても仲良いの」

「あ、そう、なんですね?」

 年頃の女子二人が揃えば恋の話にもなる。身近な人の話というのは気まずさを感じつつ雨子は妹の話に耳を傾けた。

「将来結婚するといわれても、琴梨さんは『ずっと一緒にいられるのね』って喜ぶぐらい仲良いの」

「はぁ、それはそれは、順調な関係で……?」

 ならば日向は。まさか片思いなのだろうか。だとすれば朝、ご令嬢の目に宿るものを雨子が勝手に勘違いしただけになる。

 ……あれが、勘違い? 本当に?

 些か納得出来ていない雨子を、その反応が正しいのだと妹は続けた。

「琴梨さんはね、婚約者と同じぐらいお兄ちゃんの事も好きなの」

「――そ、れは」

 恋心を、二人の男性に抱いている。ということだろうか。

 ぎぎぎと首を傾げた。それは二股というものなのだろうか。付き合っていないからそうではないのだろうか。どちらにせよ禁断な話である。おいそれと知ってはならないものだ。

 聞いてはならなかった、と俯けば、頭上から少しだけ悲しげな声が降ってきた。

「多分ね、恋じゃないんだよ」

「恋じゃない?」

 顔を上げる。目を細めて、どこか諦めたような達観した表情の妹に見入ると苦笑を返された。

「そうだよ。恋ではないよ。きっと琴梨さんは、自分の両親、執事、婚約者、お兄ちゃん、全て同じ愛情を向けている」

「……親愛って、ことですか?」

「そうだよ。そう、大事に大事に育てられて、脅威となる可能性、全てから遠ざけられて何も教えられずに生きてきた女の子。あの子は純粋で無垢で無知だから。恋も知らない。……悪いのは琴梨さんじゃないけど」

 要領が得ない話にただ首を傾げる事しか出ない。ただ分かるのはご令嬢が日向に恋していないと妹は考えている、その一点のみだった。勿論他にも婚約者等の話もあるが、深入りしていいかも不明な状況では雨子から言える事は何もない。

「彼女は色々と教えられているから、意外と常識あるよ。ないところもあるけど。それよりもっと重要なものを親から意図的に奪われているの。教えられず遠ざけられてる。……彼女を扱いやすいようにね」

 道具、という言葉に皮肉が混じったような気がした。彼女の目を見れば悲しげに揺れており、少なからず琴梨という少女に思い入れがあるように感じた。

「お兄ちゃんは、きっと琴梨さんの事は」

 妹が何か言おうとした時、遠くの方で扉が開く音がした。はっとして二人顔を見合わせれば妹は悪戯めいた笑みを浮かべて、人差し指を唇に添える。

「今のは、内緒ね?」

 内緒話なのだと雨子は戸惑いつつも頷く。言われずとも当の本人に確認するような度胸もない。何より今回は家まで入ってきて会話もしているが、本来は大して仲良くないクラスメイトなのだ。あまり内輪話に土足で入り込む訳にはいかないだろう。

 足音が次第に近づき、やがて帰って来た日向が部屋に顔をのぞかせた。

「遅くなってごめん、妹が迷惑かけなかった?」

「ちょっとお兄ちゃん、変な事言わないでよね! 私とお姉ちゃんの女子の会話に入り込んできたそっちが邪魔者なんだから」

「あのなぁ……」

 兄妹のじゃれ合いを眺めつつ、雨子は先程の会話を心の隅へと追いやる。

 妹が言いかけた言葉は、何と続くはずだったのだろうか。

 ――守らなきゃいけない人。

 ふとよみがえった彼の言葉に少々引っかかる。幼馴染みだから。それだけなのか。

 思考の海に投げだそうとした寸前で思い直す。今は気にするべきではないと誤魔化し彼らの輪へと入った。

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