彼の家と妹さん

 彼の家は学校から歩いて十五分。近辺では見かけない木造住宅で、自分の背より高い立派な門が雨子を出迎えた。横に木材の表札がかけられており、達筆な字で「葵」と書かれている。門の向こうにそびえ立つ松の木は恐らく腕の良い庭師が剪定しているのだろう、見事だと見惚れる程に美しい。

 ご令嬢の自宅は庶民の雨子には想像出来ない物だろうと予想していたが、やはりその友人である彼も中々の家柄らしい。周囲を威圧するかのような重圧な雰囲気に広々とした敷地を見て、雨子はすっかり怖じ気づき、身を縮こまらせた。

「あ、あの、やっぱり私帰りたい……」

「え! ええっと、家に入りたくない?」

 気後れして入れないと言っても、彼は気にしなくて平気だと笑うだろう。他の理由を雨子はかき集めて、口ごもり、でも、だって、と情けなく言い訳をした。

「か、勘違いされるかもだし」

「勘違い?」

「ほら、あの子に。葵君の家に上がるなんて、嫌な気持ちにしちゃうかも」

 勢いだったが、あながち嘘はなかった。ご令嬢に今の場面を見られてしまえば、どうなるのか。日直の子と話した嫉妬を思い返し、ぶるりと体を震わせた。

 関わらないでいようと決めた、その日に家へと足を踏み入れようとなるとは。雨子は自身の軽率さに頭が痛くなりつつ彼の反応を待った。そうだね、それは大変だと同意するのを願って。

 しかし願いはいとも簡単に打ち砕かれる。

「……俺が困っている友人を家に招いただけ。気にする必要はないよ。もし気になるなら俺からも事情を説明するから」

「いや、でもやっぱり、恋人が異性と一緒にいたら、嫌じゃないかな」

「彼女と俺は、ただの幼馴染み。そういう感情はないよ」

 声音からではそれが本心なのかは分からなかった。これ以上踏み込んでいいものかと悩んでいる間にも、彼は重たそうな門を片手で押す。

 ぎぎぎ、と軋む音が響いて開けると紫と青、白と鮮やかに彩る紫陽花が視界を占めた。雨粒に震え、煌めかせる美しい花々に雨子は一瞬だけ我を忘れて見惚れる。綺麗な光景に慣れているのだろう、彼は歩を進めた。

 敷き詰められた玉砂利を踏みしめた先にある玄関へ辿り着き、横開きの扉に手をかける。

「俺にとって大事な幼馴染み。守らなきゃいけない人ってだけだよ。それに彼女には仲の良い婚約者がいるんだ。俺とどうにかなるなんて、ありえない。そもそも彼女の親は、その辺の男性を恋人になんて許さない。俺に見張らせてるぐらいだからね」

 恋人は俺じゃ力不足だよ。

 声音には複雑な感情を乗せられているように思えた。何かを考えているとは分かるが、それが寂しさなのか悲しさなのか。言葉の真意を汲み取れなく、酷くもどかしい。雨子は胸を締め付けられるような痛みに襲われた。不可解な感情に翻弄されて息が詰まる苦しさに顔を顰めていれば、異変があった事を素早く察した彼が心配そうに声をかけてくる。

「大丈夫か? もうついたから、休んでいって」

 先程とは違い心配しているのが明らかだ。それが雨子の心に重くのしかかっていた正体不明な物を少し軽くする。いつの間にか抱えた分からないものを理解しては後戻りが出来なような恐怖があり、そっと頭を振って答えを探そうとする思考を霧散させた。

 傘を閉じ、がらりと扉を開く。広い玄関に入れば、屏風と坪が置かれていた。静かな空間には人の気配は感じない、ただ冷たい空気が身を包む。物珍しさにキョロキョロと見渡せば微かにお香の匂いが鼻腔をくすぐった。他人の家だからという理由だけではない緊張感に萎縮して、身体が強張る。

 足下には菊が描かれた草履と桃色と白の運動靴が綺麗に並んで揃えてあった。彼はそれを発見すると安堵するように息をつく。

「良かった。あいつ帰ってきてるみたいだ」

「あいつって……?」

「妹だよ。おーい、ただいま。ちょっと来てくれないか」

 静かな空間に彼の透き通るような声が大きく反響した。誰もいないような錯覚をさせる数秒後、遠くから人の足音が近づいてくる。どうやら人の気配を感じないほど奥の方にいたらしい。この家の広さが想像以上のものである事に雨子は住む世界が異なるのだとますます圧倒された。

 暫くすれば間延びした少女の声が「なぁに、どうしたの」と投げられた。影から出てきたのは、そう雨子と変わらぬ歳だと推察できる少女だった。伸びきった紺色のシャツに学校指定の体操服と思わしき青色の半ズボンを身につけている。

「私、雨に降られて疲れてるんだけど?」

 文句を吐きつつ現れた少女。ガリガリと寝癖がついた頭を掻いて欠伸をこぼしつつ、雨子達の目の前に立った。ぱちりと目が合った瞬間、ぽかんと口を開けて目玉が飛び出しそうなぐらい大きく見開いた。

「……? おいどうした?」

 固まる少女に彼は首を傾げて問いかけた。だが、少女の耳には届いていないらしく真っ直ぐ瞬きもせずに雨子だけを瞳にうつしている。

 気まずさに、誤魔化すように雨子は笑みを意識して作り「お邪魔してます」と呟く。その頼りない声は小さく掠れていたが、静かな空間なので聞こえないはずはない。返事を待てば少女は、はっとしたように身を震わせて。

「うっそお兄ちゃん! 恋人連れて帰ってきちゃったの? やだ先に言っておいてよ、超だらしない格好しちゃったじゃん!」

 びりびりと肌に感じる程に大きな声量にのまれて雨子はぎしりと固まる。頭の中が真っ白になり何も言えなくなっていれば、彼がこら、と諫めた。

「落ち着け。彼女が驚くだろう。それと恋人では」

「ええー! ていうか可愛い女の子捕まえたね? あっ私はね妹なんだ、よろしくね。こんな堅物のどこがいいの? あっ恋人なら私にとって将来お姉ちゃんだよね? お姉ちゃんって呼んで良い? 私、兄貴よりお姉ちゃんが欲しかったんだよねぇ! あっまだ結婚とか重いよねごめんなさい! でもでもお姉ちゃんって呼びたいなぁ! 駄目? ねぇ駄目ー?」

「だ、だめじゃ、ないです。あの、葵くんと私は、そういう仲じゃ」

「やった! 私、文代っ名前なの。古くさすぎだよねぇ! ふみでいいよ! っていうか、名字呼び? お兄ちゃんなんて日向って呼び捨てでいいんだよ。葵だと私なのか、お兄ちゃんなのか、ややこしいからね。ね、お兄ちゃん!」

「は、いや、そりゃ、いいけど。いやそうじゃない、ふみ。ちょっとまって」

「ほらね、お姉ちゃん。日向って呼んであげて」

「え、いやでも、あの」

「ほらほら! それともお兄ちゃんのことなんて名前で呼びたくない……? あっごめんね、お兄ちゃんの片思いだったのか、押しつけてごめ」

「ひ、ひなたくん! 日向くんって呼びますね!」

 怒濤の勢いに圧倒されて混乱していたが、良からぬ方向に行く雰囲気に慌てた。彼に嫌いという感情などない。それだけは否定しなければと勢いに任せて名前を呼んだ。

 彼の表情を、こっそりと見たが、不快になった様子でもなく、特に気にした風もないので、ほっとと息をついた。それから彼女の発言に間違いがあるので訂正しなければと思うのに口を挟む隙がない。少女もいつ呼吸をしているのかと不思議なぐらい矢継ぎ早に雨子へと迫ってきた。

 混乱していると、わなわな震えていた日向が耐えきれないように、半分叫ぶように少女を叱りつけた。

「ちょっとは落ち着け! 彼女は俺の友人だ! だからそんなに強引に話をするんじゃないっ。困っているだろう」

「お兄ちゃんうるさーい。だってお兄ちゃんが女子を家に連れてくるなんて初めてじゃん。そりゃもう、付き合ってるからでしょ? それとも今から口説く予定だった……? だとしたら、ごめん。計画台無しにして」

 会話を中断されて不満顔だったが、自分の中で出てきた想像に少女は申し訳なさそうにする。ころころと表情を変える快活な少女は愛らしく、雨子は顔を綻んだ。妹がいれば、こんな風に楽しい気持ちになれたのかもしれないと、ないものねだりをする程には彼が羨ましくなった。

 少女はいつも、今のように元気?剌としていて周りを明るく照らしているのかもしれない。彼も慣れているようで特に驚いてはいない。ややうんざりした様子で日向は首を横に振り、否定した。雨子にとっては羨ましくても日向には疲れる要因であるらしい。それでもちゃんと向き合って相手しているのだから、きっと仲が良い兄妹なのだろう。

「違う、彼女は怪我をして困ってるんだ」

「え、まじ? あーっ、本当だ! 痛そう……大丈夫? 災難だったね……って靴ないじゃん! 雨に降られるわ、靴は無くすわ、怪我をするわって」

「ふみ、だから彼女に手当とお風呂と、あと服を」

「あー、本当に雨って最悪。私も折角セットした髪乱れてさ、ボサボサになって、私の時間返せーってなったよ」

「ふみ、長話するんじゃない」

「そうだった。ごめん。ええっと服だよね。まっかせて。超可愛いの選ぶから」

 話の流れのまま、黙っていた雨子だがテキパキと進められていくのに、はっとして慌てて口を挟んだ。

「まって、お風呂って……そんな事までしてもらうのは流石に迷惑になるから」

「気にしないで、お姉ちゃん。困っている人をほっとくなんて出来ないよ。安心して、似合う服用意するから!」

 片目をつぶり、愛らしくウィンクを雨子に飛ばした彼女は、うきうきとした様子で準備に取りかかり始めた。

 教室で数度、それも事務的な会話しかしない男子生徒に、ここまで世話になるのは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。何より受けた恩に報いる方法を雨子は思いつかない。

 至れり尽くせりな状況を止めようとしたが、兄妹の連携は凄まじく、あれやこれやと反論の隙も与えてはくれなかった。

 日向は妹に雨子を預けて救急箱を取りに行く為、奥に引っ込んでしまう。妹はニコニコと笑顔のまま雨子の言葉を「まぁまぁ」と流しつつ風呂場へと連れて行った。服は用意するから十分に暖まるようにと伝えて脱衣所から姿を消した時には、もう後戻りは出来ないところまで来てしまっていた。

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