落とした靴と王子様
「お疲れー! 助かったよ」
一時間経ち、時計の針は六時を示した。口うるさい教師から文句を貰わないよう徹底的に綺麗にした教室を見渡してから日直の子は嬉しそうに雨子へお礼を言った。
他の教室なら一時間もかけて掃除しなくて良いのだろうけれど、あのハゲと表された教師を考えると、どの教室よりも綺麗にしなくてはいけない。満足いく仕上がりに雨子はほっと安堵してから、鞄を持ち上げた。
二人で教室を出て扉に鍵を差し込む。回してから開かなくなったのを確認すると日直の子は、このまま職員室へと鍵を返しに行くらしく、その場で解散することにした。
助かったよ、ありがとう。と繰り返す彼女に気にしなくて良いのだと伝えて、別れる。
ぱたぱたと廊下を駆けていくのを見送ってから、そっと廊下の窓から外を眺める。一時間前と何も変わらない風景に、自ずとため息がこぼれた。
むしろ激しくなっていく雨に、これ以上は待てないと覚悟を決めて重い足取りで昇降口へと向かった。
校内に響く部活のかけ声。雨子の横を何人かの生徒が通り過ぎる。もう何日外で部活が出来ていないのだろうか、グラウンドで走っていたはずの彼らから漂う不満を肌で感じつつ、下駄箱の前で靴を履き替えた。
先日卸したばかりの綺麗な運動靴、濡れるのが少し惜しいと思えていたのは、履いて二日目までだった。どうでも良くなる程に水たまりやら雨やらでずぶ濡れになってしまっている。
新しいとは信じられない程汚れた靴に残念な気持ちを抱きつつ、昇降口から外へと顔を覗かせた。
「うわ……ひどい」
思わず独り言が出てしまうぐらいの、土砂降りだった。そのまま歩きだろうとしていた足は無意識に止まり、かろうじて屋根がある場所で躊躇した。
空を見上げても厚い雲が覆っており、太陽など全く見えない。しかしもう雨子に選択肢など残されていない、否応なしに濡れて帰るしかない。
「……よし」
一回、二回。深呼吸をして覚悟を決める。
走っても歩いてもずぶ濡れになるのは同じ。せめての抵抗で鞄を頭の上に掲げて少しでも避けられるようにしてから勢いよく地面を蹴った。
ばしゃりと水飛沫が靴と靴下を濡らす。ぐちゅりと不快な感覚を耐えて、足を動かし続ける。冷たい水が制服に降りかかり、重く吸い込んでいく。
最寄りの駅まで歩いて十分。普段から運動を避けていて持久力がない雨子では途中で立ち止まってしまうだろう。どこか一度雨宿りしなくてはいけない。
どこか休める場所はあっただろうかと記憶を辿りつつ、川とマンションに挟まれた狭い道に踏み入れた、そのときだった。
「きゃあ……!」
ガクンと、足が縺れてぐらりと視界が傾く。まずいと身を固くしたと同時に衝撃が全身を襲った。
転けたのだと理解するのに数秒かかる。呻き声にもらしつつ、咄嗟に閉じていた目を開けた。取り返しのつかないほど汚れた制服も気になるが、痛みを訴える膝の方に意識が向く。
急いで上半身を起こして痛む右膝を見れば転けた拍子に皮膚が削られて、赤い血があふれていた。雨と混じり硬いアスファルトにこぼれていく。
久しく怪我などしていない。痛みに顔を顰めて息がつまる。留めなく溢れる血は赤黒く、深く傷ついているのが分かった。立ち上がろうにも上手く力が入らない、震える体に雨子は唇を噛みしめて耐える。
砂利を払おうと手を伸ばして、ふと気が付いた。
「げ、靴が」
右足に履いていた新しい靴がなかった。転けたとき脱げてしまったのかとキョロキョロと辺りを見渡す。だが、あるはずのそれが見当たらなかった。
何故、と呟いて、はっとする。まさか、と視線が辿ったのは道の横に流れる川だ。
積雨により川の水位が上がっており、流れも速い。頼りない危険防止のフェンスへ飛びついて、のぞき込む。氾濫しそうな川の水面に靴などない、だがこの流れの速さでは落ちたとしても既に姿は見えないだろう。
フェンスの下は空間があり、靴が転げ落ちるには十分だ。狭い一本道、周囲を見渡してもないのなら可能性は高い。
信じたくないと思うが、状況は絶望的だった。さぁっと血の気が引いて、力なくフェンスに額をぶつける。ずるりと手から力が抜けた。
「……っうそでしょ」
思わず呟いた声は雨音にかき消された。このまま片方、裸足で帰るのか。駅から電車に乗って、バスに乗り、自転車に乗る。遠い帰路を泥と雨で汚れた制服に靴を履かないで。
好奇の目に晒されるのは明らかだ。同級生と遭遇したら嘲笑われて、明日には噂される可能性だってある。
なんてことない。
別に、これぐらい仕方ないと諦められたら良かった。悲しい気持ちを誤魔化せれば。普段の雨子なら自分の気持ちを誤魔化しただろう。苦しさを踏み潰して、悲しさを殺して。解決方法を見いだそうと考えていたはずだ。
だが、今日はあまりにも嫌な出来事が多すぎた。
母の言葉、コンプレックスへの刺激、姉の理不尽、教師の説教、それからご令嬢の目。そして現在。重なったことが一気に襲いかかってきて息苦しさに喘ぐ。熱くなった目頭に瞼を下ろす。
家族なんて、今に始まったことではない。教師だって運が悪かった。ご令嬢も巻き込まれただけ。靴も。全部、全部運が悪かった。それだけ。
「それ、だけ……っ」
自分を無理矢理納得させようとするのに、上手くいかない。痛みが思考を邪魔し悪い方へと誘った。
雨粒が肌と服を濡らす。気持ち悪い、これだから雨は嫌いなのだと八つ当たりしたい気持ちが混み上がってくる。この程度で落ち込み、惨めに泣きそうになっている自分の弱さも苛立ちの要因でしかない。
じっとしていても、何も起きない。部活終わりの生徒が来て見てくるだけだ。分かっているのに雨子は身動き一つ出来なかった。まるで自分の体ではないような錯覚。
ああ、もう嫌だ。
ざぁざぁと雑音に耳を塞ごうと、全て投げ出して、世界を拒絶しようとして。
「――大丈夫?」
突然冷たい雨が止んだ。代わりに降ってきたのは朝、聞いた声だ。
のろのろと俯かせていた顔を上げて目を開ける。いたのは、自分が濡れるのを厭わず、雨子に傘を差しだしている男――葵日向だった。
「あおい、くん。どうして、ここに」
「どうしてって、俺は今帰るところだから」
下校時間なのだから彼が通ってもおかしくはない。だが、関わらないようにと決意した矢先に鉢合わせなど、偶然だとしても笑えない。殆ど囈言のような問いかけに、彼が当然の答えを返した。
「本当にどうしたんだ? 何かあったのか?」
心配そうに眉を寄せている彼は、返事しない雨子を不審に思ったらしい。確認するように視線を彷徨わせてから、怪我と靴がないのを知り、はっとする。そして少しだけ目をそらしてから学校指定のクリーム色のカーディガンを脱いで雨子に羽織らせた。
「着てて、俺ので申し訳ないけど」
「でも、これじゃあ貴方が」
「俺は大丈夫だから。それにそんなに濡れてたら寒いだろ?」
頑なに目を逸らされている。その仕草に漸く合点がいく。雨子自身も自分のカーディガンを着ているものの、前が大きく開いたカーディガンでは濡れて透けている胸の部分を隠せていない。
「あ、ありがとう」
ご厚意に甘えて、前を隠すようにぶかぶかのそれに包まった。彼は、それにほっと息をついてから次の行動を起こした。
「ごめん、これ持ってて」
藍色の傘を差し出されて、反射的に柄の部分を震える手で受け取る。そのせいで、水滴が彼の乾いていた制服に染み込んでいった。
「濡れちゃう」
「俺のことはいいから。少し痛いけど我慢して」
傾けようとしたのを彼は押さえて、雨子だけを雨から守るようにしてくれる。そのまま綺麗に畳んだチェック柄のハンカチをポケットから取り出し、雨子の傷へと触れた。
「いっ」
「っごめんな」
申し訳なさそうに眉を八の字に下げている彼は謝りつつも手は止めなかった。
手際よく砂利を取り除き血を拭ってから膝にハンカチを巻き付ける。今はこれで我慢してくれと言われるが、それよりも雨子は綺麗なハンカチが汚れる事の方が気がかりだった。
「ご、ごめん。汚しちゃって」
「そんなこと気にしなくていいよ。それより歩け……ないか」
靴のことであろう。きょろきょろと辺りを見渡して、川を一応のぞき込む。だが流れの速さから探し出すのは困難だと判断したのか、濡れた前髪をかき上げつつ、しゃがみ込んだ。
ズボンが汚れても気にも留めないようで雨子に背中を向けて「恥ずかしいかもしれないけど、おぶるから乗って」と、さらりと、とんでもない発言をした。
一瞬、何を言われたか理解出来ない。彼が現れて、急展開に頭がついてこない雨子はぽかん、と口を開けて間抜けな顔を晒した。
「え、いやでも、あの、葵君の服を汚しちゃうよ。私転けて、泥とかあって」
「平気、気にしないから」
「わたし、重いし」
「そうは見えないし、おそらく軽いよ」
ほら、早くと急かされる。折れる気はないと雰囲気が伝わり、雨子はしばし悩んだ末に誘導されるように、おずおずと彼の背中に体を預けた。
持ち上げるよ、という言葉と共に彼の手がしっかり支えて、ゆっくり立ち上がる。平気という言葉は嘘ではなかったらしく、彼は重さなど感じていない様子で歩を進めていく。
「本当にごめん、重いよね」
「謝らなくていいよ。それにすごく軽いから」
雨子は左手を彼の肩に、左手は傘を持った。出来るかぎる彼が濡れないよう細心の注意を払う。
「このまま俺の家に行こう。その足じゃ帰れないだろう?」
「そ、そこまでしてもらうのは悪いから! 駅までで」
「さすがに怪我して、靴をなくしてる女の子を放り出せないよ。ごめん、俺の我が侭に付き合ってくれないか?」
「我が侭なんて、そんな。あの、こちらこそ、ご迷惑を」
「これぐらい迷惑でも何でもないよ」
声音が安心させるように柔らかい。微笑んでくれているのだろうと察して恥ずかしさに雨子は顔を俯かせた。
おんぶなど、父親にされた以来である。そもそも雨子は父親以外の男と滅多に話さない。用事などで会話はたまにするが、それだけだ。男友達もいなければ恋人もない、慣れない感覚に戸惑い雨子は必死に話題を探した。
視線を彷徨わせて、唯一思いついたのは彼を正面から見た記憶にある違和感についてだった。先程は動揺して何も思わなかったが、珍しく彼のネクタイは緩められていた。いつもは優等生代表らしく、きっちり着こなしているのに。今は第一ボタンを開けていて、ラフだった。
今は背負われていて、見えないが、なんとなく気になり質問した。
「あの、ネクタイ……」
「――ああ、これ。だらしないよな、ごめん見苦しくて」
ネクタイという単語で何が言いたいのか察したらしい彼の声は苦いものが乗っていた。
雨子は首を傾げる。そんな感想は抱かなかったからだ、雨子からしたら、普段の真面目で取っ付きにくい雰囲気が崩れて話しやすさを感じていたのだ。
「別に、いいんじゃないかな。四六時中きっちりしているのも、疲れるだろうし」
気にしないと伝えると、彼が息をのむのが伝わってきた。動揺させたらしい、雨子はまずいことを言ったのかと固まる。指摘して欲しくなかったのか。どう言い繕うか焦っていると、彼が先に口を開いた。
何故か、震えて、押し殺したような、悲しそうな声だった。
「――うん、うん……ありがとう」
「お、礼を言われるようなことはないけれど」
「ううん、言わせて。あはは、おかしいよな。でも、嬉しかったんだ。……本当に、ありがとう」
泣き出しそうな声の理由を問える程、雨子は彼と仲良くはなかった。だけれど、無下に
する事は出来ずに黙って感謝の言葉を受け取る。支えてくれる彼の力が少しだけ強まった気がした。
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