ふたりのせかい
雨粒が地面を叩く音を裂くようにチャイムが鳴り響く。教師が本日の授業を終了したことを告げる声で大人しかったクラスメイト達が一斉に動き始めた。ざわつく教室内で雨子は、至極面倒になりつつも窓の外へと目をやる。
横殴りの雨は景色を白く霞ませる、遠くの様子など全く分からない。耳障りな雨音を振り切るように椅子から立ち上がった。
「いいから、さっさと帰るといい。待たせているんだろう」
「あなたは、いつも意地悪だわ。少しはお話してくれたっていいでしょう」
「君とこれ以上会話することなんて、私にはないよ。むしろ苛立つから、私の心の平穏を保つ為、君が罵声を浴びせられて泣かない為にも、さっさと目の前から立ち去るといい」
酷いわ。
涙に濡れた声に、棘を隠す気もない声。ふと顔を上げると、あのお嬢様と、友人が睨み合っていた。微かにお嬢様の目には涙が浮かんでいるように見えて、雨子は焦りつつ割り込んだ。
「ちょ、と。どうしたの、何があったの」
「何もないさ。私は、人を待たせているならさっさと帰るべきだと進言しているだけ」
「そうは聞こえなかったよ。何があったのかは知らないけど端から見ると、いじめているようで」
「気分が悪い?」
「とても悲しい」
「……そのお人好しさと、無責任さは君の美点であり欠点だよ」
応酬に友人が深々と溜め息をついた。呆れている様子だ。
しかし友人がお嬢様と会話するなんて珍しいことがあるものだと、雨子は不思議に思った。今まで言葉を交わしている姿を見たことがない、とまでは言わないが、滅多にない。同じクラスメイトとして必要最低限な関わりしか持っていない、というのは誤りだったのだろうか。今の雰囲気、ただのクラスメイトにしては、突っかかっているように感じた。
「ええっと、何が原因なの? 何か、あった?」
「別に。先ほどの答えが全てさ。待たせているなら早く帰れと言った。それだけ。聞き入れてはくれなかったけれどね」
「待たせてるって誰を」
「お迎えだよ。車の。運転手は彼女の親から仰せつかって、即刻お嬢様を回収して帰らなければいけない。遅くなれば叱られるのは運転手本人だからね。お嬢様の我が儘で迷惑被るなんて哀れにも程があるだろう」
「う……いやでも、ううーん」
「大体人を待たせてるくせに、平気な顔で、残ろうとするのが癇にさわる」
「部活とか、何か理由があるのかもしれない」
「部活は行かないらしいよ。疲れたらしい。いつもは葵日向を引き連れて見学するくせにね」
「……本当に、今日はどうしちゃったの。えらく不機嫌だね。他の事情があるのかもしれないじゃない」
「そうかい? なら人に迷惑をかけるのを当然だと思っている、目の前のお嬢様のせいだね」
「ひどいわ、そんな風に言うなんて」
雨子と友人の会話に、堪えきれなくなったかのように口を挟んだお嬢様は怯えるように体を震わせて、濡れた睫を揺らして瞬きをした。今にも涙が頬を伝いそうな、悲痛な表情に雨子は息をのむ。思わず手を伸ばしたが、それを止めたのは友人だった。
「それで? 君はまだ帰らないつもりかい?」
「だって、日向とお話したいの。それぐらい、いいじゃない」
健気なお嬢様の言葉に雨子は視線を動かした。
教室には、その葵日向の姿はないのだが一緒に帰宅するのではないだろうか。せめて彼がいれば、友人の一方的な攻撃も止めやすいのだが。
いない救世主を求めても仕方ない、雨子は覚悟を決めて、できる限り穏便に進めることに専念した。
「わかった。とりあえず、落ち着いて。お……彼女も、帰れない理由があるのかもしれないよ。だから」
「帰れない理由? 葵日向と喋る以外に何があるんだい? 君には分かるのかい?」
「た、とえば、傘がないとか。……あ、いやごめん。間違えた。そうじゃない」
雨子と同じく、傘を持っていなくて、彼と帰るのを待っている。言ってから、友人の車の迎えの話に矛盾していることに気がついた。他の理由を考えようとしたが、どうにも分からない。
いずれにしても、あまり軽々しく推察を口にするものではない。日向と話したい理由だって不明だ。
いざこざを止めるなら、まずは、ちゃんと事情を知るべきだ。雨子はお節介だと分かりつつ、疑問を聞こうとした、が。
「そういえば、どうしてみんな傘を持ってるの?」
きょとん、と心底意味を理解出来ない、と言いたげに、無垢な顔を向けてきたお嬢様に雨子は思わず口を閉ざした。問いかけを噛み砕き、どうにか飲み込んでみたが、どうにも消化できない。雨子にとって傘がいるのは当然だからだ。
雨が、降っているから。傘がなければ、濡れてしまうから。当たり前すぎて、その答えで良いのか迷ってしまう。
もっと別なのを求められているのではないか、と勘ぐれば友人が再び深く、溜め息をついて、がりがりと頭を掻いた。
「彼女は、傘など、人生で使ったことないよ」
「は、え?」
「雨の日は絶対、車で送り迎えだ」
まさか人生で一度も使用していないなど、あり得るのだろうか。自分の人生では想像もつかない。
友人がいい加減なことを言っているのではないかと疑いたくなったが、お嬢様はすぐに、肯定した。
「雨は、車じゃないと濡れて風邪をひいてしまうわ」
「では、問うが。車じゃない人は風邪を引いているように見えるか? 私も雨子も歩きだ。他のクラスメイトも傘をさして帰っている方が多いように思えるが?」
「……どうして歩きなのかしら」
「あ?」
「みんな車に乗ればいいのに、どうして歩きなのかしら。楽しいのかしら。雨なんて、じとじとして、濡れたら大変なのに」
友人の頬が引きつったのを雨子は見てしまった。明らかに怒っている、ぶわりと空気から伝わる感情に、雨子は頭が痛くなった。
何故、そこまで目くじらを立てるのだろうか。今日はやけに、お嬢様に対して辛辣だ。いつもは関わるのを控えているのに。
「あなたも、歩きなの?」
ふときらきらと宝石のように美しく愛らしい、くりくりした瞳が無邪気に雨子を捉えた。まさか自分に意識を向けられるとは思っていなかったので、突然のことに驚き言葉に詰まった。偽りを伝える必要もない、雨子は頷いた。
するとお嬢様は首を傾げる。
「貴方の名前は、雨子っていうの?」
「……まぁ、そうです」
「雨が好きだから歩いて帰るの? 名前にもついてるぐらいだから、雨が好きなのよね? 私は雨が苦手だから、濡れたくないのだけれど。風邪も引いてしまうから。ねぇ、雨の何処が」
「――いい加減にしろ。何も知らないからといって、何言っても許されるわけじゃない。無神経に人様の傷をえぐるな」
固まる雨子の代わりに友人が目の前に出た。背中にかばうように動いた友人が、先ほどより強い怒りと嫌悪感を示す。氷のように冷たい声音、雨子は背筋が凍り付いた。
「君が誰に迷惑をかけようが、君が困る状況になろうが、もう私には関係ない。気にしない。だから私と、雨子には関わらないでくれ。君は『知らない』を免罪符に悪びれずに、傷つけようとする。それがあるかぎり、私は君が死ぬほど嫌いだ」
酷く、冷たい声。鋭く、人を射殺す瞳に雨子は慌てた。自身に向けられた嫌悪感ではなくとも、間違いなく雨子にも関係することで怒っているのだ、素知らぬふりなど出来るはずもない。
「まっ、まって。流石に言い過ぎ。落ち着いて」
「雨子は黙っていて。口を挟まないでくれ」
ぴしゃりと雨子を遮った。
その迫力と、威圧感に思わず声が喉の奥に引っ込んだ。言葉すらも喉の奥に消えて、体を硬直させる雨子は、咄嗟にお嬢様と呼ばれる彼女に目を向けた。きっと怒りを直接浴びている彼女の方が怯えて、萎縮しているだろうと。
しかしそれは勘違いだったらしい。
彼女に恐怖などなく、ただ不満そうに頬を膨らませていた。
「意地悪、そんな風に嘘言わないで」
「だから嫌いなんだ。君は嫌われるなんてあり得ないと思っている」
さっさと目の前から消えてくれ。
追い払う友人に、お嬢様は「もう、帰るわ。今度、仲直りの印にお菓子を持ってくるわね」と拗ねたような様子で教室から出て行った。
ドアが閉まり、彼女の姿が見えなくなった。
それを見届けると、鉛のように重かった空気が、ふっと軽くなり友人も体から力を抜いたように、肩を下げた。毛を逆立ている猫のようだ、と場違いな感想を抱いていると友人は、まるで今までの出来事がなかったように振り返った。
「雨子、どうするつもりだい?」
切り替えられた会話についていけなかった雨子は返事ができなかった。何が、と聞く前に、帰り道の話だと気がつく。雨子は、傘を持っていない。このままだと、大嫌いな雨に濡れて帰宅する羽目になる。
そう。どうするもこうもない。傘がないのだ、できる限り雨脚が弱まった時期を狙って帰るしかないだろう。
友人が先ほどのお嬢様の件をなかったことにしようとしているのは、雨子に対する配慮もあるのだろう。コンプレックスに踏み込まれた雨子の為に。ありがたく話に乗らせてもらおうと口を開いた。
「どうにかするよ」
「待ってたら朝になるよ。きっと朝まで雨が止むことはない」
「小降りにはなるよ、多分」
「……ふうむ、雨子。もしよかったら一緒に帰るかい?」
ありがたい提案ではあったが、雨子は迷わず首を横に振った。
友人はいつも恋人である男と登下校している。その仲を邪魔する気など起きるはずもなかった。
ふと目線を教室のドアへと向ければ、いつも通り友人の恋人が姿を見せて無表情で立っていた。こちらの様子を窺っているのだろう、男の目とかちりとあって、気まずさに頭を下げた。
「恋人が来てるよ」
「あれが待ち望んでいるのは私じゃないんだがね」
「……彼女に人を待たせるなって怒ったんだから、貴方も、恋人を放って置いたら駄目」
随分な言い草に雨子は焦りをにじませて、急かした。恋人を蔑ろにして、自分を優先させてしまうのは雨子の良心が痛む。
傘を持ってこなかったのは雨子の問題だ。それに巻き込む訳にはいかないと、なおも食い下がろうとする友人の背中を軽く押す。
「……君がそこまで言うなら。だが間違っても傘を差さず濡れて帰るなんてことはしてはいけないよ。この豪雨では風邪をひいてしまう」
「わかった」
口では納得した風に、しかし心の中では雨の道を走るのも視野に入れていた。
そんな雨子の考えを手に取るように分かっているのだろう、友人は疑わしそうに目を眇める。沈黙が降りて、やがて諦めたように両手を顔の位置に挙げて降参のポーズをした。
「無理はしないでおくれよ」
「うん。また明日」
友人は気だるげに鞄を持ち、男の元へと行く。数回言葉を交わして、そのまま並んで姿を消したのを見届けてから雨子は椅子に座り直し、机に頬杖をついた。
友人と入れ違いで、日直の子が教室に来て、当番としての仕事をこなしていく。相方はいないのか一人で進めていく姿から目を逸らして、雨粒がガラスを叩くの何となしに眺めた。
日直当番が箒で地面を掃く音、黒板消しからチョークの粉をはたき落とす音。色々な雑音が混じる時間で雨子は、することもないと立ち上がって日直へと声をかけた。
「手伝うよ」
「え、いいの?」
「うん。暇なんだ。だから時間を潰したくて」
「ありがとう、うれしい。あ、でもハゲ先生がうるさいしな……」
日直の子が一瞬だけ目を輝かせ喜んだが、すぐに今朝の出来事を思い出したのだろう。確かにいつもなら何かしら難癖をつけてくるのは容易に想像が出来る。
「朝ちょっと色々あったから。流石に今日は大丈夫だよ」
「朝……ああ、日向君達が助けてくれたんだよね。流石、困っている人をほっとかないっていうか、優しいよね」
「……うん、そうみたいだね。それに彼女も」
「ああ、あの、お嬢様」
ご令嬢の話題が出るやいなや日直の子は苦い顔になる。眉を寄せて気まずそうに目を逸らす姿に変な空気を感じて雨子はどうかしたのかと問いかけた。
すると日直は口ごもり、どこか言いづらそうにしながらも声を潜めた。他に誰もいないが、何かを警戒しているようだ。
「あの子ね、根は良い子なんだけど……取っ付きにくいというか。世界が完結しているというか」
「世界……? 仲良くないの?」
「うーん、友達になりたいんだけど。話しかけて遊びに誘っても『日向がいるから』とか『日向と二人でいたいから』とか、日向君のことばかりで断られるの。そうなると、やっぱり日向君が好きな女子からしたら面白くないし、私とか日向君に恋してない女子でも日向君にべったりで、ちょっとね……なんせ相手にしてくれないから」
ご令嬢は男子に絶大な人気を誇っている。優しくて良い子だと噂で流れているが、女子からは不評な部分もあるのだと日直の子は簡単に説明した。
「遊びには付き合えないなら、せめてって思って。寄り道に誘ったの、何か食べて帰らないかって。そのときの返事がね」
――わたし、そんな所知らないわ。でも噂では、とても賑やかな場所なのでしょう? 落ち着けないし、相手の声も聞きづらいわ。わたしのおすすめの場所にしましょう、あそこなら周りのマナーもいいし、静かでゆったりできるのよ。
「日向君を当然のように呼んできて、行ったんだけど。もう価値観が別世界。とてもじゃないけど制服では来店しにくい場所だし、料金もすごいし」
「そ、そうなんだ」
「あの子は日向君としか喋らないしで大変だったし、味も店の雰囲気で緊張して分からなかった。……あ、でも日向君は来てくれて助かったよ、お金とかの問題も解決したから」
「おかねの?」
「全部高くて、困ってたら日向君が「今日は付き合ってくれたお礼に、奢るよ」って言ってくれて。彼女は終始不思議そうにしてたけれど。高いって何って聞かれたときは決定的だったよ。あぁ、この子、本当にすむ世界が違うんだなって。羨むことも、僻むことすらできないよ、あれは。そういう次元の話じゃないなぁって」
「……そう、なんだ」
人間関係は雨子が思うより難しい事になっているのだと後悔を抱く。朝は助かったが、これ以上深く関わるのは令嬢も自分自身にも益にはならないだろう。
「日向君は優しいし、何も言わないけど、他のクラスメイトと仲良くしないお嬢様を心配してるみたいだし……でもお嬢様にその気がないんじゃあね」
「そうなんだ、確かに二人いつも一緒だよね」
「でしょ? 雨子ちゃんも気をつけてね」
「何を?」
「あの二人がお互いどう思っているかは知らないけど。でもお嬢様は少なくとも日向君が他の女子と仲良くしているのは面白くないみたい。この前日向君と話してたら『もう行きましょ、日向』って邪魔されちゃって。きっと彼女の世界は、日向君と彼女二人だけで完結してるんだよ」
当時を思い出したのか、困り顔でため息をつく彼女を眺めてから雨子も頷く。朝の出来事、ご令嬢の目は雨子の勘違いではない可能性が高くなった。
「ご令嬢は、彼が好きなのね」
「恋人ですって公言してる訳じゃないから、分からないけど。でもあの近さで、恋人じゃないなんてあり得ないよね」
部外者である雨子が知る由もない。微妙な空気になったのを日直の子は察したようで、話を無理矢理軌道修正した。
「日向君が怒ってくれたなら、今日ぐらいハゲも大人しいよね」
ご令嬢がいない今、ひそひそと噂するのはどうにも後ろめたさがある。日直の優しさに便乗して、雨子も今までの会話をなかったことにするように、意識して口角を上げた。
「なら雨子ちゃん、悪いんだけど黒板を綺麗にしてくれる?」
手に持っていた黒板消しを雨子は素直に受け取り、言われ通りチョークの線が残る緑の板に滑らせる。仕事が全て終わる頃には帰れることを願いつつ、忙しなく腕を動かした。
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