有名な二人の関係
雨催いにハラハラしつつも教室へ辿り着いたことに安堵した。まだ早い時刻についた校内は静かで、少しだけ居心地が悪い。
きゅ、と上履きを鳴らして教室へと体を滑り込ませれば友人が窓を開け身を乗り上げているのが視界に入った。
高校二年生である雨子の教室は二階だ、もし手を滑らせてしまったら無事ではすまない。何だ、と疑問に首をかしげつつ、声をかけた。
「おはよう。その体勢は危ないよ」
上半身を乗り出している姿は、少しでもバランスを崩せば頭から真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。
不安を覚えていると声に反応した友人が、ぱっと顔を雨子に向けた。浮いた足を地面につけて、スカートの裾を払ってからこちらへ近づいてくる。
「おはよ、雨子。今日は早いじゃないか」
「ちょっと家族と喧嘩してね」
「またかい? 雨子の家は仲がいいね」
芝居がかった口調の友人は唇に指をさえて笑う。
今の会話で何故仲良いという結論に至ったのか、雨子には分からなかったが、特に聞き返さなかった。
友人の理解出来ない思考は、今に始まったことではないのだ。今更気にすることはないだろう。
「何してたの?」
わざわざ窓から落ちそうな体制になっていたことの方が気になり、問いかけると友人は空を見ていたのだよ、と身を翻した。
真っ直ぐ窓の元へと行く彼女の背中を追いかけて、窓を隔てて空を見上げる。
厚い灰色の雲に覆われており、太陽の姿は隠れている。朝だというのに暗い世界を眺めつつ友人は、ふぅむと顎をさすった。
「梅雨のせいで長いこと太陽を拝見していないと思ってね。ようやく鬱陶しい雨が引っ込んだというのに、雲は消えてくれないようだ。天気予報だと、午後からは豪雨だって話らしいし、今のうちに見たいのだけれど」
「午後から豪雨」
午後の天気については大方の予想はついていたが、豪雨とまでは想像していなかった雨子は思いっきり顔を顰めた。
帰り道を考えれば、今すぐサボってしまいたい衝動に駆られる。もしかしたら降らないかもしれないという淡い希望は完全に消え失せた。
「雨子、どうかしたのかい? 雨なのは今に始まったことじゃないだろう?」
「そう、だけど」
「豪雨なのも、中々いいものだよ。雨はうざったいが、豪雨となれば珍しい。学校側が生徒を家に帰す程ではない天気なのだから、危険性はないよ。楽しめば良い」
「無理」
「おや、雨子は雨が嫌いかい?」
「好きな人なんていないよ」
「太陽が見えないのは寂しいが、雨も良い。……もしかして雨子、きみはまさか、この梅雨の時期に傘を持ってこなかったとか、そんな愚かなミスをしたのかい?」
ズバリと言い当てられて、咄嗟に否定が出来なかった。
言葉に詰まった雨子に冗談めかしに言った友人の顔が驚きに染まる。大きく見開かれた目にいたたまれなくなり、そっと雨子は俯いた。
「おいおい嘘だろう。今は六月、かれこれ一週間は晴れている方が少ない天気だった梅雨の時期に。きみは、傘を持ってこなかったのかい? 昨日だって急雨に困らされた生徒が何人もいたじゃないか」
きみは馬鹿なのか、と言外に伝わり雨子は何の反論もできなかった。今日、傘を持参しない人間は殆どいないだろう。
「何故忘れたんだい?」
純粋な質問に雨子は簡潔に朝の出来事を伝えた。
姉に取られた、という話を聞き終えて友人は肩を竦めて苦笑いをこぼす。やれやれと窓から離れて自身の席についた。
それに倣い、雨子も自分の席、彼女の隣へと腰を下ろす。
「雨子、相手がいくら姉だからと、そんな横暴を許してはいけない。濡れて困るのは、きみの姉だけじゃないだろう?」
「晴子お姉ちゃんには通じないよ。屁理屈こねられて、押し切られるに決まってる。無駄だよ」
「雨子」
面倒くさくて、投げやりに返事した雨子を諫めるように名前を呼ぶ。
会話を続けようとした友人だったが、それを遮るように二人だけだった静かな教室の扉を開ける音が響いた。
反射的に二人で目線を向ければ、息を切らせた女の子が駆け込んでくる。ぜぇはぁと明らかに焦っている様子に雨子と友人はアイコンタクトを送り合った。
それも一瞬のことで、雨子は女の子の元へと歩み寄る。理由は分からないが必死なクラスメイトを無視するのは雨子も友人も出来ない。
「どうかしたの?」
なるべく優しく話しかければ、女の子は乱れた髪をそのままに、勢いよく顔を上げた。縋るような瞳に固まっていると、がしりと腕を強く捕まれる。
「雨子ちゃん! お願いがあるの!」
「お願い? えっと何?」
「私、すぐに部活に行って、部長に伝えなきゃいけなくて。私ったら昨日のうちに言わなきゃいけなかったのに、なのにど忘れしてて。電話しても部活中で出てくれないの」
口を挟む隙はなく、女の子は続ける。
握りしめていた手を離し、鞄の中から部活のユニフォームを乱雑に引っ張り出していた。破けるのではないかと思うぐらい力強く、乱暴な行動に雨子は落ち着けと背中をさする。
「早く言わないと……部活場所がね、変更になって。元々使うはずだった体育館は、あのバレー部と交換になってるの。バレー部だよ、バレー部! うちのバトミントン部の部長とすっごく仲が悪いあの! 大体先生も何で私にそんな重要なこと」
「わ、わかった。それで、私は何を手伝えばいいのかな?」
長くなりそうな話を、大きめな声で遮れば女の子はそう、と指を指した。
先にあるのは窓辺に置かれた花瓶。綺麗な紫陽花が生けてある。
「私、今日日直で。時間的に余裕がないのよ。知ってるでしょ、ハゲ先生ったら、朝すっごく早くに来て、出来てなかったら怒ってくるのよ。別に朝礼までにやればいいのに、それよりもずっと早くしろって、いちゃもんを」
「了解、日直仕事の代理ね」
また続きそうになる話をぶつりと切る。
ハゲと呼ばれてしまっている担任の教師は確かに神経質なところがある人物だ。
他の教師より随分早くに教室へと来て、日直の仕事を急かしてくる。黒板が少しでも汚かったら激しい叱責を飛ばすので、生徒たちには嫌われているのだ。裏ではハゲと、彼の薄い頭皮を揶揄い馬鹿にされている。
シンプルな時計の示す時刻からして、あの教師はもうじき姿を見せるだろう。
雨子はどうせ暇だから、と快諾すれば女の子は目に涙をためて、何度もお礼を叫ぶように言ってから、走り出て行った。
いなくなったのを確認してから、花瓶を拾い上げた。
「しょうがないね。私も手伝おうじゃないか」
よっこらせ、と重い腰をあげるようにかけ声を出しつつ、友人は黒板消しを握った。ふわりと舞上がったチョークの粉に顔を顰めつつ、黒板の表面を撫でて綺麗にしてくれる友人に、雨子は頭を下げた。
「ごめん、ありがとう」
「雨子が謝ることじゃないさ。さぁ、急ごう。あの教師は随分と早くに来る。おそらく出来ていない生徒を怒るのが趣味なんだろう」
言葉だけを捉えれば悪口だが、友人の言い方は不思議と棘はなかった。
そういう人種もいるのだと受け入れて、事実を淡々と言っただけのように感じる。
雨子は返事の代わりに廊下にある手洗い場へ早足で向かった。
教室から出ればじめじめした空気が、雨子の晒された素肌の腕にまとわりついた。蛇口を捻れば、冷えた水が流れて触れれば少しだけ指先が痛くなるが気にしている時間はないと、花瓶の水を素早く入れ替えた。
淡い青色の紫陽花に虫はついていないか、枯れている部分はないか確認してから重い花瓶を持ち上げる。
日誌は後で女の子が記入をするだろう。あくまでも朝すべき仕事だけの代理だ。
雨子は他にやるべきことを、いくつか頭の中でリストアップしつつ教室へと再び踏み入ろうとした。だが。
「ん……? 菊永、おまえ何をしているんだ」
ふと名字を呼ばれる。嗄れ声は聞き覚えがあり、雨子は舌打ちをしそうになった。
そこには白髪交じりの五十代の男が眉を寄せて怪訝そうにしている。神経質そうなつり目が雨子を真っ直ぐに睨み付けた。
かさかさとしていそうな唇が開き、次に飛び出るだろう発言に雨子は覚悟をした。
「菊永、お前は日直ではないだろう」
予想を裏切らない男だと、雨子は殊勝そうに見えるよう俯いて「はい」とだけ答える。彼の説教は母親と同じで、一度始まれば長くなるのだ。
黙って頷いていた方が早く終わることを、雨子のみならず全生徒が知っていた。
「何故、お前が日直の仕事をしているんだ。本当の日直当番はどうした」
「急用だそうで。代わりに私が」
「だめだろう。日直の仕事も意味があるんだ。学ぶべきことがな。それを奪ってしまえば、本来すべきだった人間は機会を失ってしまうだろう」
「はい。すみません」
「日直当番を呼び出してこい。大体菊永、お前はもっと断れるように、自分の意見をだな」
日直の仕事を肩代わりするなという話から、雨子の内気すぎる性格についての問題に移っていた。
長期戦になるのが火を見るより明らかで、どうしたものかと思案する。
別に聞き流せばいいだけなのだが、抱えている大きな花瓶は容赦なく腕を痺れさせてくる。せめてこれを窓際に置き直してからにして欲しかったが、それを口に出せば、担任は水を得た魚のように活き活きと、その提案を「叱られているときに我が侭を言うなんて」と目くじらを立てるに違いなかった。
黙って耐える他ない。時間になるか、友人が気がついてくれるか。それまで。
朝の出来事も相まって雨子は今すぐ泣き叫んで、うるさいと叫びたくなった。癇癪を起こしてしまいたい衝動を必死に堪える。
人の痛い場所へ無遠慮に踏み込まれて目眩がした。
異変など気付かない教師は、もっとはっきり物事を言えと責めた。聞き流してしまいたいのに、一番触れて欲しくない部分に的確に突かれて疲労し、胸が痛んだ。
「菊永! 聞いて――」
「先生、どうかしましたか?」
朝のようにそろそろ限界を迎える。解決の出口を探っていると、救世主が現れた。
第三者である男子の声に雨子は、いつの間にか閉じていた目を開けて顔を上げる。
そこにいたのは、とある理由から有名なクラスメイトの一人だった。
きっちりと制服を着こなし、見た目通り優等生の男子は微笑を称えながら、さりげなく雨子と教師の間に割り込んだ。まるで背中に庇うような仕草に、不覚ながらも心臓がはねる。
「何かありましたか?」
突然の登場に雨子は、不躾ながらも彼を観察してしまった。有名なクラスメイトが、ここまで自分と近づいたのは、初めてであり、目を奪われていた。
染めるなど、発想すらないだろう美しい黒髪は癖がない。背中の真ん中まで真っ直ぐに伸びており、下の方で一つに結んでいた。男子にしては珍しい髪型ではあったが彼によく似合っている。一見地味にも思えるが、女性と見紛う、優美さのある整った顔立ちで他の人間を圧倒していた。
ちらりと黒い瞳が花瓶に向くと、ごく自然な動作で引き取ってくれた。
「重そうだな、俺が持つよ」
「え、あ、いや。平気だよ」
「いいんだ、気にしないで」
有無を言わせない微笑みに雨子は、それ以上は何も言えず口を閉ざした。
花瓶についてよりも雨子は今の状況を説明して、早々に立ち去ってもらわなければならないとと焦る。変なことに巻き込むのは良心が痛むと目の前に立つ男子の裾を、教師には見えないように密かにつまんだ。
それだけで意図が伝わるとは到底思えなかったが、目の前に教師がいる手前、教師に怒られている最中だから、巻き込まれないうちに引き下がってくれ、などと発言するのは憚れる。
教師の逆鱗に触れないよう、上手く伝える方法を考える雨子に気が付いているのか、男子が静かに唇が動いた。
声には出ていない。読唇術を得ている訳がない雨子だが、流石に短い一言に察しがついた。
だいじょうぶ。
確かに、そう言っているような気がした。
まるで雨子が怒られている理由を知っているかのような態度。
驚いている間に、男子の目は真っ直ぐに教師へ向いた。少しだけ相手がびくついたのは、まさか楯突くとは思っていなかったのか、それとも彼が有名である理由に基づいているのか。
「先生、日直の子は別件で忙しいみたいで……焦っているところを菊永さんに助けてもらったらしいです」
「む、し、しかし。だがな、ならば余裕を持ってだな」
「日直の子は、そうかもしれません。……それでも、先生が朝礼まで待ってくださるなら、彼女も他人に任せることはなかったと思いますが」
柔らかい口調でざくりと棘を刺した。
普通なら短気である目の前の教師は激昂していただろう。
雨子ならば唾を飛ばし、顔を真っ赤にし、怒声を浴びせていた。
だが、目の前の男子ならば教師は唇を噛みしめるだけに留めている。ぐっと言葉を飲み込んだのが分かった。
「ですが、菊永さんは頼み込まれて、親切心から手伝ったんですよ」
「し、しかし」
「協力も大切、ですよね?」
威圧など感じない優しい声。
困ったように問いかける男子に、教師はうぐぐと唸り声を上げた。
一触即発のような張り詰めた空気に、雨子は緊張により体が強ばった。相手の出方を注意深く観察し警戒する。
ずっと続くかのような錯覚。沈黙の末、雨子の心配は取り越し苦労だったらしく、眉をつり上げていた教師は息をついた。
「そうだな。確かに、生徒同士、協力は必要だ。菊永、相手を思っての行動だったんだな?」
「っはい」
急に振られた質問に、少々遅れてから返事をする。
すると教師は「そうならそうと早く言いなさい」と最後言い残して、そそくさとその場を立ち去っていった。
よろよろとしている頼りない後ろ姿を眺めていたが、完全に見えなくなって、助けてくれた男子と向き直って頭を下げた。
「ありがとう、助かったよ。さすがだね。貴方なら、先生もひいてくれる」
「いや、俺の力じゃないよ」
苦笑してから彼は遠くの方へ腕を伸ばした。
そこには、彼以上に有名な女の子が。手招きされて嬉しそうにぴょこぴょこと体を揺らして、近づいてきた。
彼の隣に並ぶと幸せそうに「終わったのね?」と首を傾げた。綺麗な黒髪がさらりと肩からこぼれて、甘い香りを漂わせる楚々とした彼女に男子は頷く。
「うん、お待たせ」
「お疲れ様。あの先生、悪い人じゃないのだけれど。私、少しだけ怖いわ」
雨子に同意を求めているのではない、形の良い唇から囁かれる言葉は、全て目の前の男子だけに与えられている。
眉を下げて、長い睫が悲しげに震えた。悲しげに、儚げに、愁いを帯びた表情は、思わず細く小さな身躯を抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。同性の雨子ですらも魅了され、その感情に引きずられかけた。
しかし目の前の男子は慣れているのだろう、ただ苦笑してから「先生も、きっと何か考えがあるんだよ」とフォローした。
それを聞いて女の子は頬を膨らませて不満さを露わにしたが、それすらも愛嬌があふれていた。
「もう。日向は優しいんだから……あら? ねぇネクタイが歪んでいるわ。ちゃんとしないと」
「……うん、ありがとう」
男子の僅かに緩まったネクタイを締め直し、襟元を整える甲斐甲斐しい彼女。男子もされるがままになっていた。まるで夫婦のような仕草と空気だ。
どちらも優等生かつ、容姿端麗。二人並んでいると絵になるのだが、だからこそ雨子は疎外感に後退りをした。
端から見たら二人は夫婦のようだ。
相思相愛、釣り合っている恋人たち。そして夫婦だと錯覚するほどには、彼女達は常に一緒にいる。それこそが、いくつかある有名な理由の一つであり、クラスから孤立して、浮き出ている原因でもあった。
「花瓶を持っていくよ。他も何か手伝おうか?」
「いや、大丈夫」
「本当に? 遠慮してないか?」
親切な男ではあるが、隣にいる彼女を考えると頼る気にはなれなかった。
平気だと頷けば、彼は悩むように黙った。
暫しの沈黙を破ったのは隣にいるご令嬢である彼女。遠慮がちに彼の腕を引くので、彼も素直に従い、二人並んで教室へと入っていった。
一瞬、ご令嬢の目が雨子に向いた。
痛みを我慢するような瞳が細まる。宿るは明らかな牽制。一方的に嫉妬をぶつけられて、当て馬にされたような気分になった。
夫婦だと揶揄われる彼らの間を引き裂くつもりもなければ、裂くことも不可能だろうに、と心の中だけでぼやく。彼女の黒い感情を真っ向から受け止める必要もないと、俯いて視線を交わらせることを拒否した。
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