雨の靴

鶴森はり

大嫌いな雨

大嫌いなのは自分か、名前か。

 菊永雨子きくながあめこは騒々しさに呻く。夢の中に沈めていた意識を無理矢理引っ張りだすかのように、どんどんと乱暴に自室の扉が叩かれた。

 重たい瞼をあげれば見慣れた天井が視界に入り込む。

 薄暗い室内を確かめるように見渡していると、扉の向こうから「いつまで寝ているの! さっさと起きて学校に行く準備をしなさい!」という母の怒声が響いてきた。

 壁に掛けられた時計を見れば時刻は朝の六時半。まだ起床するには早い時間だったが、このまま二度寝すれば再度母親の叱責が飛んでくるのは間違いない。

 致し方なく体を、のろのろと起こした。

 朝だというのに、暗い室内。白いカーテンを引いて窓の外を眺める。暗雲立ちこめる空、かろうじて雨ではない景色にため息がこぼれた。

 昨日まで降り続けていたのが止んだのは喜ばしいことではあるが、すぐにまた同じように地面を濡らすのは想像に難くない。

 クローゼットに入れてある衣替えしたばかりの薄い制服に袖を通し、梅雨寒に身を震わせながらも一階へと降りた。

 洗面所に入ると、鏡の前に立つ。中途半端に長い髪を櫛で整えようとするが、寝癖は一向に直らない。湿気のせいもあるのだろう。

 じめじめしていて、だからこの季節は嫌なのだと憂鬱な気持ちが支配した。



 早々に諦めてリビングに行けば、いつも通り先に起きたのだろうスーツに身を包んで優雅に紅茶を嗜みながら携帯電話をいじる姉の姿があった。

 食事中にお行儀が悪い、と母親が怒っているが聞く耳を持たないようで機嫌よさそうに口元を緩めている。

「おはよう、晴子はるこお姉ちゃん」

「あら、おそよう、雨子あめこ

 嫌みったらしい姉に反撃する気はない。彼女の戯れ言に付き合う元気など朝にあるわけがないのだ。

 雨子が席に着けば、母親がこんがりと焼いたトーストとオレンジジュースを目の前に並べてくれる。おはよう母さん、と挨拶をすれば返ってきたのは小言だった。

「雨子、今日は朝ご飯作ってって言ったでしょう! なのに寝坊して」

 朝から甲高く響く母親の声は苦手で、思わず顔を顰める。それは姉である晴子も同じだったらしく「おかあさん、うるさーい」とぼやいた。

 しかしそんな注意も母親には届かなかったらしく、続け様に雨子を叱りつけた。

「今日はお母さん非番でゆっくりしたいから、雨子にお願いしたのに!」

「母さん、それ、多分言ってないよ。そもそも非番ってことも聞いてないし」

「言ったわよ! 雨子が聞き逃したんでしょう!」

 母親が勘違いしていると雨子は確信していた。

 昨日の母親は夜に帰ってきて上機嫌にお酒を呷り、酔っていた。呂律が回っていない口調で「今日はとことん飲むぞぉ!」と笑っていたのが、最後に見た母親の姿だ。それ以降会話はしていなく、今日に至る。

 それを晴子も知っているのだろう、何がそんなに楽しいのか大きな笑い声を上げて反論した。

「かあさん、昨日酔い潰れてたじゃん。絶対雨子に言ってないわー」

「いいえ、記憶にあるもの!」

 こうなったら意地でも引かない。押し切られるのは目に見えているので、無駄に体力を使うのは勿体ないと雨子は諦めた。

 いただきますと手を合わせてパンにかじりつく。イチゴのジャムが机に置かれていたが塗るのも面倒で無心で胃袋へと納めていった。

 その間にも母親のお怒りは静まらず無視を決め込む雨子へと真っ直ぐにぶつけてくる。

「大体、あんたは高校生なんだから朝も余裕あるでしょう! ちょっとは自分のことは自分でしなさい!」

「うん、ごめんね。お母さん」

「全く、あんたはいつもそう! そうやって」

「母さん、マジでうるさいって。ご近所迷惑だよー、雨子だって謝ってるんだしいいじゃん」

「晴子あんたは黙っていなさい。もう、晴子はそういうところがだめなのよ」

 げ、やぶ蛇だった。と舌を出して不愉快そうに呟く姉だが、その顔に余裕が残っており、この会話すら楽しんでいる様子だ。

 どんなときでも笑っていられるのか雨子にとっては積年の疑問であり、羨ましくもあった。

「さぁて、そろそろ出ないと仕事に遅れるわ。行ってきまーす」

「私も。学校に遅刻する。行ってきます」

 そそくさと姉妹揃って席を立つ。押し込んだパンの味などしない。流し込んだオレンジジュースの味だけが舌に残った。

 待ちなさいという母親の声を無視して二人で玄関まで来ると、靴を履く。

 そのまま扉を開ければ曇天の元で、姉が何食わぬ顔で立てかけられていた雨子の傘を握った。

「ちょっと晴子お姉ちゃん、それ私の」

「そうだっけ? でも私の傘、会社に忘れてきたんだよねぇ、貸してよ」

 当然のような態度の姉に、頭が痛くなりつつも断ると首を横に振る。

 六月に入り雨が降らない日の方が少ないのに傘を持っていかない馬鹿がどこにいるのか。空も今にも雨を落としてきそうな気配を漂わせている。

 拒否しているのに晴子はやはり快活に笑った。

「いーでしょ! スーツ濡れたら大変なのよね。ぐしょぐしょのまま仕事なんて気分最悪でしょ?」

「……それは」

「雨子はまだ学生で楽なんだから。ちょっとは我慢して、お姉ちゃんに、ちょうだい」

 にっこりと訳の分からない持論を早口でぶつけてくる。そうすれば気の弱い雨子が諦めて譲るのを心得ているのだ。

 思惑通り雨子は何も言えず黙り込んだ。

 どう反撃しようが姉が引いてくれることはないと知っている。諦めにも似た感情を持て余し息をついた。

 晴子、と後ろから母親の声がした。

 まだ怒りに顔を赤く染めているところを見ると、見送りではなく叱責の続きを言い来たらしい。執念深さに雨子は頭が痛くなった。

「全くなんでお父さんは、こんな名前にしたのかしら。名は体を表すというけれど。もう、晴子も雨子も困ったものね」

 ふぅとわざとらしく大きなため息をついた母は、まず姉を鋭く睨み付ける。次に続く母の話を容易に想像出来て、雨子はしまったと顔を歪めた。

 さっさと学校に行くべきだったと後悔しても遅い、母は怒気をにじませて責めた。

「晴子、あんたはね、名前の通り明るい。明るすぎるのよ、もう少し落ち着いて、親の言うことを聞きなさい。我が侭ばっかりで、お母さんを困らせないで。そんなんだと周りの人間が離れていくわよ。」

「はーい」

「雨子、あんたはね、名前の通り暗すぎるわ。もう少しお姉ちゃんを見習いなさい。うじうじと悩んで黙り込んで……そんなんだからあんたは駄目なのよ。押しに弱くていつもムスっとした顔で不機嫌そうに、お母さん見ていてイラッとするの」

「……わかったよ、ごめんね母さん」

 母親の口癖だった。

 もう数え切れない程言われ続けた台詞は耳に残り、記憶に刻まれ、心に抜けない棘を深く植え付けられている。

 雨子は自身の名前が大嫌いだ。

 うじうじと陰鬱とした自身の性格は、雨そのものだ。

 名前など関係ない、性格は自分のせいだと分かっているのだが、この名前をつけた母親に詰られると責任転嫁してしまう。つけた本人である母親がそれをネタに怒る度に名前と性格の引け目を感じているところを刺激されて気分を大きく下げていく。

 雨子という名前はコンプレックスの象徴のようなものだ。

 言われれば言われる程、言霊のように縛り付けてネガティブさに、より磨きがかかっていく。それを母親が指摘してまた落ち込む。

 負の連鎖ができあがった。晴子と名付けられた姉の快活な性格を見てまた苦しくなる。


 羨ましい、私だって晴子って名前がよかった。


 ないものねだりを随分昔から抱いていた。

 姉のように何事も楽しそうに自分の意見をはっきり言えたら、どんなに良かっただろうか。

 きっと世界は輝き人生は明るく眩しいものだっただろう。

 梅雨の空模様のように、どんよりと暗く、道も暗闇に飲まれている雨子の世界とは全く異なるもののはずだ。

 家族なのに明確に晴子と雨子の間には壁があった。絶対乗り越えられない高くて分厚い壁が。

 まだ何か続けようとする母親と、楽しげな姉に挟まれることに限界を感じ、雨子はたまらず走り出した。

「雨子!」

 どちらかが名前を呼ぶが振り返るつもりはない。傘など、もうどうでもよくなっていた。

 通学鞄を爪を立てるように握りしめて、逃げる為に学校へと急いだ。

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