花火

神楽伊織

花火

「幹哉と玲奈、くっつけよう」


 照りつける太陽の元、夏休みを迎えてすぐに、俺は紗季に呼び出されてそう提案された。彼女の表情に迷いはなかった。二人が想い合っているのは、俺の目から見ても明らかだったから、紗季もそれに気づいていたんだろう。


 高校生になって以来、ずっと一緒にいたメンバーだから俺にお願いしたんだと思う。ただそれは、俺にとってはあまりに酷な提案で、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼女が、紗季が幹哉のことを好きだということを、俺は知っていたから。そんな彼女の横顔を、ずっと見ていたから、俺にはそれがわかっていた。


「わかった」

「ありがとう」


 乗り気にもなれず、しかしそれをスッパリと断ることもできず、俺は短い返事をした。礼を言う紗季の笑顔には、やはり淀みがなかった。子どものように純粋な笑顔を向ける彼女に、俺は取り繕った笑みを返す。


「それで、具体的にはどうするの?」


 聞き返してみても、どうやら紗季は具体的な計画を立てていないようだった。そんなところも彼女らしいが、俺は呆れたようにため息を吐いて、とりあえずは夏休みに行く予定の夏祭りを二人でドタキャンしようということになった。

 幹哉たちには申し訳ない気持ちも多少はあるが、二人きりにする程度のことしか思いつかなかったのだ。


 八月三日。夏祭りの当日。俺と紗季は適当に理由をつけて、予定通り二人で夏祭りに行ってもらうことにした。それで終わりだと思っていたけれど、俺はどうせ暇なんだからと紗季から連絡を受けて、外に連れ出された。

 約束の場所で落ち合った紗季は浴衣を着ていて、いつもは団子状に結わいている髪を下ろしていた。


「どう? 浴衣」

「いいと思う。髪型も」

「ありがとう」


 嬉しそうに浮かべる笑みとその姿は、本当は幹哉に見せたかったはずなんだと俺は思った。紗季には幸せになってもらいたい反面で、今彼女との時間を独り占めできていることが嬉しくて、そう思ってしまう自分が少しだけ、やるせなかった。


「浴衣着てるってことは祭りに行くの? 幹哉たちと鉢合わせにならない?」

「せっかくだから花火くらいは見たいもん。だからとっておきの穴場を特別に教えてあげよう」


 人差し指を立てながら、自慢げに紗季は言った。俺は紗季の後を追うように、彼女に案内されるがまま道を歩いて行く。

 通っていた中学の裏道を抜けて、その先にある長い階段を登って行く。両脇に森が広がるその場所は、ひぐらしなどの虫の鳴き声が良く響いていた。


 階段を登り切ると、そこは空き地となっていて、夏草が生い茂っていた。街灯のないそこからは、いつの間にか広がっていた星空がより鮮明に見えた。


「言ったものは持ってきた?」

「うん、持ってきたよ」


 頷いてから、俺はリュックを下ろしてそこからレジャーシートを取り出した。それを地面に敷いて俺が腰を下ろすと、紗季も隣に僅かな距離を空けて腰を下ろした。


「随分おっきいリュックだけど、他に何か入ってるの?」

「一応ランプとか虫除けのお香とか。キャンプするときのリュックそのまま持ってきたから」

「おお、それは気が効くね。さすがアウトドアが趣味なだけある。お香とランプつけよ」


 紗季に言われて、俺はお香とランプをつけて二人の間に置いた。それからリュックの中を探るようにして携行食をいくつか取り出した。


「一応こんなのもあるけど食べる?」

「あー、実はねお弁当作ってきたんだ。よかったら食べて」

「そうなんだ、わざわざありがとう」


 言いながら紗季は籠バッグから二人分の小さな弁当箱を取り出した。ランプとお香をまたいでそれを受け取ると、俺はそれを開いた。卵焼きに冷食のミートボール。ポテトサラダに加えて海苔弁当となっていて、綺麗に彩られたそれに、俺は思わず感嘆の声をあげた。


「ちょっと男の子には少ないかな?」

「いや、十分だよ。うまそう」

「ありがとう。じゃあ、食べよう」


 それから二人で弁当を食べた。人のいない静かな空間で、俺は幸せな時間を過ごした。紗季は俺と二人で本当によかったのだろうかと、時折脳裏を過ぎるそんな考えが鬱陶しく感じられた。

 眼前に広がる夜景と、ずっと向こうに見える祭りの光。今頃二人は何をしているんだろうかと、そんなことも考えた。ただ横にいる紗季の本当の気持ちすらわからない俺に、到底そんなことがわかるはずもなかった。


「ごちそうさま。うまかったよ」

「うん、ありがとう」


 弁当を食べ終えてそれを片付けると、俺はランプの灯りを消した。そして数分が経過すると、一発目の花火が空高く打ち上がるのが見えた。そこからはあっという間だった。いくつもの花火が打ち上げられて、遅れて聞こえてくる爆音に心臓が震えて、妙な高揚感を感じながらそれを眺めた。

 目を奪われるようにそれに意識を集中していたが、時折横を見ると赤や緑、青色に反射する光に照らされる紗季の横顔があった。彼女もまた、目を奪われているかのように花火に意識を集中させていて、俺の方を見ることはほとんどなかった。

 一度、たった一度だけ、俺の方を見て穏やかな笑みを浮かべたが、次の花火が打ち上がると同時にまたそちらへ意識を向けてしまった。


 花火が全て打ち上がり、俺はレジャーシートの上に仰向けになった。紗季も俺を見ると同じようにして寝転がった。


「ここ、最高でしょ?」

「うん。光源が少ないから、星も月も綺麗だし、今日は夜風が気持ちいいから余計。ずっとこの街に住んでたけど、こんなところ知らなかった」

「まあ、昔住んでたからね」

「うん、知ってるよ」


 俺が呟くと、紗季は驚いたように顔を向けた。そうしてしばらく俺の顔を見つめたのちに、ハッとしたように尋ねる。


「もしかして、ゆうくん?」

「やっぱり、気づいてなかったんだ」


 笑みを浮かべて返すと、紗季は勢いよく体を起こす。


「全然気づかなかった」

「俺は高校で会った瞬間わかったけど」

「だって祐介、あの頃からすごく変わってない? 昔はすごく内気だったのに」

「まあ小学校の頃だし無理もないでしょ。紗季なんてやんちゃで男子みたいだったから」


 揶揄うように言うと、紗季はどこか諦めたように再び仰向けに寝転がった。そうして彼女は俺に笑みを浮かべた。


「私ね、本当は幹哉のことが好きなんだ」

「それも知ってる」


 その言葉に、紗季はやはり驚いたような表情を見せた。ずっと昔から知っていて、女々しくもずっと彼女のことを想っていて、だからこそ彼女に気づいたし、彼女が誰を好きなのかも見ていればわかった。妙に吹っ切れた感覚で、俺は自然な笑みを浮かべていた。


「全部お見通しって感じ?」

「まあ、うん」

「そっか。……今頃あの二人、何してるのかな。もう告白成功してたりして」

「それは……どうだろう? 幹哉も案外奥手だから」


 俺の言葉に、紗季も納得するように頷いた。安堵しているようで切なげな、そんな表情を浮かべる彼女に、俺は徐に尋ねた。


「良かったの?」

「うん。いいんだよ、これで。想いあってる二人が結ばれる方が、幸せだと思うから」


 諦めなのか、本心なのか、それでも紗季に対する俺の考えが同じである以上、俺はそれを否定することができなかった。


 しばらく二人で星空を眺めたのちに、俺たちは帰ることにした。二人のスマホのライトが夜道を照らし、時にその灯りは交差して、時にその灯りは反発するようにそっぽを向いた。


「付き合ってくれてありがとね」

「うん。気をつけて」


 最後に別れを告げると、彼女は改札の奥へと消えていった。遠ざかる後ろ姿を引き止めて、今すぐにでも俺じゃダメかと言いたくなった。けれどそれを言う勇気もなくて、それをいってしまうのはあまりにも酷な気がして、俺はその言葉を飲み込んだ。


「あれ、祐介?」

「何してるの?」


 帰ろうと駅を出ようとした時に、突然声をかけられて振り向くと、そこには並んで歩く幹哉と玲奈の姿があった。


「親戚が来てるって言ったでしょ。ちょうど今見送ったところ」

「そうか。……今からもっかい行くか?」

「いや、いいよ。玲奈だってその足じゃ歩き疲れてるだろうし」


 玲奈の足元、履いている下駄を見て俺はそう言った。幹哉は納得するように頷いてから、「仕方ないな」と笑みを浮かべてその場で解散することとなった。

 ただ一つ、恋人繋ぎをする二人の手だけが気がかりで、その関係を知ってしまうのはなんとなく嫌で、俺はやりきれない気持ちをどこかにぶつけたくて、口元に入った力で下唇を強く噛んだ。

 僅かに感じる血の味は、少しだけしょっぱかった。


 翌日から紗季は帰省することになり、俺は幹哉に呼ばれて彼の家へ行くことになった。


「俺さ、玲奈と付き合うことになったから」

「そうなんだ」


 課題をやりながら、幹哉は俺にそう告げた。すでに知っていたから、さほど驚くことでもなかった。これをいつ、どうやって紗季に伝えるべきなのか。そもそも伝えないべきなのか。それだけが気がかりで、俺は彼に問いかける。


「紗季にはもう伝えたの?」

「——それなんだけど……」


 尋ねる俺に対して、幹哉はどこか気まずそうに言い淀んだ。


「紗季って、俺のこと好きだろ? だから俺から言うのはマズイ気がしてさ。代わりに言ってくれないか? 玲奈も知ってるから、言いづらいらしくて……」


 その言葉が、表情が、その時の俺には憎らしかった。


「——ふざけるなよ……!」

「え?」

「ふざけるなって言ってんだよ!」


 立ち上がって俺は語気を荒くした。もう抑えられなかった。全部、全部自分のせいなのはわかってた。うじうじと自分の気持ちを伝えることもできない俺が、言うべきじゃないこともわかってた。八つ当たりなのもわかってた。

 ——それでも溢れ出す気持ちを、言葉を抑えることができなくて、俺は無我夢中で言葉を吐き出した。


「紗季の気持ちがわかってるなら、それこそ幹哉が伝えるべきなんじゃないのか! どうして俺に擦りつけるんだよ! 好きにさせたんだから、それくらいの責任は取るべきじゃないのか……。それを俺に任せるのは……あまりにも、酷すぎるだろ……」


 自然と涙が溢れた。今までひた隠しにしてきた気持ちを吐露して、それが自分の気持ちを自覚させて、紗季の何者にも慣れない自分が悔しくて、涙が溢れた。


「お前もしかして——」

「——好きなんだ……。好きなんだよ、紗季のことが……」

「……悪い」


 頭を抱える幹哉を見てから、俺は彼の家を逃げる様に飛び出した。関係が壊れかけていく様な感覚がして、引き返そうとする気持ちもあったけれど、それよりも今は、一人になりたかった。


 幹哉が俺の家にやってきたのは、それから二週間が経過した頃だった。

 母親に通された幹哉は、俺の部屋に入って来ると開口一番に謝った。


「ごめん。祐介の気持ち、全然知らなかった。もう紗季には俺からちゃんと伝えたから、だから、許してくれないか?」

「そっか。……それなら、いいんだ。俺の方こそ、ごめん」


 無愛想に答える俺を見て、幹哉は安堵した様な笑みを浮かべた。彼がちゃんと気持ちを伝えたのなら、もう責める理由なんていうのはなかったから。

 ただ、それでもまだ、俺の心にはわだかまりが残っていた。けれどそれがただの嫉妬だということは、すぐに理解できた。


 その日は、それだけで幹哉は帰って行った。きっと彼も居心地が悪かったんだと思う。ただ俺も、もう少しだけ、時間が欲しかった。


 翌日は紗季からの連絡で家に呼び出された。誰もいない家に上げられて、彼女が出してくれたお茶を一口飲んだ。


「幹哉のこと、ありがとね」

「……聞いたの?」

「うん。案外良いところあるんだね」

「そんなこと、ないよ」


 とても静かで、時計の針が進む音と、エアコンの音だけが響く空間で、数秒の間を置きながら飛び交う会話は、少しだけぎこちなくて、気まずくも感じられた。


「でもね、祐介のおかげで私、ちゃんと諦めることができたんだよ。……まだ完全に、っていうわけじゃないけど……それでもどこか吹っ切れたみたいな感覚があるの。多分本人に伝えられてなかったら、うやむやのまま、初恋を引きずってたと思う。だから、ありがとう。本当に」


 両の目に僅かな潤いが見えた。徐々に声が震えていくのがわかった。数秒したのちに紗季の頬を伝う涙を見て、俺は抑えきれなかった気持ちを声に出してしまった。


「——俺じゃ、だめかな?」


 自分でも驚いてしまう様な、口をついて出た言葉は、紗季を驚かせた。彼女は目を見開いて俺を見つめると、しばらくして徐に口を開いた。


「今、それを言うの……?」

「ごめん、これは——」

「——それは、少し、ずるいよ」


 先ほどよりも強く震える声と、堰を切ったように溢れ出す涙を見て、自分がしてしまったことを痛感した。


「ごめん、すぐ帰るから——」

「——待って」


 急いで帰り支度を始める俺の腕を、先は強く掴んだ。涙を拭った手は少しだけ濡れていて、僅かに震えているのもわかった。

 呆然とする俺を押し倒した紗季は、その顔を近づけて問いかけた。


「……今日だけ。……今日だけは恋人になってくれる?」

「なにを——」


 その先の言葉を遮る様に、紗季は俺にキスをした。驚いたままの俺に、彼女は言葉を続ける。


「多分あの二人も、同じことをするんだよ。祐介があんなことを言うから、私の心の隙間を埋める様なことを言うから、気持ちを自覚させる様なことを言うから、いけないんだよ」

「これ以上は——」

「——言わないで」

「紗季……」


 笑みを浮かべながら、彼女は涙を流して喋り続けた。瞳から鼻先を伝って、俺の顔には彼女の涙がこぼれ落ちる。

 ポツリ、ポツリ、またポツリ。夏の静けさの中で、妙な暖かさを帯びたその涙が、表情が、震える声が、紗季の気持ちを心に直接伝えてくる様で、俺も苦しくなる様な感覚がした。


「こうしないとダメなの。こうでもしないと私、やっぱりこの気持ちを消し去るなんてことはできないんだよ。下心があっても良い。なんでも良い。でも相手は、あなたが良いの……。私を好きだって言ったくれた、あなたが良い」


 縋るような瞳と声音に、俺は情けなくも負けてしまった。一夏の気の迷いで、俺は彼女を抱くことになった。

 好きだった思いが醜い欲情になって、何もかもを紛らわせるように、ただ紗季への思いをぶつけるように、彼女を抱いた。

 初めて見る表情が、初めて聞く甘い声が、想像でしかなかった紗季の裸体が、全てが新鮮だった。白く柔らかい肌に触れて、人肌の暖かさがエアコンの効いた部屋では心地よく感じられた。

 汗ばんだうなじと、涙を浮かべながらも受け入れてくれる紗季の体と、時折肌をくすぐる彼女の毛先の感触。その全てが夢のようで、儚く、呆気ないものだった。


「ありがとう、祐介」

「うん」


 とても短い返事だった。それしか言葉が浮かばなかった。きっと紗季が、これ以上俺にすがってくることはないだろうと、そう思った。


 案の定、それ以来俺と紗季が関係を持つことはなかった。その夏はいつの間にかいつもの日常を取り戻し、以前のように四人で遊ぶことも幾度かあった。あの日のことなど覚えていないかのように振る舞う紗季を見て、俺もどこか吹っ切れたような感覚を抱いていた。

 清々しい紗季の横顔に、惹かれることはなくなっていた。


 ずっと引きずってきた淡い気持ちを吐き出して、たったの一日で潰えた俺たちの関係はいつか思い出となり、やがて一夏の花火のように淡く、切なく消えていくのかもしれない。

 それが少しだけ、寂しかった。

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花火 神楽伊織 @Knock-Q

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