メダカの滝登り

水棲サラマンダー

メダ造とダカ坊

 とある川の支流の、そのまた支流。

 もはや川沿いの溜め池と呼ぶ方が正しい場所にて、俺はだらだらと時間を浪費していた。


 俺達メダカにとって、一生を掛ける目標などない。達成すべきことも、せいぜいが子孫を残す程度。

 誰もがこうして、適当に泳ぎつつ、寿命が尽きるのを待つのだ。

 この辺、餌なんてすぐに見つかるしな。


 と、人生は輝きに満ち溢れているとでも思っていそうな、ニコニコしたガキが寄ってきた。


「メダ造さん、メダ造さん!」

「んー? えーっと、ああ、ダカ坊」

「名前覚えててくれたんっすね! 嬉しいです!」

「んで、要件は?」

「はい! 遠くの方に見えるアレはなんでしょうか?」


 そう言って、ダカ坊は胸びれで上流の方を指し示した。


 その風景はいつもと変わりなく見える。

 しかし、俺にはなんのことを言っているのか、すぐに分かった。


 おそらく、ダカ坊は天に上っていく何かを見たのだろう。


「あれはな、鯉の滝登りってやつだ」

「鯉が滝を登るんですか!?」

「厳しい修行を積んだ鯉は登れるらしい。そして登りきると、竜になれるんだと」

「ひゃあ、それはすごいっすね!」


 ダカ坊はキラキラとした目を滝に向ける。

 嫉妬も羨望も混じらない、純粋な目だった。


 その時、光が空へと上がっていくのが見えた。また一匹、竜が誕生したのだろう。

 ここからでは形も分からないが、とても神々しい光景だ。


「すごいっすねぇ……」

「ま、俺達メダカには関係ない話だ」

「……メダカは竜になれないんっすか?」

「無理無理。そんな話、聞いたこともねぇよ」


 ダカ坊は滝の方角を見ながらぼーっとしていたので、俺はまただらだらと泳ぐことにした。







「メダ造さん、メダ造さん!」

「おう。どうした?」


 ダカ坊の目は相変わらずキラキラしていた。先日、滝登りの話をした時よりも、更に興奮しているように見える。


 加えて、決意の光が宿っていた。

 嫌な予感がする。


 メダカが一生を無難に終えたいのなら、興奮もダメだが、決意なんてものはしてはいけない。


「俺、滝を登って竜になるっす!」


 ほらやっぱり。

 メダカの青年がする決意なんて、大抵ろくでもないに決まってる。


「やめとけ。無理だって」

「無理じゃないっす! 例えそうだとしても、俺はやる前から諦めたりしません!」


 あー、これは止めらんないな。


 ダカ坊は、俺に相談をしに来たわけじゃない。

 滝に挑戦するというのは、彼の中では既に決定事項なのだ。


「……一緒に行く仲間はいるのか?」

「いません! 誘ったら鼻で笑われたっす。それなら、一匹で挑戦するっす」


 ここで、他のメダカなら更に心配を強めたりするのだろう。

 仲間がいたって無理なのに、一匹なら更に過酷じゃないか、と。


 だが、俺は安心した。

 仲間がいる時は、絶対に諦められないものだ。


 一匹で、ひとりぼっちでいる時、心は弱くなる。

 諦めたって誰にも迷惑はかからない。せいぜい皆に笑われるだけさ。

 そう思えるから、無理難題に挑むなら孤独の方が良いのだ。


 ……無事に生きて帰りたいのなら。


「じゃあ行ってこい。辛かったら帰って来いよ」

「俺は絶対に諦めたりしません! それでは行ってくるっす!」

「おう」







 ダカ坊が出ていってから一年が過ぎた。

 まだ戻ってこない。


 滝登りは年に四回行われるから、滝まで行く時間を考えても、そろそろ帰ってくる頃のはずだ。


 既に何回か、俺は他のメダカに責められている。

 将来のある若者を見殺しにしたのだから、当然のことだ。


 群れの中に、ダカ坊の生存を信じている者はもういない。

 ほぼ全員が諦めて、他の数匹も半々だと感じているらしい。


 俺の経験からすると、まだダカ坊は生きている可能性がある。

 実際、俺は滝から戻ってくるのに一年半ほどかかった。


 そう、ダカ坊にあんな偉そうなことを言っておいて、俺もかつては滝登りを目指していた。

 あんな風に目をキラキラさせていた時代が、俺にもあったんだ。


 俺の時は同い年がたくさんいて、同じ志を持つメダカも数匹いた。

 俺達五匹はこの池を抜け出して、川を遡り始めた。


 しかし、メダカってのは、流れの早い川を泳ぐようにできていない。

 すぐ近くの岩場を抜けた時、早速一匹いなくなっていた。


 探している余裕は無かった。

 誰も「探しに行こう」とは言わなかった。「置いていこう」とも言わなかった。


 ただ無言で、彼を見捨てた。


 その日の夜、流れの緩やかな淵を見つけて、休もうとした時。

 陰から出てきた魚にさんざん追い回された。


 やっと撒いたと思ったら、また一匹いなくなっていた。

 それがもし自分だったらと考えると、今でも恐怖がこみ上げてくる。


 自分じゃなくて良かったという思いと、仲間の死を悲しむ気持ち。


 その間に挟まれて、俺達は荒れた。

 結局そのままもう一匹が帰って、初日にして二匹になってしまった。


 ちなみに、俺はその後こうして帰って来たけれど、その時に帰った奴はいなかった。

 帰り道のどこかで死んだのだろう。


 二匹になってからは、初日に比べれば順調だったと言えるだろう。


 共に餌を取り。

 共に魚から逃げ。

 共に川を泳ぎ続けた。


 どっちが滝を登っても、恨みっこなしな。

 おう、俺は絶対に竜になるけどな。

 いやいや、俺だって絶対なれるさ。

 ……一緒に、竜になれると良いな。

 ここまで来たんだ、きっとできるさ。


 今でも夢に見る。

 俺達は滝に挑戦できると信じて疑わず、明るい未来を思い描いていた。


 例え滝に負けても、後悔はしないという自信があった。

 滝に挑戦できるのなら、それで良かった。


 けれど、滝は上流にある。


 つまり、延々と続く急流を乗り越えなきゃいけない。

 休む暇なんてない。

 必死に岩を乗り越えたと思っても、またすぐに次の岩が迫ってくる。


 それでも俺達は乗り越えた。


「やったな、これで次は滝に挑戦だ!」


 隣にいた相棒に話しかけた。

 二匹並んで泳いでいた。互いがいなくなったら、すぐに気づけるように。


 相棒はいなかった。


 それでも、悲しんでいる暇なんてない。

 俺は目の前の滝に挑む覚悟を決めた。


 相棒の分まで自分が頑張らなければいけないと、純粋にそう思っていた。


「そこの鯉さん、次の滝登りはいつですか? まだ全然集まっていないようですが」


 俺の記憶だと、あと数日で行われるはず。それなのに、周囲には話しかけた鯉しかいなかった。


「はぁ? これは滝じゃねぇよ、滝はこれをあと三回乗り越えた、その上だ」


 諦めたくなった。

 けれど諦められなかった。


 仲間達の分まで、俺が頑張らなければいけないから。


 ほぼ滝の急流を登っていた時、諦めて楽になろうと何度思ったことか。

 その度に仲間の顔がちらついて、鰭に力を入れるのだ。


 励ましになどなるわけがない。


 仲間達の亡霊が囁くのだ。


「俺達の分まで頑張れ、お前ならできる、きっとやってくれると信じてる――」


 ……この後、滝に挑むことができたのなら、苦しかった記憶も良い思い出になったのかもしれない。


 あと少しで滝壺、という所で俺の意識は消えた。

 気づけば、鯉と会話した場所で底に沈んでいた。


 どうやってこの池まで帰ってきたのかは覚えていない。







 竜となった鯉が、様々な色の光を纏って空に昇っていく。


 今年もまた、目をキラキラさせる若者がいる。

 ……ダカ坊みたいに送り出した方が良いのだろうか。それとも、無理にでも夢を諦めさせた方が良いのだろうか。


「メダ造さん! 見て見て、光が昇っていくよ!」

「おう、鯉が竜になってるんだ」

「へぇ……あ! 見てあれ! ほら!」

「また鯉が竜になったんだろ」

「違うってば!」


 言われて見てみれば、今昇っている光はなかなか見ない色だった。

 黄色がかった白。

 旅に出た時もそんな色の鯉は見たことがない。


「あれ、まるでメダカみたいな色だね!」

「……まさか、な」


 ダカ坊は、最後まで諦められなくて、死んじまったんだ。

 あの滝をメダカが登れるわけがない。


「……変な色の鯉だろ」

「メダカって思ってた方がワクワクする!」


 なんだそれ。

 本当はどっちなんだろうかとか、気にならないのか?

 まあ、分かるわけないが。


 ……いや、分からないから自分がワクワクする方を信じてるのか。


 自分達が一匹もたどり着かなかった栄光を、彼がたった一匹で成し遂げたというのなら……少し悔しい気持ちもあるが、嬉しいという気持ちの方が大きい。


 仲間達だって、この群れのメダカが竜になったって聞いたら、きっと喜んでくれるだろう。


 どうせ事実は分かりっこないんだ。

 ダカ坊は成し遂げた。

 そう思った方が嬉しいんだから、ダカ坊は成し遂げたのだ。


「そうだ、とあるメダカの話をしてやろう」

「え、聞きたい聞きたい!」

「昔、ダカ坊っていう青年がいてな――」

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