小道と黒猫

プラム

第1話

 またか…

 眠りから覚め、ふと窓の方に目をやるとそこにはもう茜色の空があった。少し重怠い体を起こし、冷蔵庫を開ける。そこには、賞味期限の切れたミネラルウォーターしかなかった。

 ため息をつき軽く髪を束ねると、貯金箱から出した一枚の五百円玉と鍵をつかんで四畳半の部屋を出る。五百円玉貯金は今にも底をつきそうだった。なにもない殺風景な部屋だ、と思いまたため息が漏れる。仕方がない、お金がなくて服さえ買えないのだから。

 一日中なにも食べないのは流石に体にさわるからと外に出たはいいが、夕方の優しい西日でさえ私にはこたえた。それに、たかだか五百円でなにが買えるのか。

 商店街までの道を歩きつつ考える。いつからだろう、誰かに必要とされるという感覚を忘れたのは。自分の夢さえ思い出せなくなったのは。

 元々、人と関わるのが得意な方ではなかった。それが、大学に入った辺りから酷くなった。勉強にはついていけず、それを聞けるような同級生もいなかった。

 結局大学を中退し、お金を貯めようとやってみたバイトは全く長続きしなかった。不器用なのと、圧倒的に接客ができないのと。いくつ目かのバイト先の店長に言われた言葉が今も耳に残っている。

 「君って、もしかしてなにもできないの?」

半ば呆れたように放たれたその言葉は「できない」を自覚していた私の心には深く強く根付いた。まるで、雑草のように。

 ふと気づくと、目の前には見知らぬ小道があった。考え事に沈みすぎて、道を間違えたようだった。住宅の塀と塀の狭間にあるらしいこの道からは、烏の鳴き声以外なにも聞こえない。

 まずい、と思ったがもう遅い。どうにかこの道を抜けなければと思うものの、日が陰ってきたせいか、数m先はもうよく見えなかった。

 誰かに連絡しようとポケットを探るも、携帯が無いことに今更ながら気づく。だいたい私には連絡できるような相手すら思い付かない。

 本日何度目かのため息をこぼし、もうどうにでもなれ、進んでしまえという気持ちに押され前に一歩踏み出すことにした。

 ところが、その気分は数十歩で断ち切られてしまった。行き止まりになったのだ。誰かの家の塀が目の前に立ちふさがる。遠くからは、まだ烏の鳴き声以外の便りはない。仕方ない、引き返すかと思ったとき、足元で鳴き声がした。

 クーン、というその音自体は犬のそれと似ていた。しかし、足元にいたのは小さな黒猫であった。

 妙な猫だ。とは思ったが目を引き付けられた。昔実家で飼っていた猫とそっくりだったからである。

 「クロ」と安直なあだ名で呼ばれたその猫は、元々幼い私と3歳違いの姉が遊びから帰る途中ついてきた猫で、そこから実家に住み着いた猫らしい。

 子猫だったクロは家族の中でも無類の動物好きだった私を気に入り、ずっとそばにいた。でも、クロは私が小学校に入ってすぐいなくなってしまった。それでも、クーンという変な鳴き声は今でも覚えている。

 そう、鳴き声だ。路地にいるこの猫がクロと近い部分は恐らくそこだった。犬とも狐ともとれるような変わった鳴き声。思わず猫をじっと見つめると、猫の方も視線を返してくる。何もかも吸い込んでしまいそうなその黒い目に私の意識もいつしか吸い込まれていった…。

 気づくと、私は実家の前に立っていた。記憶と何一つかわりない実家。しかしおかしい。まず、なぜ私はここにいるのか?そして、妙に視線が低い。そしてなにより、黒くて毛深い。

 はっ、と気づく。私は今、クロになったのではないかと。私らしくない、非現実的な考えではあった。しかし、そうでないとこの視線の低さと妙によく見える目、そして何より今すぐ爪を研ぎたいという衝動の説明がつかない。

 あぁ、もう限界と目の前にある扉に前足を掛け、バリバリと爪を研ぐ。爪が削れていく感触がなんと快感なんだ、と思った矢先気配を感じた。パッと振り替えると5歳くらいの少女がこっちをじいと見ていた。

 いたづらされたらどうしようかと大きく動揺したとき、視界が揺れた。

 次の瞬間前足のした辺りの胴体をぎゅっと捕まれている感触がした。逃げようとするも、少女はなかなかに力が強い。そして、目の前の扉が開き少女が私を連れて玄関をまたぐ様子が見えた。 

 「また、クロが来てたよ!」足だけで靴を脱ぐなり(この瞬間が堪らなく揺れて気分が悪かった)少女は一目散に駆け出した。ここら辺りで、私は逃げるのを諦めた。ところが、家の中には誰もいないようだ。日本家屋の大きな家からは、物音ひとつしない。

すると少女は目についた部屋の縁側に腰掛け、私に語り掛けてきた。

 「あたしね、みおっていうの。ふたりでおはなししたことなかったよね。」と。

 思わず、驚いた。この少女は幼き日の自分だった。彼女はさらに続ける。

 「あたしね、じゅういさんってのになりたいの。クロみたいに、ひとりでさみしいおもいをするどうぶつがいないように。」

 あぁ、そうだ。私は獣医さんになりたかったんだ。思えば、足を引きずりながら私と姉についてくるクロを、見かねて家にいれてと懇願し甲斐甲斐しく世話をしていたのは自分だった。

 そんなことを思っているうちに、また私の意識は薄れた。

 気がつくと、眼下にはあの小道とクロネコがいた。まだ、空は完全に陰ってはおらず、先程からほとんど時間は経っていないようだった。

 いまのはなんだったのだろう。幼いときの記憶にしては鮮明であったし、なおかつ何故猫の視点なのか。

 私は猫をみつめただけで過去にでも戻っていたのだろうか。そんな訳はない。では幻?だとしても猫から人間に戻ると言うのはなんだか変な気分だ。

 でも、私はやりたいことを思い出せた。そうだ、私は獣医になりたかったんだ。だから、頑張って大学に入ったのに。

 大学を中退し二年。今からでも遅くはないだろうか。少し不安はあるが、今のままでいるよりずっと、もう一度夢へとチャレンジする方がいい気がする。

 お前が私に夢を教えてくれたのか。美系な子猫はなんてことない顔をして、こっちを見上げている。まるで、「思い出せたか?」とでも言いたげに。

 次の瞬間、猫は私の足元にぴったりと寄り添った。連れて帰ってほしいのだろうか。私にすぐなつくところも、つくづくクロに似ている。そこにくすりと笑みがこぼれた。

 とりあえずは、勉強のための資金集めだ。明日からバイト先を探そう。なんだか気分は晴れやかになってきた。

 私は振り返り、ゆっくりと小道を歩きだした。

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小道と黒猫 プラム @harunoume

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