天空の魔王城

ねい

第1話 



 魔王界。


 そこは人間の暮らす人間世界から扉一つ隔絶した魔族の住む世界。ほとんどの人間はその世界の存在すら知ることはなく、そこを統治する魔王がいずれ人間世界を征服しようと企んでいることなどさらに知る由はない。


 どこまでも広がる深い森と開けた荒野。

 空に浮かぶ巨大な孤城。


 魔王界の空は既に暗い。獣たちは息を潜め、小さな虫の鳴き声が静かに響く。ほんのりと差し込む月明かり。世界はすでに眠りについていた。


 そんな世界に、いま異変が起きようとしている。


 夜の暗闇に突如まばゆい光が現れた。


 その光は、まるでこの世に福音をもたらすかのように光の粒子を地上にまき散らし、宇宙の果てまで飛んで行く。そして、静かな夜の空に途方もない大音声と目のくらむような大爆発をもたらした。


 人の世界と同様、夜の空を象徴する大きく丸い満月。


 突如現れた光は、そんな夜の象徴を粉砕し、夜をまったくの暗闇に追いやった。




     ○




 ゴゴゴゴゴ。

 地鳴りのようなオノマトペが聞こえてきそうな重々しい空気をまとった、天空にそびえたつ荘厳な孤城。


 そこは、魔王界を統べる魔王が住む巨大な城だった。


 まるで大地から引き抜かれたかのように無骨で巨大な陸塊と、その上に建つ巨大な城。空間的な隔たりが万物の行き来を拒み、その異質さを現していた。世界すべてを呑み込まんばかりの堂々たる存在感がそこにはある。


 そんな魔王城の最上階。

 玉座の間と呼ばれる一室に魔王はいた。


 部屋の奥には屈強な魔獣の骨で作られた豪奢な玉座があって、人間の血液を思わせるような深紅のビロードがそこに続く道を作っている。道の両脇には、細部に細かな技巧の施された灯籠が並び、そこに灯った炎は、一つ一つは小さくとも、何があっても消えることのない不思議な炎であった。


 魔王は玉座からゆっくりと立ち上がると、小さな炎が両脇を彩る道を歩き出す。赤いビロードは中程で左右両側にも道を延ばしており、魔王はそれに沿って途中を直角に曲がった。


 玉座の間は広く、部屋の左右の壁はガラス張りの窓となっている。魔王は窓際に立ち、どこまでも広がる外の景色を一望した。


 地平線の果てまで続く深い森に、一点の曇りなき広大な夜空。


 魔王は、自身の長い爪を指先で磨くようになぞりながら目を閉じた。異形の三つ目を瞼が覆う。


「ふむ」


 一息ついて、魔王は震える声で呟いた。


「・・・やってしまった」


 魔王の三つ目の周囲に深い皺が刻まれる。

 魔王は、所在無さげに鋭く伸びた長いかぎ爪を窓ガラスに打ち付け、「うーん」とうなった。


「どうしたものか」


 呟きに答える者はない。


 ふいに、魔王は何者かが玉座の間にやって来る気配を感じた。間もなく部屋に現れるであろう配下の気配を察知し、魔王はそそくさと玉座へと戻った。


 魔王は、骸骨の浮かぶ肘掛けに鷹揚に肘を付き、胸を張って難しい顔を作った。


 そのときを見計らったように、魔王の居室にその者は姿を現した。


「キアラか」

「はい」


 現れたのはキアラという名の女性魔族だった。


 何もない空間に突如として現れた彼女は、魔王の手前で片膝をつき、うやうやしく頭を垂れた。流れるように美しい所作。その動作に相変わらずの生真面目さを感じながら魔王は尋ねた。


「何かあったのか?」

「はい、少々問題が」

「ほう。では聞こう」


 キアラは続きを話した。


「何者かが天空へと破壊光線を放ち、その結果、月が破壊されました」


「・・・なんと、月が!?」


 魔王は驚いて見せた。


「はい。先刻の大爆発とその衝撃波は、月破壊の影響だったと思われます」


「そうか。そういうことだったか。しかし、一体何者が・・・?」


「犯人の情報はいまだに掴めておりません。しかし、それもいずれわかるでしょう。七の柱が事実関係を調べております」


「ふむ。さすがの手際だな」


「犯人を捕らえた暁には、魔王様直臣のこの私が責任をもって二度とそのような企てを起こさぬようその者の性根を叩き直して見せましょう」


「ほう、相変わらず心強いなキアラよ」


 直臣の言葉に、魔王は力強く頷いた。


 彼女は、魔王軍十二柱の一人・氷のキアラの異名を持つ魔王の側近である。常に冷静沈着で、どんな局面にも冷徹な表情を崩さない。魔王はそんな彼女が口にしたことは実行するタイプだと知っていた。


「もっとも、犯人が我々に仇をなそうとしたところで、我々が負けることなどあり得ぬ話だがな」


「はい、特に魔王様を倒せるものなど異世界を含めたとしても存在しません。五分に戦えるものが数名いる程度。たしかにそのとおりかもしれません。しかし、それは犯人を野放しにしておく理由にはならないでしょう」


「ふっ、わずかな隙も与えぬということか。その考え方、嫌いではないぞ」


「お褒めにあずかり光栄です、魔王様」


 キアラは片膝のまま丁重に礼をした。


「ところで、その他の状況はどうなっている?怪我人の有無、月が破壊されたことによって今後生じる諸問題の把握、そしてそれらへの対策が必要だろう」


「はっ」


 心得ておりますとばかりに頷くキアラに、魔王は満足げな笑みを浮かべてみせた。


「魔王城には軽傷者が多数。いずれも衝撃波による怪我ですが、命に別状はありません。月が破壊された影響については現在調査中ですが、やはりその損失は計り知れないでしょう。生態系への多大なる影響が懸念されます。対応策は依然検討中です。なにぶん、月破壊の影響を調査中のところですので」


「そうだろうな。早急に影響を調査し、対策にあたれい」


 魔王は大仰に指示した。


「御意に」


 彼女は、片膝をついた状態のまま再びうやうやしく頭を垂れた。間もなくこの場を去り、関係各所への連絡にあたるだろう。彼女の対応に気を張っていた魔王は、肩の荷が降りたかとばかりに、小さく息を吐いた。


「・・・ときに魔王様。最後に一つよろしいでしょうか。」


「かまわぬが?」


 キアラの言葉に魔王はうろんな表情を見せた。言外に私は忙しいのだというニュアンスを含めてみせる。そうして、キアラに視線をやった魔王は、キアラの目に鋭い光が宿るのを見た。


「魔王様」


 魔王を呼ぶ声にトゲがある。まるでその言葉が冷気を発しているかのように体感温度がひやりと下がった。


 しかし、魔王とはそれを意に介すような存在ではない。魔王とは、魔王界に棲むすべての魔族の頂点であり、同時にこの巨大な城の主でもある。たかが側近の女悪魔などの言動に影響を受けるような器ではないのだ。


「なんなのだ?」


 魔王は平静を装った。


「言いたいことがあるならば言ってみよ」



「・・・言われないと、わからないのですか?」



「っ!?」


 その瞬間、魔王の背筋に、冷たい稲妻が走った。なぜだろう、魔王は、この女に意味ありげな言葉を口にされるとなにかやましいことがあるのではないかという気分にさせられてしまう。


「わ、私にはやましいことなど一つも・・・」


 魔王は自分でも気づかぬうちに半歩下がった。

 魔王の首筋に汗が滲む。


 キアラが魔王との距離をジリジリと詰める。

 魔王は思わず目を逸らしたくなった。


「魔王様?目を逸らさないで下さい」


「め、目を逸らしてなどおらぬ!わ、私は魔王界の王!迫り来る脅威から視線を外すなど愚の極み・・・!」


「脅威?いま、私のことを脅威とおっしゃいましたか、魔王様?」


「うおっ?そ、それは言葉のアヤだ!お、お主程度を脅威など思っているわけがなかろう・・・!」


「へえ、そうですか」


 首筋の汗が、つー、と伝い落ちる。


 繰り返すが、魔王は魔王界を統べる魔王界の頂点である。この世界ではとんでもなく強く、そして偉いのである。しかし、魔王はなぜかふだんからこの直臣に頭が上がらなかった。


「そのご様子、やはり隠し事があるようですね。まあ、それを隠し通せると思っている魔王様に呆れますが」


「ぐぬっ、い、いったい何のことを言っているのだ!?」


 気がつけば、片膝をついたキアラがこちらへにじり寄っている。玉座の真正面で、キアラが魔王の三つ目をまっすぐに見据えて言う。

「魔王様?」



「先ほど月に直撃した破壊光線ですが、この部屋から放たれていましたね」



「知らぬな」


 魔王は言い切った。


「知らない、ですか。実はそのときの状況を記録した映像があるのですけれど。ほらここに」


 キアラの手のひらに巨大な水晶玉が浮かび上がり、映像を映し出す。


 それは、まさに破壊光線がこの魔王城から、それもその最上階にあるこの部屋から放たれている様子であった。


 これはまずい・・・。


 魔王の心臓が早鐘を打ち、口の中が渇き始める。


「魔王様、ご説明を」


 ずい、と身を乗り出され、魔王はそっと目を閉じた。

 なんとか言い逃れをする術はないか・・・。


「な、何者かが私を操って・・・」

「魔力バカの魔王様を操れる者が一体どこにいるというのです?」

「それは・・・」


 魔王は必死に頭を回して考える。


「私の知らぬ前に何者かがこの部屋に侵入して・・・」

「へえ。それはつまり、魔王様の側近という立場にありながら何者かによる魔王様の居室への侵入を許したこの私の落ち度であると魔王様はそうおっしゃるのですね?」

「そ、そんなわけが・・・」


「魔王様?」


 キアラの両目がつり上がる。


 魔王は観念した。


「・・・つい出来心だったのだ」


 魔王は苦虫をかみつぶすようにして答えた。


「つい出来心で?」

「そう。つい出来心で」

「・・・」


 キアラの視線が痛い。


 魔王が目を逸らしてもキアラは追求の姿勢を緩めなかった。


「・・・どうぞ続きを」


 キアラが沈黙し、魔王の言葉を待つ。魔王は強く目を閉じ続けた。


「・・・あ、あの光り輝く満月に、破壊光線を撃ち込んだらどうなるかなあと思って、つ、つい実行を・・・」


「・・・へえ」


 魔王の答えを聞いて、キアラは意味有りげに頷いた。


「その結果、お月様はどうなったのですか?」


「・・・」


 魔王は言いづらそうに目を泳がせた。


 キアラが黙って魔王の表情を観察するように視線を走らせる。


 さらに数瞬の逡巡があって、魔王はその巨体に似合わぬ蚊の鳴くような声で呟いた。


「つ、月は・・・」


「月は?」


「こ、粉々に砕け散った・・・!」


「そうですか」


 キアラが細い目をさらにうっすら細めて頷いた。


「お月様は粉々に砕け散りましたか。そうですか。そうですかー。それは仕方ありませんねえ」


「う、うむ。仕方がないであろうな。なんせ、私は魔王であるからな・・・ふっ、はっはっ、はーっはっはっは!」


 魔王は魔王らしく高笑いをしてみせた。

 笑ってごまかせたら良いなあ。

 そう思ったのだが。


「仕方ないわけ、ありませんよね?」


 キアラが絶対零度の声を放つ。


 なぜだろう、魔王は得体の知れない恐怖を感じ、高笑いの表情のまましばらく凍り付いた。




     ○




 その後。


 がみがみ。

 くどくど。


 魔王は説教を受けた。しかも冷たい石作りの床の上で正座であった。


 魔王として受け入れがたい仕打ちであったが、これを受けねばキアラの怒りが解けることがないことを魔王は知っていた。顔に反省の色を浮かべて適度に返事をしながらひたすら聞き流す。


 キアラの気が済むまでお説教は続き、魔王はようやく玉座に座り直すことを許された。


「それでは、魔王様が破壊された、お月様の対処はいかがいたしましょう?」


 再び玉座に座った魔王にかしずき、キアラが指示を仰ぐ。先ほどまでの説教はなかったかのように慇懃な態度であったが、『魔王様が破壊された』という部分にやたらと語気が込められていて、魔王はひどくプレッシャーを感じた。


 魔王に対してこの仕打ち・・・!

 どうなるかわかっておるのだろうな?


「・・・」


 魔王とキアラの目が合った。


 ふい。


 魔王は目を逸らした。

 だってこの側近、怒ると怖いんだもの。魔王はあさっての方向を見ながらそう思った。


「・・・壊れたものは直す。相場は決まっておろう?」


 いろいろな逡巡を呑み込んで魔王は言った。


「直せるのですか?」

「私は魔王だ。そのくらい当然だろう」


 魔王は威厳を取り戻した。

 キアラはその答えに戸惑ったようだ。


「一体どうやって・・・?」



「タイムマシンを使うのだ」



 魔王は言い切った。


「タイムマシン?」


「知らぬのか?時を遡ることのできる機械だ。人間の世界ではそういうものがあるらしい。想像上の産物だがな」


「そんなものを魔王様はお持ちなのですか?」


「無論、そんなものはない」


「・・・」


 キアラの視線が冷たくなった。


「ぬ。莫迦を見るような目をするのではない。タイムマシンはなくとも、私の魔力を持ってすれば、過去に時間を遡ることくらいはできる。つまりだ。」


 魔王は語気を強めた。


「過去を遡り、月を破壊せんとする私を止めるのだ!」


 その壮大な解決方法に、キアラが感じ入った目で魔王を見つめた。


「さすがです魔王様!まさか、そのような強大な魔法を・・・!」


 ぴしっ、とキアラが姿勢を正す。


「とはいえ、いくら私でも、それほどの大魔法を使うには様々な制限がかかる。おいそれとは使えぬが、今回は私のしでかしたこと、仕方あるまい」


「自業自得ですね」


「・・・」


 キアラの容赦ない言葉に魔王の心は痛んだ。


「しかし、時を遡ったとして、魔王界最強の存在である魔王様を止められる者など・・・」


 もっともな問いに、魔王は答えた。


「ふん、私のしでかしたこと、私が責任をもって自分自身を止めてみせよう」


「なんと、魔王様自ら?」


「不足はあるまい」


 魔王が答えると、キアラがなりませんとばかりに首を横に振った。ずいと身を乗り出し訴える。


「いえ。魔王様お一人にお任せするわけには行きません。ここは私もご一緒に」


「なに?」


 魔王は眉をひそめてみせた。


 不要と意思表示したつもりだったが、キアラはそれを汲み取ったうえで自分の意見を主張してきた。


「私もご一緒しましょう」


 有無を言わせぬ言葉に魔王は焦った。


 それはできれば避けたいと魔王は思った。魔王が月を破壊しようと思い立ったのには、もちろん理由がある。そして、それは魔王のプライベートに直結しているのだ。せっかく先ほどの説教時にはごまかしたのに、ここで知られてしまえばまたいろいろ説教が始まるに決まっている。


 魔王はもうキアラのお小言は聞き飽きていた。ここは断るべきだと魔王は判断した。


「いや、それには及ばぬ。私一人で十分だろう」


「なぜです?」


「お、お主は不要だ。これは私自身が招いた結果だからな。やはり、ここは私一人が過去に戻って私自身を止めねば・・・ごにょごにょ」


 魔王が言葉を濁すと、聡いキアラの眼光が鋭くなった。


「私が一緒ではなにか支障が?」

「ちょっと消費魔力が」

「魔王様ほどのお人に魔力不足はありえないはずですが?」


 キアラの視線に疑念がこもる。


 魔王に限って魔力不足はありえない。魔王の底知れぬ魔力は城中の者が知るところであった。


 ・・・ぬぅ。

 この女、私に隠し事があることを見抜いておるわ。


 魔王は歯噛みした。


「・・・よかろう。共を許す」


「お任せを」


 平然と敬礼の体を取る側近を前に、魔王の目は遠くなった。




     ○




 まばゆい光が空気に溶けると、そこは過去の世界であった。


 床に描かれた複雑な魔法陣が消えてなくなる。


 キアラは、魔王と並んで魔王の部屋の片隅に立っていた。その部屋の最奥にある玉座に、過去の魔王の姿がある。


「確かに時間を遡ったのですね」

「無論だ」

「さすがです魔王様」


 たとえ数十分程度とはいえ、時を遡ることができるのは異世界を含めたとしてもこの魔王くらいである。その神のような所業にキアラは心から感心した。


 ・・・それと隠し事とは別ですがね。


 心の中で呟きつつキアラは魔王の横顔にじっとりとした視線を向ける。


 一緒に過去に戻ると言ったときの焦り様。よほど知られたくないことが過去にあるようだ。どうせうまくはぐらかした月破壊の本当の理由を知られるのが嫌なのだろう。その理由を突き止め、二度と同じ真似をしないように考え方を矯正する必要がある。


 キアラはそう思って過去の世界へ着いて来た。


 その思考を読み解くべく過去の魔王へ視線を移す。すると、早速、玉座に座る過去の魔王が、なにやら不可解な挙動を示していた。キアラは自然と眉をひそめた。


「・・・魔王様、あれは一体何をしているのです?」

「あれはだな」


「くっくっく」


 玉座で笑みをこぼす過去の魔王。


 魔王(過去)は、まともに玉座に座っていなかった。


 肘あてに腰を乗せたり、背もたれの上に座ったり、両側の肘あてを支えにだらんと寝そべったり、果ては背もたれに逆さになって体重を預けたりと、さまざまなスタイルで熱心に本を読んでいた。


「見ればわかるであろう。読書だ」


 魔王は答えた。


「いや、本を読んでいるのはわかります。なぜあのようなだらしのない格好をしているのかと聞いているのです」


「ぬぅ」


 魔王は不満げに答えた。


「ずっと同じ体勢で本を読んでいたら疲れるではないか」


 キアラは呆れた。


「それはそうかもしれませんが、もう少し魔王様には普段から魔王界最高権力者として自覚を持った行動を」


 キアラはくどくどと説教を始めた。魔王(過去)は、同じ部屋に魔王とキアラがいることに気づいていない。未来から来た魔王が気配隠蔽の魔法を使っているからだ。キアラは側近として魔王には魔王らしくいてほしいと願っている。いくら部屋に自分以外に誰かいると気づいていないからといってあんなふうにだらけてもらっては困るのだ。


 しかし、その説教はどうやら聞き流されているようだった。魔王はなにやら考え事をしている様子だった。大方、どうやって隣に自分がいる中で過去の自分を止めようかと考えているのだろうとキアラは思った。隠し事なんてすぐバレるに決まっているのに。


「で、あの本はなんなのですか?」


「・・・」


 話を聞いていないようなのでキアラはさっさと話題を変えた。そのキアラの判断に魔王は目を見張った。もう話を聞いていないことを看破したのかと言わんばかりであった。


「あれは、そうだな。いずれ私が手に入れる人間社会を学ぶ為の資料だとでも言っておこう」

「それは興味深い資料ですね」


 キアラは感心したように頷いた。ちょうどそのとき、魔王(過去)が体勢を変えようと身じろぎし、ブックカバーから中身の本が外れて宙を舞うのが見えた。魔王(過去)は、それを受けようと手を伸ばすが、指先は本の背表紙をかすめただけで本は弾かれ床を滑った。本は気配を隠したキアラと魔王のもとにやって来る。魔王(過去)は、まだその行き先に気づいていないようで、あさっての方向をきょろきょろと見渡していた。


「まずいっ!」


 焦った様子の魔王が慌ててそれを魔王(過去)のそばへ弾き返そうとしたので、キアラはそれを遮り手に取った。サッと中身に視線を走らせ、意味有りげに呟く。


「・・・へえ」


「しまっ・・・!」


「いま、しまったと言いかけましたか?魔王様?」


 キアラはひょい、と魔王(過去)の死角へ飛んで来た本を滑り込ませながら隣にいる魔王を見上げるという器用な真似をしてみせる。


「していない。断じてそんなことはしていないぞキアラよ」


 魔王は目を逸らしながら答えた。

 いまにも下手な口笛を吹いてしまいそうな雰囲気であった。


「まったく。あれが人間社会を学ぶ為の資料ですか。ずいぶんとふんだんにイラストの盛り込まれた資料ですこと。さぞかしわかりやすいでしょうねえ」


 キアラは魔王を見上げる視線が自然と冷たくなるのを止められなかった。


 キアラが目にした本は、各ページがさまざまな大きさにコマ割りされていて、そのコマの中には所狭しとさまざまなキャラクターとそのセリフが描かれていた。


 要するに、それはマンガだった。


「・・・感心して損しました」


 一瞬上がったキアラの好感度は、あっという間に元の水準まで下がった。上がって落ちたぶん悪くなったような印象だ。これだから連れてきたくなかったのだと魔王が呻く。どうやらその理由の一端はこういうところにもあったらしい。


「・・・」そのとき、キアラの脳裏にふと、ある仮説が浮かんだ。


「もしかして、あのマンガが月を破壊してみたくなったこととなにか関係があるのではないですか?」


 魔王の動きが一瞬固まって、慌てたような答えが返って来る。


「そ、そんなわけがなかろう」


 聡いキアラはその様子を見逃さなかった。


「魔王様?」


 キアラは冷たい視線を魔王の横顔に突き刺さした。


「ち、違うと言っているだろう」


「おや?」


 魔王が答えあぐねているうちに、魔王(過去)が次なる動きを見せ、キアラは視線をそちらに移した。


 魔王(過去)が、おもむろに立ち上がり、両腕を交差させたかと思うと、「ハ―ッ」と気合いを入れるように息を吐き出しながら両腕を引いて、なにかを両手のひらに溜め込むようなポーズをとった。


「あれはなんです?」


 魔王は答えた。


「人間社会ではああやって必殺技を放つのだ」


「はあ?」


 キアラは思わず、言葉が通じませんとばかりに呆れたような声を出してしまった。主に対してこの態度はいけないと思いつつも、この魔王相手なら仕方ないとすぐに自分を正当化した。


 魔王の説明によると、あれはマンガに出て来るキャラクターが奥義を放つ際の姿勢なのだということだった。キアラは自分の視線がさらに冷たくなるのを止められなかった。


「どうやらあれは魔王様に悪影響を及ぼす有害図書のようです。燃やしてしまいましょう」


 キアラが手のひらに火の玉を浮かべ、魔王(過去)が、必殺技の練習をするために一度テーブルに伏せたマンガ本に向かって、無慈悲にもその火球を放とうとした。


「待て待て待てーい!!!」

「なんです?」

 慌てた魔王がキアラを止める。


「続きが読めなくなるであろう!」


 焦る魔王にキアラはじっとりとした視線を向けた。


「では、この時間軸の私を呼び寄せて、あの有害図書を没収、もとい回収いたしましょう」


「同じことではないか!!!」


 この時間軸の自分を呼び出そうとキアラがその手に魔力を込め始める。しかし、突然キアラの集中は途切れた。魔王がいきなりその腕を掴んだからだ。


「ひうっ」

 キアラは思わずその冷たい表情に不似合いな驚きの声を上げた。同時に頬が火照ったように熱くなる。キアラは恨めしげに魔王を見上げて唇を尖らせた。


「い、いきなり触らないでください」

「すまん、痛かったか?」


 キアラが思い切り睨みつけると、魔王は気まずそうに目を逸らした。


 まったく。いきなり腕を力強く掴むなんてびっくりするじゃないですか、これが仕事中でなければ――って、ごほんっ。だいたい同じこととは失敬な。魔王様がきちんとしてくれさえすればこれまで回収したものだってちゃんとお返しするに決まっているのに、魔王様がいつまでたってもしっかりしてくれないから・・・。


 ぶつぶつと魔王に聞こえないような小声で一通りぼやくとキアラはだいぶ落ち着きを取り戻した。


「ところで魔王様。魔王様はいったいどうやって魔王様の暴挙を止めるおつもりですか?」


 暴挙・・・。

 苦々しく呟く魔王であったが、キアラがなにか問題でも?と首を傾げてみせると、そこには触れずに続けた。


「そうだな。私が放った破壊光線に私が破壊光線をぶつけ、上空で相殺するのが良いだろう。一度試せば過去の私も満足するはずだ」


「相殺ですか?それは少し回りくどいやり方ではありませんか?魔王様が月を破壊しようと思い立った原因を取り除くのが一番早いと思いますが?」


「それはムリだ、キアラよ」

「なぜです?」


「お前も長く生きていればわかるであろう。人の気持ちを変えるというのは生半可な行為ではできないのだ」


 魔王は答えた。なにやら万感の想いが籠っている。


「魔王様・・・」


 キアラは、ハッとしたように息を呑んだ。キアラにもまた、その難しさはよくわかる。なにしろこの魔王はいくら言っても行動を改めてくれないのだから。


「ゆえに、ここは対症療法を取る。私はこれから移動して窓の外で破壊光線が放たれるのを待つ。お主はここで過去の私の様子を見ておけ。そして、過去の私が『準備』を始めたら私に連絡するのだ」


 魔王が指先に青い炎を灯すとキアラの指先にも同じく青い炎が灯った。この炎が専用の秘匿通信回線となっていて、これで通信すれば過去の魔王にも気取られることなく対話が可能なのだと魔王は言った。


 魔王の言葉にキアラは表情を引き締め頷く。


「しかし、『準備』とは一体?」


「見ればわかる」


 魔王は短く答えて窓の外を見上げた。ワープの先を確認しているのだと悟り、キアラは、与えられた役目を果たすべく魔王(過去)を見やる。


 そのときだった。


「おや?」


 キアラはまたしてもいぶかしげな声を上げた。

 なぜならまたしても魔王(過去)が不思議な動作を始めたからだ。

 その姿を見て、魔王が叫ぶ。


「いかん、始まった!」


 魔王(過去)の動作はこうだった。


 両手のひらを胸の前で合わせ、ゆっくりとその間に空間を作る。徐々にその空間に濃密なエネルギーの集合体が生まれ、やがて大きな球体を作った。そして、「ハーッ」という気合いとともにゆっくりとそのエネルギーの集合体を両手と一緒に右腰に持って行って、さらにエネルギーの集合体へと気合いを込めた。そうして大きくなった球体は、破壊光線の源である。


 キアラはその動作に目を見張った。


 魔王は魔王界に並ぶ者のない最高位の存在であり、その魔力は質・量ともに大きく他と隔絶する。その気になれば世界の一つだって軽々と滅ぼせるだろう。その手にかかれば、どんな大魔法だってまったくの予備動作なしに発動することが可能なほど圧倒的な存在なのだ。


 その魔王が、予備動作を始めた。


 それも信じられないくらい隙だらけの予備動作を。これはまるで、まるで、いやまさか。キアラは去来した思いを受け入れられなかった。


「魔王様、あれは一体?」

「あれが『準備』だ!」

「・・・まさか」


 キアラはうめいた。慌てた魔王が急いでワープしようと窓の外へと意識を向ける。その刹那をキアラが遮る。キアラは魔王の腕をガッと掴んだ。


「魔王様、最後に一つだけ。なぜ魔王様は月を破壊しようと思ったのですか?」


「お主は知る必要のないことよ」

 魔王は答えた。


「魔王様?」


 期待と異なる答えに、キアラは魔王の腕を掴む手に力を込めた。時間がないのだろう。魔王はぐぬぬと逡巡したあと、焦ったように答えた。


「ええい、そんなもの、あのマンガのキャラクターがやっていたから私もやってみたくなったからに決まっておろう!離せ!この時間軸でも月を破壊してしまえば、さすがの私も打つ手がない!」


「・・・」


 キアラはそっと目を閉じ、はーっ、と大きく息を吐き出した。同時になるほどと思う。唐突に始まった頭痛のようなものを抑えるべく指先を額にやって、ゆっくりと立ち上がった。


「キアラ?」


 ゆらめく炎のようにゆらりと立ち上がったキアラに、魔王が呆けたように声をかける。キアラはそれを無視して、その気配を隠蔽する結界の外へと足を踏み出した。


「ぬ?」


 突如姿を現したキアラに、目を丸くする魔王(過去)。


 キアラの脳内は沸騰したように熱くなっていたが、周囲を捉える視界は妙に冴えていた。対面した魔王(過去)の額から大量の汗がぶわっと吹き出して、みるみるうちにうろたえ始めた様子を見て、キアラはいま自分がどんな形相をしているのかを悟った。


「い、いきなりどうしたのだキアラよ!」


 キアラは答えなかった。


 沈黙したまま魔王(過去)との距離を詰める。


「・・・(汗ぶわあ)。ま、待て!違う、これは違うのだ!」


 魔王(過去)はやましいことがあるかのようにジリジリと後ずさった。人の顔を見ただけでここまでうろたえるだなんて心外だとキアラは思った。しかし、悪いのはこの魔王の方である。いつもいつもキアラが怒りたくなるような行動ばかりをとる。今回だってそうだ。だいたい『違う』だなんて一体なんの言い訳だろうか。白々しい。なにが原因で怒られるのかもわかっていないくせに。


「何が違うのですか?」


 問うと案の定、魔王は言葉に詰まった。


「そ、それは・・・!と、とにかく、お前は何かを勘違いしている!落ち着け、話せばわかる!」


「残念ですねえ。未来のあなたから話を聞いてもわかりませんでしたよ」


「・・・!?(ぞわぞわっ)」


 キアラは魔王(過去)の肌が粟立つのを見た。


 必死に言い訳を探す魔王(過去)の背中が壁にぶつかる。逃げ場を失った魔王(過去)がまさかと一瞬後ろを振り返った。その隙にキアラは得物を取り出し振り上げる。魔王(過去)が唇をかんで再び前をむくと、キアラは、その瞳に、迫りくる自分の様子が映っていることに気づいた。魔王(過去)が目を見張る。そこに映るキアラは、どこからか取り出した棍棒を魔王(過去)に向かって思い切り振り上げていた。


「まったく。」


「や、やめ・・・」


 キアラの口から冷ややかな声が漏れ、魔王(過去)は悲痛になにかを訴えようと口を開く。


 キアラは心からの思いをおもいっきり言葉に乗せて吐き出しつつ、力一杯に得物を振り下ろした。


「なにくだらない理由で月破壊してくれてんだこの大バカ大魔王!」


「―――っ」


 キアラの一撃により、魔王(過去)はその場に昏倒した。




     ○




 ・・・おう。


 過去の自分が殴り倒されたのを見て魔王は頭を抑えた。まるで自分が殴られたような気がした。いや、過去の自分が殴られたんだけれども。


 くるり。


 キアラが振り返った。


「・・・(汗じわあ)」


 魔王は目を逸らした。


「さて帰るとするか」


 独り言のようにそう言って、魔王は元の時間軸に戻るための魔法陣を描き始めた。それはあっさりと出来上がり、ちょうど良いタイミングでキアラが戻って来た。


「さ、キアラ、ご苦労だったな。帰って月見酒とでも洒落込も―――」


「・・・」


 魔王は見た。


 キアラが冷たい表情でゆっくりと棍棒を振り上げるその鬼のような姿を。


 魔王はそれを避けてはいけないのだと本能的に悟った。避けたらあとがおそろしい。魔王は諦観してゆっくりと目を閉じる。


 我が生涯に一片の悔いなし。


 ―――ドゴッ


 鈍い音とともに、魔王の意識はブラックアウトした。






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