第20話 伊服岐能山の猪
その夜、小碓は不思議な夢を見た。
最初のうち、小碓は自分がどこで何をしているのか見当がつかなかった。
ただ頻りに手を動かしている。その動きでばさっ、ばさっと音を立つ。目の前はひたすら青く、左手に何かが輝いている。下は真綿を敷き詰めたように白い。ふとその白が途切れ、山の形が見えた。
これは・・・?
空を飛んでいるのだ、とそこで初めて気が付いた。動かしていると思っていた手は翼で、小碓は空を羽搏いているのである。なのにそのことに何の違和感もないのが不思議であった。
ただ眼前の山の形はなぜかひどく懐かしいものに思えた。私はここを知っている。ここを
その一角に建物が立ち並んでいるのが見えた。
あれは・・・宮ではなかろうか。空から見たことはないが小碓は直感した。目を凝らすと傍らに大きな
やはりここは纏向、日代の宮なのだ。
私は帰ってきたのだ。
空中を三度ほど旋回してから、ばさりと音を立てて橡の枝に止まろうとした。子供の頃に叶わなかった夢が現になるような思いがした。しかし白鳥は木にとまることは叶わぬ。枝の上で羽搏いたまま白鳥はあたりを見回した。
旅の果てに見たかった景色はこれであったのだ。遥かに続く森、その中にところどころ切り開かれた畑や田、鮮やかな緑、美しい水の流れ。
これが故郷なのだ。大和の国なのだ。
暫く枝の上で羽搏いたが、どうも枝を掴むことが出来ぬと悟りもう一度飛び立つと宮の上を旋回した。二度、三度と回り続けていると下からがやがやと騒々しい声が聞こえてきた。一所を回り続ける白鳥の姿が珍しいのかもしれぬ。
宮の内、外に人々が集い自分を見上げて何かを口々に話していたがやがて、宮の中から立派ないでたちの一群の人々が出てきた。
その中に懐かしい顔があった。
「父上」
小碓は声を限りに叫んだが、それは声にならず、ただ奇妙なガアという音にしかならなかった。だが、その鳴声に驚いたように人々は鎮まった。父の横では若帯日子が物珍しげな視線で自分を見ている。
「
自分を指さしてそう言った父の太い声が聞こえた。
その途端、目が醒めた。
生々しい夢を見たにも関わらず、それは清々しい目覚めであった。やがて、兵たちも次々と起き出してきて、膳夫の七拳脛が先導して煮炊きが始まった。野は釜から湧く湯気と煙で白い靄のようなものが漂った。
白粥の真中に梅の干したものを一つあしらったもの、茹でた様々な菜、鹿の肉を干したものというなかなかの馳走である。
「贅沢だな」
七拳脛に声を掛けると、
「最後の戦の朝でございますれば」
にこりと七拳脛が小碓に向かって笑った。皆、大和へ、国へと帰ることを心待ちにここまで着いてきたのだ。この戦いを終えれば宮はもうすぐである。小碓は七拳脛に向かって深く頷いた。
朝餉を終え、一行が進軍を開始したのは、日が山の上にすっかりと姿を現した頃であった。
道を進んでいった一行が先頭の者たちの
「おおっ」
という声と共に一斉に立ち止まったのはそれから暫くの事であった。
「どうした?」
小碓の声に
「白猪が・・・行く手に立ちはだかって進めませぬ」
という声が返ってきた。
「何」
小碓は兵をかき分け、先頭へと進んでいった。最前列に出ると視線の先にいるのは一頭の白い猪である。その体が並外れて大きい。子牛ほどもあろうかという大きさである。
先頭に立った者たちが弓を引いて自分を狙っているにも関わらず、猪は一向に気にする様子もなくこちらを
「この山の神でございましょうか?」
小碓は首を傾げた。山の神は白い大蛇の姿をしていると聞いている。小碓は気を鎮めじっとその猪を見つめた。
「いや・・・」
小碓は首を振った。
「以前、この山の神の気を図ったが、どうもそれと少し違う。おおよそ、これは神ではなく神の遣いであろう」
そう言うと、小碓は白猪に向かって声を張り上げた。
「吾は大帯日子淤斯呂和気天皇の御子にして、名を倭具那男王、日継の御子である。帰って山の神に伝えよ。帰順するならば、それも善し、まつろわぬつもりならば、吾が汝の主を取るのみぞ」
白猪は無表情で名乗りを聞いていたが、聞き終えるとやがて首をもたげくるりと体を回すと去って行った。
「仕留めずに良かったのでしょうか」
御鉏友耳建日子が心配げに尋ねた。
「何、あれが山の神に伝え、山の神が身を引くということもあろう。ならば無駄な殺生をすることもあるまい」
小碓の答えに兵たちは頷いた。
だが更に一行が歩を進め山の中腹に分け入った頃、
「これは伊服岐能山の神が従わぬ、という御意思を示されたのであろう。ならば、その御魂を取るのみぞ」
その声に兵たちは気勢をあげた。だが、その気勢は長く続かなかった。空はますます暗くなり、風がごう、と激しい音と共に吹いて兵たちを悩ませた。突然、めりっと、木枝の折れる音に振り向いた兵の一人がどうっと倒れた。
「どうした?」
と問う間もなく、兵たちはその理由を、身をもって知ることになった。石ほどの大きさのある氷が天から降ってきたのである。或る者は頭に
「岩場へ隠れよ」
小碓の声に生き残った者たちは
「この山の神は風雨を操るらしい。なれど、いつまでも嵐を吹かせ続ける事もなるまい」
頭に霰を受け、呻いている兵の血を自らの衣を裂いて手当をしながら小碓はそう言った。
その予言通り、暫くすると霰は納まり、兵たちはこわごわと岩場から這い出た。道には霰にうたれ、ずたずたになった何人かの兵の骸が転がっていた。そればかりではなく、折れた木の枝や葉が降り積もった霰の中に散乱していて見たことのない景色が広がっている。
倒れたものをそれまで隠れていた岩場に葬り、谷へ墜ちたものたちを弔うと残った者たちは無言で歩を進めた。
暫く行くとなだらかな台地が広がっていた。
そこに麓で見たあの白猪が立ちはだかっていた。その猪を見た途端、残っていた兵たちは音もなく崩れ落ちた。
立っているのは小碓と白猪だけである。
「汝がこの山の神か」
小碓がそう問いかけたが、白猪は青い瞳で小碓を無表情でみつめているだけである。その表情を小碓はどこかで見たことがあると感じた。だが、その記憶は薄く、はっきりと形をとらぬ。小碓はじれた。
「御子っ」
その時、背後から若い女の声がした。
「雀か?もう纏向から戻ったのか・・・」
視線を白猪に据えたまま、小碓は尋ねた。
「いや、近江まで。近江につい、三日前に御幸があって、帝は何事もなく纏向へ戻られたと聞いた」
「ならば、噂は嘘か」
雀の吐く荒い息を背後に感じながら小碓は問うた。
「いかにも。その御幸の一行の一人が、
「何者だ?それは」
「その者は噂を流した後、この山を祀る社の前で首に剣を立て死んだそうだ。御子が、帝が病と言う噂を聞いてどうするか、一番よく知っている者・・・」
ふっと、白猪が見せた無機質な表情を小碓は思い出した。あれは、あの男が剣を研ぐとき、草鞋を編むときに見せる一心不乱の表情・・・。その時の表情だけが幼い時いつも、その男を誰か見知らぬ男に思わせた・・・。
「その通りだ」
ぐわんと響くような声で白猪が初めて声を上げた。
「・・・」
小碓の眼が見開かれた。
「そうだ、兄者だ」
雀は剣の柄を握りしめ、歯を食いしばるように答えた。
暫く無言の間があいた。
「お前が隼?」
小碓は呆然としつつ白猪に問い掛けた。
「そうとも言え、そうとも言えぬ」
白猪は吼えた。
「吾はこの山の神にして隼と申す者の魂を持つもの、或いは隼にしてこの山の神の姿を持つもの。汝が誤ったのも無理はない。以前と違う気を持っておるからの」
白猪と二人は暫く睨みあったままであった。
「なぜだ、隼」
やがて振り絞るような声で小碓が尋ねた。
「これは帝の思し召しか?」
白猪はゆっくりと首を横に振った。
「あるいは、若帯日子命の考えか?」
「ばかな」
白猪は吐き捨てるように答えた。
「ならば八坂入日売命の命か?」
白猪はしばらく間をおいてからゆっくりと首を振り、
「これは私の一存だ」
と言った。小碓は身構えつつ叫んだ。
「吾は帝の後を継ぐ気などない。纏向に戻ったら日継の御子をお返しし、妻たちと共にどこかへ去るつもりでおった」
「ならばさきほど日継の御子を名乗られたわけを聞こう」
白猪は答えた。
「帝が吾を日継の一人と決めたからだ。それに背くわけにはいかぬ」
ふっと猪は笑った、ように見えた。
「分かっておる。御子ご自身が日継に拘っておられぬことはな」
「ならば、なぜ?」
小碓は問うた。
「若帯日子命は賢明なお方だ。それは御子も存じておろう」
白猪は小碓の問いには答えず質問を返した。
「ああ。だからこそ身を退くつもりでいた」
小碓は本心から答えた。その答えを待っていたかのように白猪はにやりと笑ったように見えた。
「だが、御子がそうお考えでも世間はそう思うまい。御子が日継を名乗ればそれに乗じる者もおろう。そこにおる小娘もそのひとり」
「ぬ?」
小碓は目を細めた。
「御子は強すぎる。出雲建、熊襲建、そして今東の方十二道を平らげ戻ろうとされている。その功を持って纏向に帰ればどうなる?」
白猪の問いに小碓はきっぱりと言い返した。
「もう一度言う。私に野心はない」
「そうであろう。しかし、強い者を上に置きたいというのは人の心、世の常。例え、御子が退き、若帯日子命が帝になられ、例え善政を敷こうと帝は軽んぜられる。いずれ御子を帝にという者が現れるに違いない」
「だから、私を殺そうというのか?」
小碓は歯がみするように切り返したが、白猪は独り言を謡うように続けた。
「私は悩んだ。だが、御子が戻れば若帯日子を弑す輩が現れると卦に出たとあるお方から聞かされた。ならば御子のお命を頂くことこそが唯一の道。だから御子を弑す前に自ら命を絶ち、伊服岐能山の神に捧げ一体と化したのだ」
「ばかな・・・誰がそのような卦を?」
小碓の問いに答えはなかった。
「御子が帰れば宮は
「何を言っている、兄者?」
雀が怒声を発した。
「それでは、御子は自らの命を縮めるために戦ってきたという事になるではないか」
「その通りだ、雀」
白猪は平然と答えた。
「政と言うものはそうしたものだ。もしや、このまま御子が都へと変えられたとしたら、若帯日子命を弑すのはお前なのかもしれぬ」
「ばかな」
雀は剣を抜いた。
「分かった、隼よ」
小碓も身構えた。
「だが、私もやすやすと死ぬ気などない」
白猪は再びにやりと笑った。
「それでこそ、御子。ならば私も詰まらぬ迷いなど断ち切ることが出来る。だがその前に一つ約して欲しいことがある。御子は草那芸剣をお持ちであろう」
小碓は小さく頷いた。
「では私が勝ったならそれを渡してもらいたい。あれは天の遣わし物、帝となられるお方に必要なものだ」
「残念ながらここには持ってきておらぬ」
小碓の答えに初めて白猪は疑い深そうな眼差しをした。
「都に帰るというに、あれを携えて来ぬ?信じられぬ。あれこそは御子が帝に名乗りを上げるために必要な物。帝が病と聞けば必ずあの剣を持って帰ってこようとなさるはず」
「まことのことだ。隼、今まで私がお前に嘘を吐いたことがあるか?剣は持てぬほどに重くなった。なぜだかは知らぬ」
白猪は黙ったまま小碓を見据えた。
「ふむ、どうやら本当に携えておられぬご様子。ならば、尾張の嬢子の所へおいてこられたか」
白猪の声は増して平淡である。小碓は無言であった。
「となると、尾張でもひと暴れせねばならぬ」
白猪は不敵に笑った。
「その時、尾張におられる嬢子が無事だとよいが・・・」
「兄者、狂ったか?」
剣を正中に構えた雀が罵った。
「狂いなどせぬ。狂ったのはお前の方だ、雀。我らが守るべきは帝。お前のやっていることは我らが族の道に外れておる」
「何を言う。御子は未だに日継の一人ぞ。兄者こそ人の道に外れておる」
白猪は、今度は明らかに嘲笑した。
「御子は帝にならぬと仰せだ。帝にならぬというものをわれらが守る必要はない」
「そんな理屈が通るか。それでは御子に救いがない」
雀の言葉に答えはなかった。その代わり後足で地面を削るように掻くと、白猪は小碓目掛けて疾走した。それを小碓は間一髪、
走り抜けた白猪は砂と石を巻き上げながら止まると、ゆっくりと振り向いた。
「ふふ、さすが御子。私が鍛えただけのことはある」
「やめろ、兄者」
雀が小碓と白猪の間に割って入った。
「相手なら私がする」
「
白猪は吼えた。
「いやだ」
雀は剣を構え直した。
「ならば、お前も倒すのみ」
再び後脚で地面を掻くと白猪は雀を目掛けて突進したが、雀は軽々と飛びあがってその攻撃を避けた。
「少しはできるようになったか、雀」
白猪は無表情に言うと、
「まだまだ」
と再び突進してきた。先ほどと違い、雀は、今度は右へと跳ぶ。白猪の突き上げた牙は空中を空しく切る。
「なるほど、戦はお前を育てたようだ」
白猪はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
攻防を繰り返しているうちに小碓と雀は次第に息を切らしていった。だが、白猪は一向に疲れを知らぬようであった。
「御子、逃げろ。このままではやられる」
小碓も白猪を
そんな事を一瞬考えた小碓の心の隙を狙ったかのように白猪は小碓めがけて突進してきた。躱した小碓の足が石を踏んでわずかにふらついた。白猪はそれを見逃さず、あっという間に振り向くと再び猛然と小碓めがけて牙を突き立ててきた。
「危ない、御子」
叫んだ雀が小碓の前に立ちはだかったが間に合わず、小碓は右の脛に猪の牙が掠った傷の激しい痛みに耐えかねて地面に転がった。
三度ほど転げて漸く立ち直った小碓の眼に映ったのは牙に体を突き抜かれた雀と、その雀に首に剣を撃ち込まれた白猪が、絡みあうように倒れている姿だった。
「雀っ」
喚きつつ駆け寄った小碓の声が雀の耳に届いたのであろうか、雀はうっすらと目を開けたが、そのままがくりと首を折った。
猪は急所の首上にまともに剣を撃ち込まれたのであろう、ぴくりとも動かなかった。剣の周りの白く粗い毛がゆっくりと赤く染まっていく。
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