第19話 帰路の変事


男たちは無言のまま、船に陸続りくぞくと乗り込んでいく。船端を叩く波の音、かいがぎぃと鳴る音さえ寂しげに響き、見送る村人たちにも声を上げる者はいない。集められた十の船は一つ、また一つと岸を離れていく。

命一つと引き換えに叶えられた旅立ちは粛々と進み、最後の船が岸を離れた。見送った村人たちは、船の姿が遠ざかっていくと、等しく弟橘比売が旅立った波打ち際に視線を遣って頭を下げ、それから一人、また一人と去って行った。

最後に残った幼い村の娘が波にこわごわと近寄ると赤子をかたどったわらの人形を静かに流した。

波がその人形を引き寄せていく。波間に浮かんだ人形の姿がやがて呑まれて見えなくなるまで、その景色を娘は一心に眺めていた。

小碓の一行が伊自牟いじむ、今でいう夷隅に到着した七日後、その岸辺に弟橘比売の櫛が流れ着いた。

見つけたのは大吉備建比売である。遺された赤子がむずがるので、浜辺に出てあやしていると、腕の中の赤子がしきりに波間を指さしたのである。

その先を視線で辿ってくと赤いものが見えた。その赤いものは少しずつ波打ち際に近づいてくるようであった。やがて砂浜に打ち上げられたのは見覚えのある櫛である。小碓が三野の国であがない弟橘比売に贈ったものである。

その櫛を赤子の小さな手に渡すと赤子はしっかりと握りしめていたが、父に抱かれるなりその櫛を父に渡すと直ぐに安らかに眠ってしまった。小碓は受け取った櫛を納めるために社を作り、奉納した。私は無事でおります、小碓にはそう弟橘比売が伝えて来てくれたかのように思えた。だから、お前さま、お前さまは帝から言い付かったお仕事をしっかりとおやりなさいませ、、、と。

それからの小碓は今までより無口になり、それまでにまして素早く軍を動かし、戦うこと八十八度。

いずれのいくさにも先陣を切って一度たりとも負け戦はなく、傷を負う事もなかったという。

土蜘蛛つちぐも国栖くずなどとも呼ばれた、東の各地に盤踞していた者どもは全て討ち取られるか、帰順をしていったのであった。


弟橘比売が海へ入った時から一年と半が経った。

小碓は上総、下総から常陸までを平らげ、冬を前に西へと戻る途上にあった。十二道の全てが帰順したが、途上そのところどころに未だ荒ぶる神、まつろわぬ人々が残り、小碓は帰途にそうした者たちを討ち取りつつ纏向へ戻ることとしたのである。

その一つが伊服岐能山いふきのやまの神であった。

十二道への途上、見初めた尾張の嬢子の住む家からも望むことができるその山には白い大蛇に化身した神が住むと伝えられていた。初めてそれを聞いたのは東征の途上、尾張に着く前の事である。その噂を聞き、討ち取ろうかと小碓一行は山に分け入ったのだが、途中濃い霧に遮られて断念したのである。

十二道に含まれぬ美濃・近江の境にある神と闘い、十二道に辿り着く前に兵を損なう事へのおもんばかりもあった。

ただ、その時、霧の向こうから感じられた山の神の力は只ならぬものがあったのを小碓はくっきりと覚えている。


話は戻る。小碓が東征の途上、見初めた尾張の嬢子の名は美夜受比売みやずひめという。

その女と言い交わしつつも女を婚かずに東へ向かった理由はその娘が足弱で幼いこともあったが、もう一つの理由に弟橘比売の存在があった。

小碓に子供を作ることを促した倭比売に贈られた弟橘比売を気にする必要はない。倭比売は子を作れと言ったが、誰との間に作れとは言わなかったのである。

そもそもその頃においては近代的な結婚の概念などない。寧ろ一族を繁栄させるには父帝のように多くの女を娶り、子供をたくさん作るのが是とされた時代である。当時の帝のようにあまりに子が多いというのも考え物なのかもしれないが、寧ろ子がないという事の方が大きな問題だと考えられた。生まれた子とて、成人まで生き延びるかどうかわからないのである。

だから弟橘比売の存在が美夜受比売との仲のさはりになる筈がないのだが、男と女と言う間には理屈で割り切れないものがある。

その弟橘比売はもういない。弟橘比売が身を擲って小碓の進軍をたすけたという話を、事が終わった後の寝屋でした時、美夜受比売は大粒の涙をはらりと零した。

男と女の間に割り切れないものがあるとしたなら、男を挟んだ女同士にも謎がある。小碓を待ち侘び時を過ごした女の、去って行く男に寄り添うようについて行った女に対する複雑な胸の内に、憐れがあるというのは不思議である。


その翌日の朝、女の父親である尾張の国造が市から戻ってくると怪訝な面持ちで小碓の許にやってきた。。

「帝が病を得ておられるという噂がございます」

「ん?」

小碓は居ずまいを正した。それを見た舅は小碓の前に手をつくと

「都から来たものがそう触れ回り、薬はないか、よく効く呪いをするものはないか、と探し回っていたそうでございます」

という話をした。ですが、と尾張の国造は首を傾げたのである。

「まことでございましょうか。今まで帝の病がこの地まで噂で流れたことはござりませぬ。伝えられるのは常に御崩御された後の事。帝がお悩みになっているなどという噂が先に流れることなどかつて一度もございませなんだ」

尤もな話である。帝が病を得たなどという噂が流れ、宮廷が動揺しているなどと悟れば、只でさえ言う事を聞こうとしない者どもが反旗を翻す素になりかねない。

「しかし、聞き捨てることもなるまい。東の国はすべて平定したことは都に伝えてある。そのために帝がご病気でも反乱する者はないと考えているのかもしれない」

小碓は重い口調で返した。

「では、急ぎお戻りになりまするか・・・」

「うむ、なれど・・・」

伊服岐能山の神を討ち取る決意をしたばかりの小碓は躊躇った。

「せっかく、十二道を平らげたにも拘わらず、あの山にまつろわぬ者が居れば後々、今までの全てが水泡に帰すことになりかねぬ。一つ反旗が翻れば五つが呼応する。五つ反乱が起これば二十余り五が立つというのがこの世の掟」

「では?」

国造は小碓を見つめたまま首を傾げた。

「直ちに討ち取って、それを土産として父上に会うことにしよう」

小碓はきっぱりとした口調で宣言した。

「さようでございますか・・・では、私共の兵もお貸しいたしましょう」

すぐに軍衆を集めたのだが、その時不思議なことが起きた。

倭比売から賜った草那芸剣がどうしたわけか吊るした所から外れないのである。外れないというより持ち上げることもならぬほどに重い。

「これはどうしたことでございましょうか。行くな、と剣が申しておるのでしょう。伊服岐の山の神とは戦わず、お戻りになるが宜しいのではございませんか」

国造は戦わずに都へ戻ることを強く勧めた。

「いや、そうは参らぬ。ならばその伊服岐の山の神とやら、素手で成敗してやろう」

「お前様」

まだ少女のような俤を残す美夜受比売も心配そうに小碓の手を取った。

「そのような危ないことを・・・」

幼いその手を柔らかく握ると小碓は安心せよとばかりに

「これは神が与えられた試練なのだ。だが私は今までそうした試練を乗り越えてきた。案ずるな。討ち取ったらそのまま帝にお会いして参る。なに、すぐ戻って参る」

と優しく撫でた。

「そして後はゆっくりとお前と過ごしたい。いくら帝であっても更に私に戦をお命じになることはあるまい。万一、そんなことがあったなら、私は日継の御子を擲ってここへ帰ってくるつもりだ」

「お前様・・・」

美夜受比売は止めても無駄だと知った。だが、お前のもとに帰ってくるという小碓の言葉が嬉しい。少女は小碓の手を固く握りしめている。


「雀」

軍衆の脇で控えている雀に小碓は呼び掛けた。

「今すぐに都へ向かって噂が真実かどうかを確かめてくれ。もし病が本当ならばどの程度のものか、しっかりと確かめてきてくれ。ただ無茶はするな。都にはお前の命を狙うものがおる」

雀は無言で頷いた。

雀は二年の間に誰もが目を瞠るほど美しい女に変わっていた。

一見しただけではそこに昔の雀の姿はない。頬を膨らまして小碓に悪口雑言を浴びせかけていた娘はどこに行ったのか、野を美しく疾走する鹿のような美しさは月や星を見ながら草を枕にして暮らしている者こそが理解できる美しさであった。

長い髪、子供の頃少し拗ねたように見えたまなざしは、今はきりっと切れ長の意志の強い目に変わっている。薄かった胸も膨らみ体も女らしく変わっている。

それでも隼やその一族は必ず雀の正体を見破るに違いない。

颯爽と駆け出していった雀の後姿を見送ると小碓は軍衆に向かい、声を張り上げた。

「参るぞ、これが最後の戦いだ。終えればわれらが国のまほろば、大和へと戻るばかりだ」

おう、とどよめくような喊声が返ってきた。

尾張から伊服岐能山までは二日がかりの行軍である。前の日の朝早く出発した一行が伊服岐能山の辺についた時は日が暮れかかっていた。

「みな、今夜はここで休め。明日に山に分け入り、戦うことにしようぞ」

小碓の言葉に兵たちは各々体を横たえると眠りに付いた。


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