第18話 弟橘比売の覚悟

雀は須加との闘いの時に野火で焼けこげた髪を綺麗に切り揃えた姿になって、小碓と弟橘比売の傍らに寄り添っていた。皆の前に姿を現した以上、もう隠れている必要もないだろうという小碓の言葉に雀は素直に頷いた。

火の中を突っ切って小碓のもとに駆け付けた雀の姿を見ていた軍衆は雀を褒め称え、喜んで仲間に加えた。雀が隼人の族だという事を知っている者は小碓を密かに守るのが隼人の意図だと考えた。雀はその勘違いを放置したまま一行に加わった。

といっても雀の役目は変わらない。取り敢えず仲間に加わり、夜も一緒に過ごすが軍が動く前から行く先の様子を探り、小碓に報告をする役目である。

「それにしても・・・」

と雀は尋ねた。

「どうしては火打石など持っていたんだ、いや・・・おられたのですか?」

弟橘比売が側にいるのを忘れ、いつもの調子で小碓に話しかけた雀は慌てて言い直した。髪を切り揃えた雀には少女の頃の俤が蘇っている。

「よろしいのですよ。あなたのことは吾が背からみな聞いております。いつも傍にいて助けてくださったそうですね。今度ばかりでなく」

弟橘比売がそういうと、雀は顔を赤らめた。

「え、ええ、でも、あたい、あ、あたしは御子の言う、、ううん、おっしゃった事をしただけですから」

へどもどしている雀に小碓は微笑みかけた。

「無理するな、雀。私と弟橘の前ではいつもの喋り方で構わない。ただ他のものがいるときは静かにしておれ」

ほほほ、と笑った弟橘の優しい笑顔に、雀は更に顔を赤らめると小碓に向かって唇を突き出した。

「御子はいつも、静かにしろって言うけど、あたいはそんなにおしゃべりじゃない」

むくれている雀を、まあ、そう怒るなと宥めると小碓は火打石を渡された時の話をし始めた。

「では、こうなる事をあのお方は知っておられたのか?」

小碓が話し終えると雀は目を丸くして尋ねた。

「さあ、どうであろうか」

小碓は首を傾げた。

「ただ、何となくそう思ったというような話であったが・・・」

「ご存じでおられたのでしょうよ」

弟橘比売はにっこりと微笑んでそう言った。

「お陰様で子の命まで助けていただきました」

語り合っている一行の眼前には青い海が広がり、空には鴎が数羽、風に乗って舞っている。その上空でとびが獲物を狙って不規則に輪を描いている。


土地の者の話では、そこから陸を越えていくのは難渋を極めるということだった。

後に江戸、さらにその後には東京と呼ばれるようになる場所はその頃はどこまでも葦の野原が続き、幾つもの暴れ川が流れ込む荒涼とした土地であった。

「船で行くのがようございましょう」

土地の者たちはそう勧めた。その者たちの助けで船はなんとかかき集めることができたのだが、海が一行の出発を許そうとしなかった。

波が荒いというわけでもなく、天気が悪いというわけでもない。ただ、潮の流れが無闇に早い。船で乗り出そうとすると、あっという間に岸に戻され、打ち上げられてしまうのである。

「このようなことは滅多にございませんが」

土地の者も首を傾げている。

地に留まる事十五日、二百近い兵が小さな漁村に留まることに無理が重なってきた。食い物が底をつき始めただけでなく、土地の者たちが漁に出ることができないのは軍衆が居座っているためだと考え始めたのである。あからさまに敵意を見せるものこそないが、次第に村人たちの表情に困惑の色が濃くなっていった。

そんなある夜、一人の女が波打ち際で立っていた。

月は満ち、いだ海の面には女の影が長く尾を引いている。女の手には赤子がすやすやと眠っている。風はぴたりと止んで、女の長い髪はそよぎもしない。

阿和佐久御魂あわさくみたま都夫多都御魂つぶたつみたま底度久御魂そこどくみたま、吾が祖の御霊、お教えくださいまし」

女は口の中で呟いている。その声に応じるかのように、海の面にぽかりと大きな泡が浮いてきた。

「吾が御祖、天の八衢に駆け昇りし猿田毗古命、何の障りにて我が夫をこの地にとどめしや?」

女の問いに泡の奥から低くくぐもった声で、答えが返ってきた。


次の朝である。

目を覚ました小碓は、眼前に弟橘比売が旅装束に着替え畏まっているのを見て驚き、目をこすると跳ね起きた。

「どうしたのだ。船が準備できたのか?」

それにしては静かである。準備ができれば他の者たちが支度に大わらわのはずである。小碓の不審げな声に弟橘比売は静かに、

いとまを頂きに参りました」

と答えた。眉を顰めると、

「どういうことだ」

不機嫌な声で小碓は尋ねた。

「そなたは倭比売命に言いつかり死ぬまで私と共に旅をすると申しておったのではないか」

弟橘は頷く。

「今でも、できることならそうしとうございます」

「ならば、どういうことだ」

小碓の声は尖った。女は床に目を落とすと静かに答えた。

「昨夜、我が御祖、猿田毗古命の御魂と話して参りました。その御魂がおっしゃられたのでございます。海が鎮まらぬのは大綿津見命が私をお召しになると決めたため、それが叶わぬ間は水を走らせ決して通させはしないのだとの事。私はお召しに従う事と決めました」

ぬ、と呟いて小碓は弟橘比売を見た。弟橘比売は面を上げた。その面に決意の色は固い。

「ならぬ」

そう言うと小碓はおもむろに弟橘比売の手を取った。

「まつろわぬ神と闘うのは女の仕事ではない。それこそ私の仕事だ。お前の申すことが本当ならばお前ではなく私が水に入ろう。そして、大綿津見を言和して参ろう」

だが、弟橘比売は悲し気に首を振った。

「それは無理でございます。御子の力がいかに優れておりましても水の中での争いに分はございません。命を落とすことになりましょう。御子は帝の申された通り、政を成され覆奏なされませ。それこそ御子のなされるべきお仕事。その御仕事を成し遂げなされるために、倭比売命は私を遣わしたのでございます」

「だが、子がおるではないか。若建王をいかがする?」

そのことは弟橘比売も散々考え抜いてのことであった。悲し気に再び目を伏せると、

「子は大吉備建比売おほきびたてひめにお預け致します」

弟橘比売は静かに答えたが、その語尾は僅かに震えた。

大吉備建比売は同行する吉備臣建日子きびのおみたけひこの妹で吉備臣が国元から呼び寄せた女である。都から追加で送られた兵と共にやってきたその姫は今では弟橘比売と共に小碓の側で仕えている。取り立てて美しい姫ではないが、気立てが優しくよく気の付く女であった。弟橘比売が子を産んだ時も側で手助けして乳はでぬにしろ、今は乳母のような役も果たしている。

「あのお方でございますれば、不足はございませぬ。以後は私のお役目を代わって成し遂げてくれましょう」

「ならぬ」

小碓は怒鳴った。

「女の手を借りて進んだとあっては、私の恥だ。帝に申し訳が立たぬ」

だが、弟橘比売はゆっくりとかぶりをふった。

「御子、御子のなすべき政を私一人のためにもし諦めることがあれば、私は倭比売にどのような顔でお会いできましょうか?帝にどのように申し開きが出来ましょうか?

私は嬉しゅうございます。このような形であっても御子のお役に立てることが出来ることが・・・幸せでございます。もし許していただけねば、例えこの身が生き延びようと決して幸せにはなれませぬでございましょう」

小碓は目を上げた。弟橘比売は微笑んでいる。だが、その瞬間、堪えていた涙がつっと一筋頬を流れた。

「ここまでご一緒出来て私はうれしゅうございました。何も思い残すことはございませぬよ」

そう言った弟橘比売の手を小碓は掴んで離そうとしない。その夫の手の甲を優しく摩りながら弟橘比売は気丈に囁いた。

「さあさ、お前様。私の最後の、そしてせめてのお願いでございます。菅畳八重すがだたみやへ皮畳かはだたみ八重、絁畳きぬだたみ八重、それらを用意なさってその上に私をお乗せ下さい。それほどの用意を頂ければ大綿津見命も旅の途中と思召され、お許しくださいましょう」


浦には軍衆のみならず、村人が総出で集まってきた。その中で子を抱いた大吉備建比売は瞬きもせずに浦に整えられた畳を見ている。腕の中の子供も遠くの母の姿をひたすらに見守っている。

「本当にそれで良いのか、御子」

雀の両目は涙に溢れている。雀が泣いているところを見たのは小碓にとって初めてである。

「女一人を見殺しにして国を守ることなどできるのか?あたいには分からないよ」

頻りに自分の袖を引く雀に、

「女一人の幸せとはなんなのだ?」

小碓は呟いた。

「え?」

雀が見遣ると小碓は続けた。

「弟橘比売は申したのだ。私が政をし遂げねば自分は決して幸せにはなれぬと、そう申したのだ。幸せになれぬなら生きていても仕方ない、そうも申した。そう言われた以上、私には止められない。雀、お前もそうであろう?私について族を抜けると決心した時、お前は今の弟橘比売と同じような思いであったに違いあるまい。そのお前があの者の気持ちをわからぬで、どうする?」

「そうかもしれないけど・・・」

雀は涙を手で拭った。小碓は口を堅く結んでいたが、綺麗に生えそろった髭は微かに震えていた。

「御子・・・」

ぬれた目で雀は小碓を見上げた。

「お前は見ていてくれ。あの女の命を奪うこの私があの者の願いを叶えることができるのか、しっかり見ていてくれ」

浦の波はいつにもまして穏やかであった。

何人かの男たちが重ねられた畳を波打ち際まで重そうに運んでいく。その上にしずしずと弟橘比売は進んでいくのが見えた。弟橘比売が座すと共に海の水がゆっくりと膨らみ重ねられた畳の際を舐めるように取り囲んだ。

「おお」

見守っていた人々が驚きの声を上げた。水は意思を持つかのように畳を持ち上げると沖へと緩やかに引き込んでいく。どこからともなく湧きおこったもやが弟橘比売の姿を掻き消していく。

その時突如今まで大人しくしていた赤子が泣き始めた。聞いている者たちの心を削るような激しい泣き声だった。

その声が聞こえたのか、靄の中へと消えていく弟橘比売の姿がぐらりと揺れた。だがその姿が振り返ることはなかった。

赤子は泣き続けた。だが、やがて靄が再び晴れた時、そこには静かな波が何事もなかったかのように打ち寄せ、遥か彼方に薄く山並みが映るばかりである。赤子もいつの間にか泣き止んでいる。

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