第17話 相模の国造

三日後に甲斐を発った時、子を腕に抱いた弟橘比売の歩みは今までと些かも違わぬ健脚ぶりであった。相模へ続く道はそれまでに比べれば多少なだらかな下りであるが、山道である事に変わりはない。愚痴一つこぼすことなくしっかりとした足取りで歩んでいくその姿は剣や盾、弓を背負って歩く兵に劣ることはない。子供も母の手に抱かれて安心しているのか、滅多に泣き声など立てることもなく、時折ぐずるときは兵たちもちょうど歩き疲れて休息が必要な頃合いであった。軍は休み、母は道の奥で子供に乳を与えている。その姿を遠くから眺めながら兵が感心したように、

「時をはかったようでございますな。ちょうど兵が疲れ切ったころに泣き声で知らせてくださる」

口々に小碓に向かって褒め称えるほどである。発った日の夕には、一行は国境のあたりまで歩みを進めた。そこで一夜を過ごす支度をしていると、何処からか一人の男が現れた。

「ここにおわすは、倭男具那王やまとをぐなのみこの御一行とお見受け申す」

男は大声で呼ばわった。

倭男具那は倭建のかわりに名乗る名である。建という音はあたのように聞こえます、帝の軍として戦っている時は憚った方が良いでしょうと進言したのは同行している御鉏友耳建日子である。小碓は頷き、遠征の最中は熊襲に問われた時、口をついて出た名である倭男具那と名乗っている。

誰だ、と誰何すいかする守兵に男は太い声で名乗り返した。

「相模の国造、須加の臣、阿多と申します。御子にお会いするよう主より申し使ってまいりました」

呼び入れられた男は、小碓の前に座わると丁重ていちょうに頭を下げた。薄茶の装束は雅ではない。一見しただけでは都近在のむらでよく見かける農夫たちの装束とさして変わることはない。日焼けした顔も同じである。

ただ、装束の下には鎧をまとっているようであった。腰を下ろした時の沈むような音と微かな金の音で小碓はそれに気づいた。だがその鎧の重さを微塵も感じさせない軽々とした所作である。そして農夫のような顔から時折除く鋭い眼光は貫くように小碓を見据えてくる。分厚い唇を動かすと男は、

「我が主から倭男具那王をお迎えに上がれと申し付かりました。倭男具那王は御稜威をこの地まで及ばされようとなさっておられる大切なお方。かつては出雲建、熊襲建を滅ぼされたという大層お強いお方。丁重にお迎えするようにとの主の命でございます」

と一気に述べると、再び低頭した。

「今からか?」

奇妙なものを見るような目つきで小碓は男に答えた。今まで土地のものからそのような歓待を申し込まれたことはない。

「はい、できますれば」

男は頭を上げると無表情に答えた。

無表情は東の方の者どもの特徴である。西の男たちが過剰なほどの感情を表に出すのに比べ、東では男も女も滅多にあらわに感情を見せようとしない。

だが、それは感情や思考がないというわけではない、と小碓は知っている。この男は何を考えているのであろうか?そしてこの男の主が言っていることは真情なのであろうか?戦いに日々を過ごすうちに小碓は少しの疑いでも疎かにすることはなくなっている。

夜、動くのは危険である、小碓は直感した。

「ありがたいお申し出、承った。が・・・今日はだいぶ歩いた。生まれたばかりの赤子も一緒である。明日、参ることにさせて頂きたい」

「さようでございますか」

男はやはり無表情のまま答えた。

「では明日、またお迎えに参る事と致しましょう」

「そうしてくれるとありがたい」

小碓の答えに一礼をすると、男は無言で引下がっていった。

「考えすぎだったか・・・」

あっさりと去っていくその後ろ姿を見送りながら小碓は呟いた。


その夜、小碓は雀を密かに呼んだ。どうにも須加の意図を掴みかねたのである。

「須加という男はこの近くに家を持っており、確かに今はそこにおる。家もかなり大きいものだ。御子を招く先は恐らくそこだろう。だが、軍衆を率いている気配ではない。叛逆の意図はないように思える」

雀の話し方は昔のような甘ったるい少女の話し方ではない。今や小碓の軍師のような喋り方である。

「しかし油断ならぬ。遣いが来たという事は御子の一行がこの地に進んできたことを事前に察知しておるという事だ。それは御子の動きを伝える何者かがいるということ。そしてその者はつぶさに我々のことを調べているに違いない。御子を倭男具那王と呼んだというのはそのあかし。その上、御子が出雲建や熊襲建を滅ぼしたということを知っているのは都にも何らかのつてがあるという事だろう。兵を率いていないからと言って一概に安心はできない。夜、動くのを控えたのは正解だと思う」

「そうだな・・・」

小碓は頷いた。雀のもたらす情報を小碓は信じている。

「分かった。ところで雀」

「ん?」

雀は切れ長の目で小碓を見た。その瞳が澄んでいて、小碓は今まで気付かなかった美しさをそこに見た思いがした。思わず言いさした小碓に

「なんだ?」

と雀は不審そうな目を向けた。

「いや、不足しているものはないか。こちらで整えよう」

取り繕った小碓の言葉に

「いや、ない。全ては自分で手に入れられる」

雀は首を振る。

「そうか・・・」

「あたいは戻る。須加の様子をもう少し探っておこう」

「気を付けよ」

「御子も」

短く言葉を返すと雀は走り去った。その奥には右上の欠けた月が統しめす闇が覆い、狩を始めた梟の羽音がどこからか響いてくる。


阿多と名乗った男は翌日、日が中空にさしかかった頃に再び姿を現した。男に導かれるまま進んでいくとやがて大きな造りの家が見えてきた。飾りは素朴だが太いはりを備えた頑丈そうな建物である。

その前にずらりと男たちが並んでいる。いずれも手に武具など構えておらず、小碓一行を認めると膝を屈めて出迎えた。その真ん中にいた小男が、小碓たちが到着するなり頭をあげ、

「ようご到来なされました。この地の須加と申す者でござります」

と言った。年の頃は帝と同じ位であろう、肌の色が黒く頭や髭には白いものが混じっている。敵意は感じられなかった。国造とも名乗らず、治めるという言葉も使わないところに恭順の意を示しているらしい。

小碓は頷くと、 

「吾は纏向の日代宮に坐まして、大八嶋国統しめす大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名を倭男具那王と言う。東の方十二道に荒ぶる神、まつろわぬ人々がおるから和平ことむけやはせよ、との天皇の詔に従って参った」 

と名乗った。

「はい、よく存じ上げております」

須加は再び頭を地にこすりつけるようにして答えた。その言葉遣いに小碓は少し首を傾げると、

はこの地の生まれか?」

と尋ねた。言葉の端々に西の抑揚が聞いて取れたからである。須加は心持ち首を傾げると、

「私はここで育ちましたが二親は山代やましろからこの地へ流れ着いたと聞いております」

「なるほど」

山代は都からほど近い地である。それならば、多少都の消息を知っているのも頷ける、と小碓は考えた。国造という役職の名を使っているのもそんなところに起因しているのかもしれぬ。都のことなど何も知らぬ土地の豪族などとは違い、帝の権勢を理解しているに違いあるまい。

「ところで私が進んできたことを汝はとうに知っておったようだな。どうやって知ったのだ」

小碓の問いに、

「はて、こちらでは国を越え、米やら干した魚やらを運ぶ者たちがおります。私はそうした者たちの話を聞いただけでございます」

と須加は答えた。

相模は米を作るには山がちであるが、良い港もあり気候も温暖である。狭い山間や河口の開けた土地で豆や稗、粟などを植え、暮らしに困るようなことはない。海では魚や藻も取れる。それを運んで別の物に取り換えるものがいるのだと須加は話した。

饗にはそうした食材がふんだんに使われていた。ずらりと並べられた山海の馳走を食べながら、時折ちらりと須加の方に小碓は目を遣る。須加はそうした小碓の視線に気づかぬように黙々と食物を口に運んでいる。実直な男なのだろう。自身も普段は菜を植えすなどりに出るというだけあって、良く陽に灼けた武骨な体をしている。

その須加がふと目を上げ、

「幼い御子と共に旅では、さぞかし大変でございましょう」

と小碓に問うた。

「私はこの地で育ちましたが、最前申しました通り生まれは山代でございます。親は産んだすぐ後に山代を捨て、この地まで流れついたとのことでございます。私自身はさっぱり山代のことなど覚えておりませんが・・・ですが親がしばしば私を抱いてこの地まで来るのは大変だったと申しておりました」 

「妻は足が達者でな」

小碓は答えた。

「子を産んだ後も、男勝り。悠々と子を抱いてここまで参った」

「さようでございますか。母は病勝ちでこの地についた時は息絶え絶えだったと申しておりました。その母は山代を懐かしみ死ぬ間際にも山代に戻りたいと申しておりましたが・・・」

「さようか、それは気の毒な事」

小碓の言葉に、須加はあらぬ方向を見つめ、

「さようでございます。母も心残りがございましたでしょう。見知らぬ土地で命を納めねばならなかったことを」

と呟いた。

「ところで、この地は汝が纏めているいう事だが従わぬ者はおるのか?」

小碓が話を振ると、

「おります」

須加は姿勢を正した。

「この近くに大沼がございます。そこに荒ぶる神が住み着いており、時に人を呑み、馬を呑み、またある時には水を流して田を荒らすのでございます。何度か討ちとろうと致しましたが叶わず、そのままにしております」

「ほう」

小碓は首を傾げた。

「さような者がおるか。では征伐せねばならぬな」

「しかし我々は寡兵で参っております。兵の備えもございません。それであれば人をもっと連れ、兵を持参して参ればよかったのでございますが」

須加の言葉に、

「何、気にすることはない。私と共にここにおるのは皆強兵だ」

と小碓は答えた。

「明日にでも参って成敗することにいたそう」

小碓の言葉に

「は、ありがたいことでございます。帝の御稜威をお示しいただければその神とて必ず降伏することでございましょう」

そう言うと須加は平伏したのであった。


翌日、小碓一行は須加に率いられて広大な葦の原に踏み込んでいる。道はあって無いようなもので先を行く須加たちが踏みしめていく葦の折れた茎の跡を黙々とついていくだけである。その中に弟橘比売と子もいる。

やがて、須加たちが立ち止まった。

「この先でございます」

須加は指さした。

「まっすぐ参りますと、大沼がございます。そこに住むのは龍神なのか何か別の神か・・・。たいそう強い神でございます。我々は全く歯が立ちませなんだ」

須加は唇を噛んでいる。ほかの者たちは怯えたように動こうともしない。

「良かろう。ここでお待ちになるが良い」

小碓がそう言うと須加に付き従って来た者たちはあからさまにほっとした顔を見せた。

「では参ろう」

兵たちに声を掛け、小碓は前に突き進んだ。百歩ほど進んだときであろうか、ふと物の焦げる匂いがしてきた。

「御子、あれを」

兵の一人が左を指さした。そこから煙が立ち上っている。

「火か・・・」

小碓が立ち止まると

「あちらからも」

別の兵が右手を指した。

それだけではない。四方八方から煙が立ち上っている。

「しまった、謀られたか」

小碓は声を上げると、後ろを振り向いた。踏みしめられた葦でぽっかりと開いた道の先に須加たちの姿はなくその方角にも勢いよく火の手が上がっている。

「先に沼がある筈だ」

足元の土は湿っている。沼は程近いに違いあるまい。沼さえあれば、水に潜り火を避けることができるに違いあるまい。だが、その時どこからか、声がした。

「その先に沼などない」

須加の声であった。喜びに震えているその声は同時に勝ち誇った響きを帯びていた。

「汝は、謀によって出雲建、熊襲建を滅ぼしたそうであるな。だが、我が謀の前に手も足もでまい。ははは」

すると、あの時、須加だけではなくその手の者たちが妙にはっきりとほっとした表情をみせたのも自分たちを騙すためであったのか、と小碓は唇を噛んだ。とはいえ小碓の脳裏に走った考えは、東の者たちがあからさまに表情を露わにするときは、気を付けた方がいいという事であった。その事を肝に銘じねばならぬ、と考えている小碓に諦めの心はない。

「姿を現せ」

小碓の叫びに須加の声が被さった。

「なんの。そのような手に乗るか。こちらは汝を騙すために空手じゃ。だが空手と雖もこの勝負はわれらの勝ち。汝らは皆焼け死ぬが良い」

「なぜ、このようなことを・・・」

「皇統は我が母の、我が叔母の敵じゃ。積年の恨みを晴らしてやろう」

須加の声は喜びに酔っていた。

「なに?」

帝に従おうとしないものはいくらでもいるが、このような地で帝に対して恨みを持つものがいるとは信じがたい。だが須加の次の言葉に小碓ははっと息を止めた。

「我が母は歌凝比売命うたこりひめのみこと、我が叔母は円野比売命まとのひめのみこと、この名に聞き覚えがあろう」

その名は小碓の祖父、伊久米伊理毗古伊佐知命いくめいりびこいさちょにみことの代に遡る話である。丹波から召し上げた四人の姉妹のうち、末の二人が醜いとして帝は丹波へと戻したのである。末娘はそれを愧じて命を絶ち、その姉の消息は昏として知れないという話が伝わっている。自分はその姉方の行方を晦ました歌凝比売命の末だとこの男は言っているのだ。

「母を憐れんだ父が共に落延びてこの地にやってきたのだ。祖の罪は末の罪、ここで母の恨みを呑んで死ぬが良い。我ら、すめらぎに従うことは決してあるまいぞ」

須加は単なる豪族ではなく、意図的な反逆者だったのである。用意周到に準備を重ね、情報を得て、従順を装ってこの謀を企てたのに違いあるまい。

「む・・・」

小碓は唸った。火の手は四方から迫って来る。弟橘比売を見るとその頬が野火に照らされて赤く染まっている。

「大丈夫か、御子」

その時、火を突き破って跳ねるようにして何者かが小碓のもとに駆け寄ってきた。

「雀・・・」

雀の髪はところどころ焦げ、焦げ臭い匂いが漂ってきた。

「わからん」

小碓はちらりと雀に目配せをすると口元に笑みを浮かべた。

「だが、今までどんな時も二人揃えば、切り抜けてきたではないか」

「すまない、まさかこのようなことになるとは」

雀の言葉は後悔に震えている。

「弓矢、太刀を持っていなかったのはわれらを油断させるためだったのだ。あたいが気づかなかったばっかりに・・・」

小碓はその時ふと雀の足元を見た。湿った土からあぶくが浮き出ている。

「これは」

小碓は跪くとあぶくの匂いを嗅いだ。腐った匂いがする。

「これは沼気しょうきだ」

あたりを見回すと、火の迫る中、所々に大きな岩が見え隠れする。その真ん中に大きな穴が空いていて、その底から先ほどより大きな泡がぶくぶくと湧いている。

「皆の者、岩の向こうに隠れよ。火に立ち向え」

一瞬、何事かと動揺が兵の間に漂ったが、忽ち言われた通り岩を背にして、身を隠した。小碓、弟橘比売や雀も同様にしたが、迫って来る火に焼かれるように熱い。

「雀、火打ちの石は持っているか」

「持っている」

雀が懐から袋を取り出したが、その底が焼けて破れていた。

「しまった。御子・・・どこかに落として・・・ない。どうしよう」

「待て」

小碓は自らの懐を探った。倭比売の言葉を思い出したのである。袋の中を探ると、火打石が転がり出た。

「どうして」

雀は目を丸くした。

「弟橘比売、子を包んでいる布を貸せ」

「はい」

「私から離れろ、雀、万一の時は頼んだぞ」

「分かった」

小碓は慎重に火を打った。幸いなことに柔らかい布に火はすぐについた。

「伏せよ。子の耳をふたいでやれ」

子を抱きしめたまま自分を不思議そうに見守っている弟橘比売にそう言うと、小碓は全軍に聞こえるような大声を上げた。

「伏せよ、耳を塞げ」

後ろ手に火のついた布を小碓が穴の中に投げ捨てたその途端、どん、とはらわたを揺するような大音響が鳴り響いた。


爆風で火は消し飛んでいた。焦げた葦がちりちりとくすぶっているが、辺りを覆っていた煙はどこへ消えたのか青い空が頭上に広がっている。原の岩の影からひとりひとりと小碓の率いる兵が立ち上がった。その一人が、

「おおお」

と雄叫びを上げた。その声に全軍が雄叫びを返した。

爆風に草がなぎ倒され、その向こう側に須加の一行が気を失ったまま倒れている。他にも所々に男たちが倒れている。松の太い枝がそのあたりに転がっているところを見ると、その男たちが火をつけて回ったに違いない。その松の枝もぶすぶすと燻ぶっているだけで火は消えている。

「いったい何をなさったのですか」

弟橘比売が手で耳を覆いながら尋ねた。赤子の耳を塞いでいたのでもろに爆音を聞いたせいであろう、その顔は蒼ざめている。しかし手に抱えた赤ん坊は泣きもせず、目を丸くしながらあたりをきょろきょろと見回している。

「沼気はぜる、それを使ったのよ。昔、難波で試したことがある」

小碓は事も無げに言うと、

「あの者どもをひっとらえよ」

と倒れている男たちを指さした。

やがて目を覚ました須加は土埃にまみれた顔を悔し気に歪ませ、白くなるほど固く結んだ唇からひと言、

「無念」

とだけ言うと、後は黙して語らなかった。須加をはじめ一族の者たちはその場で首を刎ねられ、残る者たちも斬られるか縄で手を繋がれた。首を斬られる男の中には阿多という男の姿も混じっていた。聞けば須加の弟だという。

小碓はそのまま兵を立て直し、須加の本拠を襲い、そこにいた者たちを征伐した。そして主のいなくなった家を国府として使うように没収し、軍衆の中で手負いの者をそこに残し守らせることにしたのである。


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