第16話  御子の誕生

それから一年が過ぎた。が、小碓の軍勢は未だ東へと向かう途上にある。

進軍が遅いのは弟橘比売の足のせいではない。弟橘比売の足は男たちよりも速いくらいで、その健脚ぶりに兵のみならず後ろを追って来る雀でさえ感心している。

「あの足は天宇受売命の血と言うよりは・・・天の八衢やちまたに駆け上った猿田毗古大神の血じゃないのかい」

雀が小碓に向かって呆れたように言ったほどである。 進軍が遅れたのは、地毎を細かく分け百の兵で戦えるほどの大きさで戦を続けていったからであった。

東の国にはまつろわぬものは多いが、出雲建や熊襲建たちのような規模の大きい反抗者は少ない。更に北に向かえば蝦夷えみしがいるが、彼らは東方十二道あずまのかたとをあまりふたみちにまで手を伸ばしてきてはいない。

だが小碓の闘いの相手は土着の小さな集まりではあるものの、数が多くて手間取る。そして東の国の兵は西の者たちに比べはるかに粘り強く、そう簡単には降伏しない。厳しい戦いを終えると破った相手の生き残った者の中から若い兵を募り、戦いで負傷した者たちを補うようにして小碓は東へ上って行った。

このころの戦いは単に戦うだけではなく、戦いに敗れた者たちを捕虜とし、戻った時には奴婢やっこめやっことして使うことが多い。しかし明確な終わりの定められていない今度のような戦いでは奴婢として率きつれていくのは効率が悪すぎた。そこで小碓たちは奴婢としてではなく、奴のみを軍衆として使う代わりに服従を誓わせる事にした。軍衆の尋常ではない強さと小碓の人柄に服従を誓い、次からの戦では先頭に立って戦うものは少なくはなく、軍勢は次第に増えていった。土地に留まることを許された婢も小碓を慕った。

その途上、尾張で一人の娘を見初め、倭比売の言葉を思い出した小碓はその娘を婚ごうと思い定めた。娘に若い頃の倭比売を彷彿とさせるおもかげがあったのである。ただ娘は弟橘比売のように足が達者な訳ではない。それにまだ幼かった。小碓に向かって

「私を母と思いなさい」

と言った頃の倭比売と同い齢の娘で、女というよりまだ少女であった。

婚ぐのは帰還の時で良かろうと思い直すと、娘とその父親と約し小碓は更に東へと進んだ。

生きて帰ればこの娘に再び会う事ができる。それを望みとして戦えばよい。先への希みがなければ生き抜くという気持ちが萎えそうであった。本当であれば倭比売こそ、その希みにしたかったのであるが、弟橘比売を貰い受けた時にその思いは断ち切らざるを得なかったのである。


その頃、東に向かうにあたっての道筋は今のように東海道を進むものではない。平野を行けば距離は短いが、急峻な山々から流れる川の流れはきつく渡ることは難しい。川を越えるのは山を越えるよりも難事であった。海つ路と呼ばれる東海道は徒歩では今の名古屋あたりまでしか安全に進みえず、山筋を辿って進むのが普通である。

これを東山道、やまのみちという。

その山も西に進む時に比べ遥かに険しい道のりである。男でも東への旅は命懸けであった。普通の女ではとてもついていけるものではない。弟橘比売や雀の方が稀な存在なのである。

その道なかで、小碓と弟橘比売との間に子が一人できた。身籠っても弟橘比売の足はさして衰えることはなかったが、さすがに産み月となったため、小碓は甲斐の国に一月ほど留まることにした。

最初百人だった兵の一部は戦いで傷ついて、二十ほど減っていたが帰服した者たち の数は五十余りいた。それに加えて帝が五十ほどの兵を追加で送ってきたのである。

帰服した者たちは小碓に心酔し、このまま纏向までついていこうと考えている。当初から纏向からついてきた者、帝が新たに送ってきた者は百戦錬磨の強者である。

そのため規律はしっかりしており土地の者から食糧を奪おうなどと考える者はいない。それぞれ泊まっている家で薪を集め、農作業を助け、時には狩りに行って猪や兎を捕らえて持ち帰るので重宝されている。このままここに留まっていかないかと誘われる者さえいた。一月も軍衆が留まれば往々にして色々な面倒が起こるのであるが、小碓の配下で面倒を起こすようなものは滅多にいない。そんな者がいれば、小碓はためらうことなくその者の首を自らの手で斬るであろうことを兵たちは知っている。

一方で雀は甲斐のあたりから相模に至るまで飛び歩き、国々の様子を探っていた。雀のもたらす調べは詳細を極めていて、相手の数、平時の備えから戦う道筋まで事細かに知らせて来る。


「もうすぐ、産まれるんだね」

二日がかりで甲斐と相模の国境を探ってきた雀は、小碓にその様子を伝えた後、隣の間を窺うように覗き見た。そこから弟橘比売の陣痛をこらえるうめき声が聞こえて来る。

「ああ」

雀の視線を追うように小碓も隣の間を見遣る。

「后とお子はここに留めるのか?ここは人気じんきが良いみたいだけれど・・・」

雀は尋ねる。

「いや、一緒に行くと申しておる」

小碓は首を振った。

「だが・・・大丈夫か?」

雀さえ感心するほど足の達者な弟橘比売ではあるが、さすがに子を連れて旅をするのは難しいであろう。産まれた子ばかりか、弟橘比売自身、産後の肥立ちが悪ければ命を落とすおそれがある。

「大丈夫だと申しているが・・・」

と答えた小碓の口ぶりは歯切れが悪い。その前の晩、小碓は陣痛が納まった弟橘比売に向かって、しばらくこの地に留まることを勧めた。

「都に帰るときに連れ帰ってやる。お前たちの世話をする者も割いて置いておくことにしよう。ここは人も親切だし、気候も思ったよりはよさそうだ」

だが

「倭比売命からは御子から決して離れるな、と申し付かっております。もしお連れ頂けないくらいなら、私はここで命を絶ちます」

首を振って、真剣なまなざしでそう答えた妻を小碓は少々持て余している。

「取り敢えず、本人の言う事を信じるほかはあるまい。だめそうならその時は本人も考え直すであろう。まあ本人よりも子次第であろうが」

「そうか・・・そうだな。あのお方には本当に驚かされる。好きなようにさせるがよさそうだ」

雀の答えに、ところで、と小碓は話題を転じた。

「相模はその須加すかと申す者が治めておるのだな」

雀はこくりと頷いた。

「ああ、相模はここよりも更に温暖で山海の幸も多い。須加という男はその幸を元に力を増し、国造を名乗っておる。治める土地も広大なものだ。評判も決して悪くはない。いろいろな道具を作って貸して、その値も安く感謝されている。鍬一本、鋤一本に米なら半升、粟なら一升。それが年の値だからな。そうした道具も毎年鍛冶を使って修理させていると聞く。それでは割に合わぬが、人望を得るという点では十分に元が取れる。その人望を力としておる」

「そうか・・・。学ぶべきところもありそうだな」

許しもなく国造を名乗るのは僭越だが、何が何でも征伐すればよいというものでもない。能力があれば、あらためて朝廷に帰順させそのもとで県主にでもするのが現実的である。須加という男は、頭は悪くないようである。味方につけた方が得策だと小碓は考えている。雀は、うん、と頷きはしたが、

「だが、御子。油断はされるな。須加という男、なかなかの策士らしい。もともと小さな領の持ち主だったのだが、あっという間にあたりを切り取ったという話だ。戦もうまいと聞くが、腹の内はわからぬ」

と釘を刺すことを忘れなかった。

「うむ・・・」

小碓が頷いたその時、隣の間の様子が俄かに慌ただしくなった。

「湯を。湯を・・・はよう」

というしわ嗄れた声が聞こえる。子供を百人取り上げたという土地の婆の声である。いり乱れた足音の向こうから、おぎゃーという泣き声が聞こえ、小碓と雀は慌てて立ちあがると互いを見交わした。武力には優れているが、こんな時となると二人とも何をしていいのか分からない。ただ立ち尽くしているだけである。

「御子が・・・御子がお生まれでございます。男王おとこみこでございますよ。こちらに来られてご覧あそばせ」

しばらくした後、掛けられた女の声に釣られてようやく小碓は隣の間へと入った。

初めての子ではない。だが初めて見る己の子である。


「もう、起きても良いのか?」

小碓の問いに弟橘比売はにっこりと微笑んだ。赤子の産まれた夜のことである。

「お前さま、私は大丈夫でございますよ。長い間、お引止め申して申し訳ございません」

「無理はするな。荒ぶる神どもは逃げてはいかん。もっとも逃げて行ってくれるなら、その方がよほどありがたいのだが」

珍しく冗談を口にした小碓を驚いたように見やると、弟橘比売は裾を唇に当て、ほほ、と笑った。何だがばつが悪い思いがして小碓は生まれたばかりの子に目を移した。

「元気そうじゃな」

出産に立ち会った女どもに促され、産まれたばかりの赤ん坊を渡された時、小碓は腕にしっかりとした重みを感じた。

「子供とは、命とはかように重いものか」

と驚いたのである。

纏向で生まれた子もそうだったのであろうな、抱いてやることはできなかったが・・・と、小碓は思いを馳せた。帝から新たに送られた者が、子供は男ですくすくと育っているとの報せをもたらしていた。名は妻が帯中津日子たらしなかつひこと付けたという。それを聞いた時、良い名だ、と小碓は頷いた。帝の名である大帯日子から字を頂き、かつそれを敬って中と変えたのであろう。妻の賢さがそれとなく伝わってきた。子の誕生や生育を伝えられた時もそれなりに嬉しかった。

だが現実に子供を手の中に抱いた時、言い知れぬ思いが小碓の体の奥底に湧きおこった。それまでは尾張の嬢子を生きるための一里塚のように思わざるを得ぬほど生き甲斐を失っていた小碓であったが、腕の中に抱いた我が子の温かみに、この子のために生きねばならぬという思いが卒然と湧きおこったのである。

一時は見捨てたられたのかもしれぬ、と思っていた帝から兵を送られたことも、一緒に齎されたあちらの子供の報せも小碓の心を温かくしていた。

「ええ」

母の慈しみを籠めた温かい目で、弟橘比売はすやすやと寝息を立てている子を見遣った。

「名は・・・考えたか?」

若建わかたけと言う名にしとうございます」

「ほう・・・」

小碓は目を上げた。

「建は倭建命の一字を頂いたのでございます」

「良い名じゃ。纏向と伊勢にすぐに報せをやろう。お前の親には伊勢から知らせればよいかな?」

「はい・・・それでご出立はいつになされます?」

弟橘比売の言葉に小碓は驚いて妻を見た。

「まだ、早かろう。次の新月の頃にしようかと考えておるが」

今は満月で、新月は半月ほど先の事である。その答えに弟橘比売は首を横に振った。

「いいえ、私のせいでだいぶ日を費やしてしまいました。子も無事に産まれましたことでございますし、なるべく早く、明日にでも」

明日と言えば、子が産まれて僅か一日後の事である。

「いくら何でもそれは早すぎる」

呆れたように小碓は妻を見た。だが、妻は真剣な面差しを小碓に向けてきた。

「お前様。良くお考え下さい。鹿は子供を産んで三日も四日も休んでおりましょうか?産んだ母はその日のうちに餌を食べに走り、生まれた子はその乳を飲んで生きるのでございます。お前様は私が鹿に劣ると申されるますか?何よりも大切なのは、帝のお言葉をお守りし、出来る限り早く東の方の憂いをなくすこと、そして一刻も早く纏向にもどることでございます」

妻の言葉に気圧されるように小碓は頷いた。この嫋やかな女性のどこにそれほどの強い意思があるのかは、分からぬ。

「・・・。では、考え直してみるか」

と応えながら、小碓はしみじみと思った。

自分を突き動かすのは女たちなのだ。帝への野心でもなければ都での安逸な暮らしの望みでもない。雀にしても弟橘比売にしても・・・そして倭比売にしても様々な形で私を動かそうとしている。自分はその波間で漂っているようなものだ。

「そうするのがようございます。聞けば、軍衆の中にこの土地に馴染み始めているものも多いとか。あまり時を置けば、新たに加わった者の内から土地に留まる方が良いかと考える者も出てまいりましょう。私をこの地に留めたりすればそうした者たちはこの地に住み着き、もはや御子のお役に立とうとしなくなるでございましょう」

弟橘比売は子が生まれる間際になっても、軍衆の様子を気にしていたらしい。

「そうだな」

小碓は頷いた。

「とは言え、明日では早すぎる。皆の旅支度もあろう。土地の者と約束したこともあるかも知れぬ。三日の後に発つこととしよう」

「はい」

にっこりと微笑むと弟橘はすやすやと寝息を立てている我が子の頬を軽く撫でた。

その姿はたちまちのうちに母親に戻っている。とても生れたばかりの赤子を連れて旅に出ようと決心したものの姿とは見えない。

そういえば、と久しぶりに都にいる兄のことを小碓は思い出した。兄は女を化け物と呼んだ。その通り、自分の周りにいる女たちも皆、化け物なのかもしれない。

兄自身も自らの身を三野の女によって損なった。そして自分が化け物と呼んだ女たちに支えられて生きている。妙なものだ、と小碓は思う。

兄にしても自分にしても己の意思とは別のところに女たちは連れていく。だがその行き先がどこなのか、よくわからぬ。


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