第14話 二人の邂逅

伊勢の斎宮は広大な土地を有している。

伊勢は脇の国と呼ばれるが、脇には軽んじる意味はなく連れ添うという意味であり一つの「国」として尊んで呼ばれる名である。その国の中心が伊勢の斎宮である。

この頃、宮は内宮ないぐうしかなく、倭比売はその宮を斎き祀る者、斎王いつきのひめみことしてそこにます。宮には天照大御神が祀られており、その為、女人が祭主となる定めで倭比売は二人目の祭主であった。

宮は先代から引き継いだ武人たちによって守られている。その武人の一人が簾の奥にいる倭比売に報せを運んだのは、暖かい日ざしが知らせを持ってきた男に冬にしては短い影を引かせている午の頃合いであった。

「纏向から・・・帝の軍衆を率いて・・・?ですが、倭建命・・・。そのような者の名は聞いたことがございません」

倭比売が怪訝な声を出すと、

「このようなものを持参して参りました」

と男は手にした白い玉の飾りを置くと引き下がって再び遥拝の姿勢を取った。女官がそれを手に取って倭比売に運んだ。

「まぁ・・・」

小さく悲鳴を上げると倭比売は白く細い指を震わせ玉飾りを受け取った。指の先で玉は涼やかな音をはじいた。手の中に震えたのは、倭比売が幼い頃の小碓に贈った玉飾りであった。

「すぐにこちらへ」

驚きに胸が高鳴っている倭比売の前に小碓が現れたのはそれから間もなくであった。子供の頃は揃っていた前髪は今や耳の横で結わえられ、背も以前は倭比売より低かったのに、今ではすらりと高く、たくましい肉がついている。口元に美しく生えそろった髯は小碓がもはや少年ではなく一人前の男であることを示していた。

「ご立派になられて・・・」

言ったきり倭比売は言葉を失っている。

「姫は相変わらず・・・」

そう言ってじっと見詰める小碓の視線に倭比売はつっと目を逸らした。逃げるように小碓の前から姿を消したことを難詰されているように思えたのだが、それを見て小碓はにこりと笑った。

「お元気そうでおられるご様子。さて・・・」

「その前にお尋ねしたいことがございます、なぜ?」

倭比売は尋ねずにはいられなかった。

「倭建命などと名乗られたのでございます?」

小碓が熊襲建を討ち纏向に戻った事は聞いて安堵していたのだが、名乗りを倭建としたことは聞いていなかった。小碓は熊襲建を討った時の経緯を話し、倭比売は魅入られるように耳を傾けた。

「その弟熊襲建が、『建』の字を献ずと申したので・・・今はの際の言葉として受け取ることとしました」

「はい」

「ならば倭建と名乗ろうと・・・」

「そうですか・・・」

なぜ、倭の字を使ったのか、と倭比売は尋ねないし小碓も言わない。

「この度、帝から東のまつろわぬ神、人々を言和せと仰せつかりました。つきましては先ず、天照大御神を祀るこの伊勢にて捷を祈願致したいと存じまして」

小碓は神妙な面持ちで告げると

「さようですか・・・」

倭比売は頷いた。

「では早速用意させましょう」

「明後日という事で宜しいか」

小碓の尋ねようはいかにも軍の長らしい堂々としたものである。

「結構です。いつお発ちになられますか?」

「その翌日にでも」

「わかりました・・・。帝には・・・伊勢に立ち寄ると申されたのですか?」

倭比売の問いに小碓は大きくかぶりをふった。

「いえ。軍を率いることになれば、その先は全て軍の頭が決めること」

小碓は視線を逸らさず倭比売を見つめてくる。その視線に耐え切れぬように倭比売はつっと視線を外すと

「他に何か・・・」

と小さな声で尋ねた。

「叔母様、私は嫁を取り、子をもうけました」

小碓は呟いた。

「聞いておりますよ。良かったですね」

「・・・」

小碓も青々と葉がえつつある山並みに視線を転じると、静かに尋ねた。

「叔母様は・・・。叔母様がお一人のまま、ここで暮らすようになったのは私がいけなかったのでございましょうか?」

「いいえ」

視線を元に戻すと、きっぱりと倭比売は否定した。

「神を祀って、清く暮らす。それは私の望みです。伊勢は良いところです。あなたがたのご出立の前の日には伊勢の山海の物を揃えてあへを用意させましょう」

「ありがとうございます」

平伏すると、そのまま後退り小碓は退出した。その姿を倭比売は不安げにじっと見つめている。不安なのは他でもない、神に仕えるべき己の心の動揺である。


纏向からの遣いが密かに伊勢に到着したのはその日の夕刻であった。雀がそれに気付かなかったのも道理で、伊勢と纏向には神官しか通ることが許されぬ裏の道がある。その道を遣いは神祇に属する武人に守られてやってきたのだ。

遣いは帝が布斗麻邇を命じた神祇官その人である。纏向と伊勢の間に神祇に関わるものが往復するのは珍しくないが、もっと下の位の者が行き来するのが通例である。

倭比売は不審に思った。そのような立場の者が伊勢までわざわざ下向するのは初めての事であったからである。そしてその神祇官が運んできた言葉を聞き一瞬言葉を失うほどに驚いた。

「まことでございますか」

息を整え漸く問いかけた倭比売に向かって神祇官は静かに頷いたのであった。

「これこそ、まことの天意でございます。小碓の命がこの地を訪れることもあらかじめ卦に出ておりました故、お伝えに参ったのでございます」


翌日の朝、伊勢内宮では真砂まさごの敷き詰めた本殿前に、ずらりと兵が並んでいた。

百名の兵が頭を下げぴくりとも動かずに畏まっているその情景は壮観ですらある。四方を囲う忌竹いみたけの青い葉がさらさらと風に靡き、その間を四手しでがゆっくりと揺れていた。竹の放つ青い香りが辺り一面に漂ってくる。

その一人一人の頭上で、白装束の倭比売自らさかきを手にして祓い終えると、神に祈りを捧げ、祈祷が終わった。微動だにせずにその情景を見守っていた小碓は、兵が整然と宿舎の方へ向かうのを一瞥すると本殿の中へ向かった。

「まことにありがたいことです」

微かに陽の温もりがある檜床に手を当て遥拝した小碓に向かって倭比売は優しく微笑みかけた。小碓が来たと聞いて動揺した時の様子は微塵もない。小碓が産まれた時のような、温かく優しい眼差しを投げかけている。

「手を御上げなさい、小碓命」

幼い頃と同じような柔らかい声に小碓は目を上げた。訪れた時の、懐かしくもどこかよそよそしかった声と違う。

この温もりと優しさに溢れた声を聞きたかったのだ、と思った途端、小碓の両の眼から涙が噴きこぼれた。

「どうしたのです、小碓」

叔母はすっと立つと慟哭どうこくしている小碓の背に手をあてた。

「さあさ、涙を拭いて。わけをお話しなさい。戦に発つ前に、あなたらしくもない」

声をかけた倭比売はそっと袖で小碓の涙を拭いた。幼い時分、夜母を偲んで泣いていた時にしてくれたのと同じ仕草である。

「帝は・・・」

小碓は喘ぐように口を開いた。

「帝は私を憎んでおられるのでしょうか?西の方に私を遣わせてから、殆ど時もないというのに自ら娶せなさった妻と子を残し、再び東へ出征せよと仰られる。それも僅か百足らずの手勢でございます。私に死ねとおっしゃっておられるのでございましょうか。もし私を日継の御子の一人としたことを悔やんでおられるなら、私は日継の御子など下ろされても良い。次の帝が若帯日子命であろうと五百木入日命であろうと私に叛乱を起こすつもりなどいささかもございませぬ」

駄々っ子のように泣きじゃくる小碓の背を優しく撫でながら、

「そんなことはないですよ」

と優しく叔母は語り掛け、小碓の背中を摩った。

「私が帝になる意味があるとしたなら・・・」

小碓は涙に曇る眼を叔母に向けた。

「なんですか?」

口籠った小碓に倭比売は尋ねた。

「この世には帝にならねばできぬことがございます。その一つが斎宮を変えること」

「何を言うのです」

倭比売は小碓の背を摩る手を止めた。

「帝になれば、叔母さまを・・・」

見上げた小碓の眼は必死に訴えていた。だが叔母は真剣な面持ちを作ると

「愚かなことを考えるのはおやめなさい。帝とは私心でなるものではございませんよ」

倭比売の厳しい言葉に小碓は項垂れた。慣れ親しんでいた叔母の姿がまた遠くに行ってしまいそうだった。その不安げな眼差しが倭比売の眼には幼い頃の小碓に重なった。母を失ったばかりの時、この子はいつもこんな目をしていた。

「あなたが着いたその日に帝からある者を通じて口上が届きました」

と倭比売は静かに小碓に語り掛けた。

「帝から?」

驚いたように目を上げた小碓に、

「口上には帝のご真情が籠っておりました。お間違えなさらぬように。帝があなたを東に往かせるとお決めになられたのは布斗麻邇にそう出たからなのです。これはその布斗麻邇を行った者自身の言葉ですから確かです」

爾来じらい、帝の最も大切な仕事は神意を知る事である。あの時、帝が神の意志と口にした時、その神とは帝ご自身ではなく天の神意を占った結果だったのだ、と比売は語った。となれば、帝自身とてその神意をたがえるわけにはいかないのだと。

「その中味を私は教えられました。もっともこれはお約束であなたに伝えることはできませぬが・・・」

「はい・・・」

「まず、帝がお命じになられたものをあなたにお渡ししましょう。それを見ればあなたにも分かる筈です」

そう言うと、倭比売はつっと立ち上がって、

「あれを」

と女官に命じた。二人の女官が捧げて持ってきたのは黄金の布に包まれた何やら長いものである。

「小碓命、いえ、倭建命」

叔母の凛とした声に小碓ははっと姿勢を正した。

「ここに帝よりそなたに賜いしは、草那芸剣ぞ」

小碓は平伏したままじりじりと後ずさると蜘蛛のように手足を床につけひれ伏した。

草那芸剣とは、古く八俣の蛇の尾を建速須佐之男が斬った時に見つけ天照大御神に捧げた剣であり、荒ぶるものを薙ぎ、人草を和ぐものとして伝えられた帝の証である。

今、纏向にあるのは、それを模したものである。本物は天照大御神とともに伊勢に遷座されているのである。もう一つの神器である鏡も同様で、移された理由は霊力が余りに強すぎるからだとも言い、また万一のことが起こった時に遠ざけて置くことによって帝の座と神器を同時に奪われないようにするためだとも噂された。

その本物の草那芸剣が目の前にある。

「これを以ち、東の方、十二道の荒ぶる神を討ち、まつろわぬ人どもを言和すがよい」

叔母の声に小碓は平伏した頭を更に床にこすりつけるようにした。

「さあ、これをお受けなさい」

元の声に戻ると倭比売は手にした剣を小碓の方に捧げ、小碓は平伏したまま手を上げて受け取った。

「もちろん存じているかと思いますが、この剣は天照大御神が御孫をこの地に遣わすとき、玉・鏡と共に授けられたもの、代々日継の御子に受け継がれたものです」

倭比売の言葉に、

「はい」

小碓は肯いた。

「帝はあなたがここに立ち寄ることをお察しになっておられたのでしょう。その上で私に託しあなたへと渡すようにおっしゃったと私は考えます。東の国の征伐がそれほど難しいことと帝ご自身がお考えだからでしょう。もちろん、草那芸剣をあなたに渡す事に他にも意味があると考えることはできます。それを以て自分こそが日継の御子だとあなたが主張するのかはあなた次第ですが・・・私はあなたが帝の気持ちを汲むと信じておりますよ」

「・・・」

小碓は黙ったまま草那芸剣を捧げ持っている。

「その剣の力は荒ぶるものの力、時と場合によっては厄災を招きかねません。だからこそ、日継の御子としての力を有する者だけに継がれるのです。承知なさっておりますね?」

小碓は再び肯いた。それを見てにっこりとすると

「私からも、一つお渡しするものがあります」

倭比売は横にあった小さな袋を手にして、小碓の前に置いた。

「私は天意を諮るような力を持ち合わせているわけではありません。ですが、あなたと会った時、ふとこれがあなたを助けると強く思ったのです。ですからこれをお持ちなさい」

「はい」

草那芸剣を前に置くと小磯は袋を手にした。袋は重く、中で何かがぶつかり合う音がした。

「いざというときに開けてみるのですよ。きっと役に立つ、そう思います。ですが、その時までは決して開けてはなりません。開ければいざと言う時の役に立たなくなりましょうから」

袋を謹んで裳の裾に入れた小碓に向かって倭比売は、

「実はもう一つ、私からあなたにお渡ししたいものがございます」

と奇妙な笑みを浮かべた。

「このようなことを私がいうのはとても妙に思うでしょうし、あなたは怒るかもしれませぬ。ですが、このことは帝からのお言葉を聞いてこその願いです。分かってくれますか?」

「はい」

小碓の答えに倭比売は、後ろを振り向くと

「さあ、おいでなさい」

と呼んだ。後ろの暗がりから現れた者を見て小碓は首を傾げた。現れたのは美しい女である。

「この嬢子は弟橘おとたちばなと申します。以前に阿謝訶あざかの社でお会いしたのですよ」

倭比売とその娘が互いに見つめあってにっこりと笑う姿はまるで姉妹のようである。

「あなたも聞いたかもしれませんが、私が伊勢に降る時、阿謝訶の近くで賊に襲われ難儀をしました。その時、この嬢子おとめと出会ったのです。そしてその一族の助けを得て伊勢にたどり着くことができたのですよ」

「そうだったのですか・・・」

その話は初耳であった。倭比売は頷くと、

「この嬢子は天宇受売命と猿田毗古大神の血を引く猿女君さるめのきみの末、血筋も申し分ございません。この娘をあなたの側に仕えさせなさい。これはあなたの母としての、母の代わりとしての願いです」

と言葉を継いだ。

「は?」

小碓は意味が分からぬというように二人の女を交互に見た。まさか慕っていた人に妻を勧められるとは思ってもいなかったのである。

「しかし・・・軍と共に嬢子を率いるというのは・・・」

別に忌みがあるわけではない。古来、その娘の祖であるという天宇受売も葦原中国に天孫が降った時に同行したのである。だが、現実を考えれば女の足では軍の進行に差支えが出るに違いない。兵としてではなく軍を率いるものの妻としてであるから、雀のように規律をみだす恐れはないが、それでも現実として様々な影響が出る恐れがある。

「軍の進行が遅れましょう」

小碓は言葉を選んだ。だが倭比売はにっこりとして答えた。

「何の心配もないのですよ。この嬢子は天宇受売命の血を引いておられるのですから」

「はい、その事でございましたら何も心配ございません」

娘の声は倭比売の声に似ていたが、微かに高かった。

「わたくしは今朝、阿謝訶を発ってここまでやって参りました」

阿謝訶から伊勢までは今の距離で30キロ余り、普通の女の足では到底、朝発って今の刻につけるものではない。

しかし、この女は楽々とこなしたのであろう、でなければ、旅装束を着替えこの場に美しい姿で現れることなどとうてい叶うまい。女二人を前に事の成り行きに呆然としたままの小碓に向かって倭比売は諭すように言った。

「この嬢子はいざと言う時、あなたの役にたつでしょう。そればかりではなく・・・」

「しかし・・・」

躊躇っている小碓に向かって倭比売は厳かに言葉を続けた。

「子を成しなさい。それこそ帝のお言葉と繋がりがあるのです。必ず・・・。母の願いを聞いてくださいますね」

小碓は静かに倭比売を見た。倭比売の眼には有無を言わせぬ力強い光が籠っている。この人は・・・最後まで私の母であろうとしているのだ。無言で頷くと小碓は弟橘比売を伴って立ち上がった。去っていく小碓と弟橘を倭比売は見送っている。そして二人が戸口を過ぎるとすっと立ち上った。

ふと振り向いた小碓の目に静かに立ち去っていく倭比売の姿が映った。

それが小碓の見た倭比売の最後の姿である。


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