第13話 雀の出奔

朝の御食のあと一人残された小碓は、一度退出してから戻ってきた帝を見ると再び平伏して畏まった。御食の時には機嫌よさそうに振舞っていた帝の表情は打って変わって、いつになく厳しいものであった。そして座すなり小碓に向かって、

「小碓命。詔として聞け。その方、東の方十二道におる荒ぶる神、まつろわぬ人どもを言向け和平せ」

険しい口調で言った帝の言葉に小碓が目を上げ、帝を直視した。

「ですが私には子が産まれんとするばかり。それに西の方を事向け和平してから僅か一年でございます。ここはどなたか別のお方を」

帝の命に従って婚いだ妻は臨月である。まだ生まれて来る子を見ぬうちに発て、というのは余りにも非道ではないか?そう問いかける目に

「ならぬ。これは神の御言葉じゃ」

帝は抑えつけるように言った。

「ただし、此の度は兵をつける。堂々と戦って参れ」

は、と諾うしか小碓に選択肢はない。諾わねば、すなわち反逆である。蒼い顔で退出していく小碓の後姿を帝はじっと見つめている。その視線は険しいままであった。

小碓と共に遣わされることになったのは御鉏友耳建日子みすきともみみたけひこ七拳脛ななつかはぎという膳夫を含めて総勢百足らずである。正規の軍であり、西方に放り出されるかのように行かされた時と比べればだいぶましである。

しかし覚束ないのは、東方の事情に関する情報が西に比べあまりに少ないということ、そして今回の命には明確な終わりがないことである。熊襲建の時は、熊襲建を討ちさえすれば堂々と凱旋が叶ったのだが、今度の道行きでは、どこかで一か所でも反乱が残っていれば任が終わらない。

その上、百の兵をつけるとはいえ、任の重さを図ればいかにも寡兵である。蔵に限りがあり、多くの兵を割けないのであった。兵の中に隼や雀の名はなかった。雀は娘であるので尤もであるが、隼の名も欠けている。

隼はどんな時でも頼ることのできる男である。帝に特別にと願い出たのだが、叶わなかった。隼人は帝の身を守るものぞ、と言われれば、強ちに言い立てることはできない。兵を与えるが、そのかわり前回と違って選好みは許さなかった。


妻との別れはあっさりしたものであった。

「必ず帰って来る。子を頼むぞ」

とだけ小碓は新妻に言った。妻は小碓を信じているようだった。しっかりと頷き、

「お任せくださいませ」

と答えた。その体を一度だけ掻き抱くと、後を振り返ることもせず小碓は旅立った。


「なぜ、兄者は供をせぬ?」

雀は兄を詰っている。その日慌ただしく纏向を出立した小碓の一行を見送った雀には悔しさだけが残っている。

旅立つ小碓の横顔はいつになく厳しかった。二人きりで旅立った時にも見せなかった悲愴の面持ちがそこにあり、雀の姿を見送りの中に認めても決して後ろを振り返るようなことはなかった。

男たちだけの兵に自分が加われなかったのは仕方ないとしても、雀は兄がてっきり小碓に付き、小碓を守ってくれると信じていたのだ。

「帝からの御命令がない」

としか兄は答えなかった。だが、雀は納得していない。家に戻ってもふくれっ面を隠さずに兄を難詰している。そこに一族のおさがやってきた。長は雀を一瞥すると、

「外に出ておれ」

と一喝した。長の命令に逆らうことはできない。頬を膨らせたまま雀は外に出た。

春が来たとは言え、まだ外には冷たい風が吹いている。小屋から離れた野に出ると、取り残された藁の堆の傍らで小碓の旅立っていった方角を眺めながら雀はぼうっと時を過ごしていた。

やがて長が帰って行く姿を遠くに認めると、雀は小屋に戻った。その雀に向かって隼は静かに雀に告げた。

「わが一族は、これからその半数が若帯日子につくことになった。私もお前も、その中に入っている」

雀は、目を見開いた。

「どういうことだ、兄者?それは」

兄の襟に食らいつくように掴むと雀は悲鳴を上げた。隼や雀の一族が帝以外の誰かにつくという事はすなわちその相手が次の帝を担うということを示すことにほかならぬ。

それにしても例外の措置である。敢えて隼人をまだ帝にもなっていない若帯日子に配すというのは、万が一小碓が反旗を翻した時の予防と取れなくもない。いずれにしろ、隼を小碓の軍に配すのを否とし、若帯日子に隼人の半数がつくという事の意味は明白であった。

それでも雀は問わずにはいられない。

「どういう意味じゃ?それは」

雀がするままに隼は堪えていたが、やがて、

「いくらお前が小碓命を愛しくとも無駄なことじゃ。弁えろ、我が一族はそうやって生きてきたのだし、これからもそうして生きていくのだ」

と言うなり雀を無造作に地面に転がした。激しく地面に打ち付けられた雀は転がったまま呻いている。


その夜、雀の姿が纏向から忽然と消えた。

一族の者総出で雀を探したがその姿は見つからなかった。帝の費えで様々な技を帝のためにのみ磨いている雀の一族において、脱走は死を以ってあがなわなくてはならぬ定めである。

「骸はないが、死んだことにせざるをえまい」

長は隼にそう告げた。戸籍などない時代だが、隼の属す一族はその人数、性別、年、技量まで詳細に帝に報告する必要がある。

「まさか雀が帝にたてつくような真似をするようなことはあるまいな?」

長は厳しい目で隼を睨みつけている。

「それはございませぬ」

隼は断言した。雀が考えているのは小碓を守ることだけであろう。帝が小碓を討とうとするならば雀が帝に楯突くこともあるに違いない。しかし、長は帝がそのような仕打ちを小碓に対してすることはないと断言したのだ。

ならば、今の帝に雀がたてつくことは決してないであろう、というのが隼の考えである。長はそれに沈黙を持って答えた。だが暫くすると、

「ならばお前の言うことを信じよう。だが・・・もし違えればおぬしの命も雀の命もない」

と低い声で言った。

「そうなさってくだされ」

隼は静かに答えた。長も雀が小碓の後を追っていったことに気づいているに違いない。追え、と言われれば追って妹を屠らねばならぬ。だがそこまでしろ、と長は、命じはしなかった。おそらく雀の先に待ち構えているものが容易でないと思っているのであろう。

雀は小碓を命懸けで守ろうとするだろう。しかしその望みが叶う事はあるまい。東国での戦いはそれほど過酷である。それでも雀は小碓を追うことを選んだ。その行く先に解はない筈だ。

しかし万一彼らが生き延びて解がみつかりそうになった時、自分は全力でそれを阻止せざるをえなくなるかもしれぬ。

例え帝が小碓を討てと言わずとも、裏切られたと感じたなら小碓の方が帝に反逆することがあるかもしれない。また今の帝と事を構えることがなくとも、次の帝になったら分らぬ。その時は・・・。

長もそのことを考えなかったはずがない。だからこそ沈黙の時があったのだろう。そして、万が一の時は命を捨ててでも帝と日継の御子を守れと言ったのだ。

妹の行く末を思い浮かべ、隼は目を瞑っている。


雀は小碓の一行が真っ直ぐに東へと向かわず道を逸れたことに首を傾げた。向かう先が漸く伊勢なのだと気付いたのは更に一行が右に折れ伊勢へと直進する道を進んだ頃である。

雀が一行に交わることなく、後をつけるように進んでいくのには二つの理由があった。一つは追い付いても仲間に加えてもらえないおそれがあるからである。女が一人、兵として軍に加わるのを嫌う者もいるであろう。例え雀にどれほどの力があるとしても女一人が加わることで軍紀が乱れるかもしれない、と考えるのは自然である。万が一にでも小碓に追い払われてしまったら雀には行く先がない。

もう一つの理由は一行や己自身を他の者がつけていないかを探るためである。

雀の属する一族の半数が若帯日子につくという事は、すなわち日継の御子が正式に決まったことを意味する。となれば、異腹の小碓はもはや日継の候補というより邪魔者であると考える者たちが出てくる。新しい日継に忠誠を誓い、将来その恩恵に預かろうとする者はその日継が万が一にでも倒されるようなことを望まない。帝自身がそう考えなくても周りの者が小碓の排除に動くことは十分にあり得るのだ。

女であろうと、雀はそうした冷徹な思考を子供の頃から叩き込まれている。小碓の前ではつい感情が先走ってしまうが、いざ一人で動くことになれば雀の中では幼いころから身に着けた冷徹な思考方法が姿を現す。

小碓が纏向を発ったその日の内に雀の一族が動かされたことが何よりも怪しい、と雀は考えている。小碓をすぐに襲って亡き者としようとすることも考えられなくはない。そして暗殺を目論む者は雀が身を置いていた族のうちの一人であるかもしれない。それは兄かもしれぬ・・・、と考えると雀の背筋に冷たいものが走った。

それと同じ理由で雀は前を行く小碓の一行にも注意を払っている。一行の中に小碓の命を狙うように命じられたものがいるかもしれない。

だが、いくら注意を払ってみても一行の後をつけてくるものはいなかった。先を行く小碓一行の歩みも整然と、乱れるところはない。という事は、帝の意図は直ちに小碓を排することではなく、それを先走って実行しようとする者もいないのだ、と雀は判断した。

宮の総意は、小碓を東の国の者どもと闘わせ、うまく行けば行ったでその成果を享受し、うまくいかなかったとしても次の帝について思い悩まずに済むと言ったところであろう。

酷い、とは必ずしも思わない。雀の思考法はむしろその冷徹さに寄り添っている。だが、小碓が哀れむ気持ちはそれを遥かに凌駕している。小碓一行が伊勢に向かうのは、天照大御神に戦捷を祈願するだけのものではないと雀は考えている。いや、知っている。

「あのお方に会いに行かれるのだ」

倭比売の美しい姿が雀の眼に浮かぶ。そこにはもう嫉妬の想いはない。むしろ心に滲むのは憐みの情である。もし帝の追手がやってきたとしてもせめて御子をあの御方だけには会わせてあげたい、その為に戦って命を落としても構わぬと雀は思い極めていた。

夜になれば、雀は一行の近くで様々な形で夜を過ごす。近くに人家があれば、その農具小屋や軒下を借りて寒さをしのぐことが出来るし、なければないで草を集め、縛ってその中で休むことができる。農家の近くにはいくらでも食べ物があるし、山の中なら中で見つける算段を持っている。


三日目の夜、雀は小碓一行が宿泊した仮宮からほど近い野で、草を編んで庵を拵えその中で休もうとしていた。月は雲に隠れている。一面の闇の中、冷え冷えとした風が雀の庵の上を渡っていく。

追手がない事に油断していたのだろう。うとうとしかけていた雀の耳に、近づいてくる足音が聞こえた。無造作に近づいてくるのはこちらに気付いていないか、気付いているとしたら相当な手練れの者に違いない。息を殺したまま雀は身構えた。

「何者だ」

緊張した声が降ってきた。気付かれていたのだ、と反射的に雀は廬を飛び出して相手の位置を探った。

「私が小碓と知ってのことか?命を取りに来たなら正々堂々と名乗れ」

はっと、雀は凍り付いた。

「御子・・・」

呻いたその声に相手も驚いたようだった。

「雀・・・か?」

「はい・・・」

「出てこい」

小碓の言葉に、うなだれた姿で雀は現れた。

「何をしておる、このような所で・・・」

小碓は萎れた雀を見つめている。雀は

「御子をお守りするために・・・」

と言ったきりである。追い返されるのではないかと言う惧れと、見つかってしまった屈辱に体が震えた。だがその姿に向かってかけられたのは優しい、労わるような声だった。

「雀、

小碓の言葉に叱られた子供のように肩を落とし、雀は一歩進み出た。

「ついてきてくれたのか・・・」

小碓の言葉に小さく頷く。

し奴じゃ。命懸けと言うに」

小碓は雀が一族の掟を裏切ってやってきたことを瞬時に悟っていた。以前より遥かにたくましくなった腕が再び雀の背を抱きしめる。その腕の中で雀は泣き出した。最初は静かに、だが、涙は一向に止まらず、いつしか大声で泣きじゃくっていた。

「雀?なぜついてきた。さほどに私は頼りないか?」

「だって・・・」

雀はそう言ったきり言葉が続かない。雀の族が若帯日子についた事はその前に旅立って行った小碓に報せられておらぬであろう。だが自分から、帝が日継の御子を若帯日子に定め小碓を死への旅へ送り出したのかもしれぬなどとは口が裂けても言えない。

だからただ泣く。やがてそれが啜り泣きになるまで小碓は雀を抱きしめ続けた。その体は暖かい。

ああ、旅の途中だというのに良い匂いがする・・・。愛しい匂い。そう思った刹那、雀は慌てて小碓から身を離すように体を捩った。

「どうしたのだ?」

「だって、あたい、匂いがひどいし・・・」

恥ずかし気に言った雀に、

「何を言う。良い香りじゃ。お前と一緒に旅をした時の事を思い出しておった」

小碓は懐かし気にそう言った。

「え、あの時もあたいこんな匂いだったかい?」

「私もだ」

ははは、と笑った小碓に連れられるように雀もくしゃくしゃの泣き顔に笑みを浮かべた。

月が雲の間から姿を現した。二人はそのほのかな光の中で向き合っている。

「雀、隼はお前がここに来ることを許したのか?」

一族は許さぬかもしれぬが隼にだけは告げてきたのかもしれぬ、と小碓は考えたのだが、その問いに雀は小さく首を振った。

「そうか・・・」

溜息をつくと、雀の眼を覗き込むように

「雀、私の側におれ」

そう言った小碓に雀は再び首を振った。

「あたいは、隠れて御子をお守りする。兵の中にはあたいを知っておる者もおるかもしれぬし、一人吾が族の者が加わることを不審に思うじゃろ。何やかやと面倒だ。あたいは御子の眼となり、盾となるつもりで来たのだ。一人が良い」

「そうか」

小碓は頷いた。

「なら、時折私の方から会いに来よう。その時はどうすればよい?」

「仮宮の戸口に布を巻いた杖を立てておいてくれれば、あたいの方から連絡する」

「分かった。ところで雀・・・」

「ん?」

「時折は水浴み、湯浴みをせよ。明日はここにこのまま居る。その間にどこか体を洗ってこい」

「やっぱり・・・」

雀は小碓を睨んだ。

「あたい、匂うんだ」

「さきほども言ったであろう。お前の匂いは懐かしく愛しい匂いじゃ、だが、これから往く先は清い場所じゃ」

小碓がそう答えると、

「分かったよ」

不承不承と言った風に雀は頷いた。やはり行き先は伊勢である。振り切ったつもりでも倭比売を憚るような小碓の言葉が雀には、どこか悔しい。


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