第11話 二人の太子
筑紫から纏向に戻って、初めて隼のもとにやってきた小碓は鍛錬をするでもなく、隼や雀に声を掛けるでもなかった。浮かぬ顔で剣を研ぎながら、時折手を止めて物思いに沈み込んでいる。見かねて雀が声を掛けた。
「どうしたんだ御子。元気がないな。久しぶりに鍛錬をせぬか?」
雀も倭比売が、自分たちが留守の間に伊勢に降って行ったということを聞いている。それが小碓の気持ちを沈み込ませているのも十分に分かっている。だからこそ精一杯明るい声を出して小碓を誘った。
「やめておけ、雀」
隼が制止した。
「なんでだよ」
唇を尖らせた雀を隼はじっと睨んだ。その眼には、放っておけと強く書いてある。
「わかったよ」
不貞腐れたように言うと、雀は足元の石を蹴った。
「つまんないの」
蹴ったその石の先に人が歩いてくるのが見えた。
「あ・・・」
眼を上げた先に立っていたのは瀟洒な出たちの若者であった。後ろにもう一人、これも若い男が寄り添うように立っている。
「これは、若帯日子命」
隼が慌てて跪くなり、やってきた男をぼうっと眺めている雀の首を抑えつけ平伏させた。
「わかたらし・・・?なんだそれ」
そう言いかけた雀は勢い余って地面についた口から砂をぺっと吐いて呻くと、兄の手を払いのけようともがいた。
「愚か者、日継の御子であらせられる」
隼の叱声に
「え?、あ・・・あ」
雀は抵抗をやめた。
「小碓命がこちらにおられると聞きまして」
若々しい声に剣を研いでいた小碓がゆっくりと首を上げた。
「おお、お兄様」
若帯日子が小碓を見て跪いた。その後ろを歩いてきた男も同じように膝をつく。小碓は微かに溜息をついた。
「大仰な、頭を上げて下さい」
その言葉を許しと思ったのか、頭を上げるなり小碓に近づくと若帯日子は嬉しそうにその手を取った。
「熊襲建を討ちとったそうでございますね。ぜひその時のお話を聞かせて下さいませ」
と言うなり後ろを振り向き、連れ立っていた男を手で招いた。そして
「この者は
と紹介をした。大倭根子日子国玖琉命とは今の帝の五代前、孝元天皇のことである。怜悧な目をした若者は若帯日子の紹介が終わると共に小碓に向かって再び深く頭を下げて礼を取った。ちらりとその男を見遣ると
「さして面白い話でもないが・・・。ここでも構わぬなら」
と小碓は答えた。
「ええ、構いませぬ」
若帯日子はきょろきょろとあたりを見回した。そして古びた木の板を見つけるとそそくさと手に取って埃を払い、よしと呟くと小碓の前に腰かけた。そして建内宿祢を手招いて横に座らせ、
「それでは最初から」
小碓を見つめたその目には邪気はなく、にこにこと笑って子供のように催促をする
磨いていた剣を袋に納めながら、奇妙な奴だ、と小碓は思っている。
日継の御子として、互いに争う立場にありながらこの若者にはそうした気色など微塵も見せない。こんな場末の汚れた板に腰を掛けるのも厭わない。
競い合う相手が功労を立てて戻ってきたならば誰でも嫉妬しそうなものなのに、心からわくわくして話を聞こうとしているその表情には一点の翳りさえ見当たらないのである。
この若者の母が帝に強く次の帝にこの若者を強く推していることは小碓も聞いている。若者自身もその事を知らぬわけでもあるまい。だが・・・。
「さあさ、早くお話ししてくださいな」
当の若者はきらきらとした眼で小碓を見つめてくる。
「ああ、分かった・・・」
小碓は二人の前に腰を下ろした。どうやらこの若者には大人の思惑など関係がないらしい。ごくりと若帯日子の喉が鳴り、真剣なまなざしは小碓に突き刺さって来るかのようである。
話を終えた頃には日もだいぶ傾いていた。若帯日子は熊襲を討ち取った時の話を詳しく聞きたがり、建内宿祢は建日別のみならず道中、とりわけ筑紫の土地の事情についていくつかの質問をした。
「さすが、お兄様。あの勇猛で知られた熊襲建を僅か二人で討ち取られるとは。その機略には感服しかございませぬ。わたくしもなろうことならそのような胆力と知略を持ちたいものでございます」
若帯日子の言葉に
「そうでもない。女のなりをして騙すなど、本当はしたくなかった」
小碓が素っ気なく答えると、
「いえ、それは知恵というものでございます」
と若帯日子は首を大げさに振って、
「お前も勇気のある娘だな。久米歌で合図するなど知恵も回る。女とはいえ、良い隼人となろう」
と小碓の横にいた雀まで持ち上げる。
「あたいは命じられて御子についていっただけだ」
雀は不機嫌そうに答え、それをまた隼に叱られると臍を曲げたようにそっぽを向いた。そんな雀の様子を面白そうに見つめていたが、
「ところで・・」
と若帯日子は小碓を振り向いた。
「ここにおる建内宿祢は面白いことを考えております」
そう言うと、建内宿祢を促した。
「はい、今日お話を伺わせていただいたのも西方の事情を知りたかったのでございます。実は今、この国の先の事を考えねばならぬときに至っております。先の帝、今の帝共に御子がたいへん多いのはご存じでございましょう?」
そう言うと建内宿祢は小碓を見つめた。小碓は頷いた。兄も同じようなことを言っていた。
「もちろん、御子が多いのは喜ばしいこと」
建内宿祢は続けた。
「ですが一方で蔵を見ればどんどん蓄えが減り、御倉がいくらあっても足りぬ状況でございます。それを慮りますと、畿内だけでなく広く西東をまつろわせ、この国を幾つかに分け、それぞれに御子や今までの帝の血族の中から気の利いたものを主として送り込む、そうしたことが必要かと考えております。そうすれば帝の血族が地方に広がるばかりでなく、その者たちの費えをそれぞれの場所で賄う事ができましょう。そのためにはそれぞれの境を定め、力のあるものには大きな領を、足りぬ者には小さな領をそれぞれ治めさせるのが宜しいかと。いずれそうした者たちは帝の恩恵を感じつつ、土地の有力な豪族と交わり国の礎を築くのに力となるのではないかと考えておるのです」
一気に言い終えると建内宿祢は反応を窺うように、もう一度小碓に目を据えた。
「なるほどな、そうすれば国のたからも、王たちの生活も逼迫することなく、王たちはそれぞれの土地で力を振るう事ができよう・・・また土地を与えられたことで帝に恩義も感じよう。だが、となるとその土地を今支配する者たちと争わねばならぬな」
小碓が言うと、建内宿祢は満面の笑みを浮かべた。
「そうでございます。もちろん力で抑えることも考えねばなりませぬ。しかしそれだけではなく、今我々が持っております色々な知恵を与え、土地からの取れ高を増やすことができれば靡いてくるものもございましょう。灌漑、堰などの治水、肥やし、農業道具の作り方・・・我々には地方にはない様々な技術がございます。それに相手が志高く帝を支えるような者たちであれば、先ほども申した通り血を混じらわせることによって、むしろ盤石な国の礎を築くこともできましょう」
小碓は感心した。
子の数が多いことを諫めるのに、兄のような愚かな行動をするのではなく、こんな風に解決する手があったのか。
「それで西の様子を聞きたがったわけか・・・」
「ええ、西は温暖な地。ここよりも作物が良く育つと聞いております。だとすれば西から物事を進めて行くのは賛を得やすいと思いまして」
確かに、西には豊かな稔りが広がっていた。だが、土地を十分に使い切っているかと言うとそうでもなく、見捨てられた耕作地も多かったように思う。とりわけ山間の川の近くは肥えた土地であるが、水が出て耕作地と共にそこで働く農民も浚って行ったという話も多かった。
「そんな事を考えたこともなかったが」
小碓は眩しそうに二人を見た。
「良い考えだと私も思う」
「ありがとうございます」
若帯日子は頬を染めて建内宿祢を見た。建内宿祢も強く頷いている。
「いずれ帝にも話してみようと考えています」
「そうだな、それが良かろう」
と言った小碓に、
「それで、その前にぜひ兄様にこの建内宿祢を引き合わせたいと思いまして」
と続けると若帯日子は、
「ぜひこの国を良くして参りましょう」
と熱を帯びた目で小碓の手を取った。小碓はびっくりしたように握られた手を見たが、うむ、と頷くと若帯日子の華奢な手を握り返した。
雀が不満気な目でそれを睨んでいる。
その夜、雀は夕餉を終えると外に出て一人星を眺めていた。蛍が飛び交う沼は、幼かった頃の雀の気に入りの場所であった。そこで、旅の間中小碓と一緒に眺めた星空を思い出している。
「雀、ここにいたか」
振り返ると隼が立っている。
「どうした、久しくここには来ていなかったではないか」
「そうだね」
こくりと雀が頷くと、隼は雀の横に腰を下ろした。
「お前ももう大人になったと思っていたが・・・」
「そうさ」
沼に目を戻した雀は素っ気なく答える。隼人はそんな雀を横目で見てしばらく黙っていたが、
「雀、旅の間に御子とは何もなかっただろうな」
と問うた。雀は、
「どういう事?」
と聞き返す。
「それは・・・、男と女が一緒に長旅をすれば心配もする」
雀は首を振った。
「そうか、それならばよい」
「なんでそんなことを聞く?」
雀は隼を振り向くと尋ねた。
「われらの役目を知っておろう?隼人は時の帝にのみお仕えする者。お前の今日の若帯日子に対する態度は誉められたものではない。あのお方もまた日継の御子としてわれらが守るべきお方になるかもしれぬ」
「わかってらい」
乱暴に答えると雀は手近なところにあった石を取ると水面に投げた。石は水を切って滑るように対岸へと向かっていく。水面の月影がその波で大きく揺れるのを眺めながら隼は静かに話し続けた。
「お前が小碓命をひいきしてのはわかるが、それとて己が役目を見失うようなことになっては困るからな」
釘を刺した隼に雀はぷっと頬を膨らませる。
「だから・・・あたいだって分かっているから。御子にも同じことを言われたよ」
「そうなのか」
隼は驚いたように雀を見た。
「あたいは御子の御側につきたいって言ったんだ。御子を最初に守る隼人になりたいって。だって、出雲でも建日別でもあたいはいつも御子の傍にいて一緒に戦ったんだ。もし一番になるとしたらあたいをおいて誰もいないじゃないか。でも御子はだめだといった。兄者の言ったのと同じ理由さ」
「そう・・・か」
隼は顎に手を遣って考え込んでいる。雀はそんな隼を見ると、ぽつりと呟いた。
「兄者のいう通り、あたいは御子のことを好きだったんだ。けど今は・・・」
「今は何だ?」
暫く黙って考えると雀は
「やっぱりなんでもない」
と首を振った。
以前、建日別への旅に出る前に小碓と抱き合った時のことを雀は思い出している。あの時、倭比売のかわりでもいい、といった雀に向かって小碓は、
「雀、お前は誰のかわりでもない。お前はお前自身だ」
そう言ったまま御子はずっと私を抱いていてくれた。その時の溢れるような喜びは男と女という枠を超えて、雀の心に染みわたっている。だけど、それを言葉にするのは難しい。難しいだけでなく、その気持ちを兄に知られるのが怖い。
「冷えるぞ、そろそろ家に戻ろう」
優し気に言った隼の言葉にうん、と頷くと雀は立ち上がった。蛍がゆらゆらと空を舞っている。
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