第10話 比売の決意

犬牙を仮の頭として、一味の中から健児こんでいを五十人選んで那津に送る手筈を整え終えると、小碓と雀は宮への帰途についた。二人は陸路で、建日別の健児たちは海路で那津へ向かい、そこで合流して筑紫の国司が調ととのえた船で瀬戸の海を越え、摂津から陸路で纏向へと向かうことにしたのである。

雀は纏向の宮で小碓に敗れたあの日以来どことなく女らしさを増し子供っぽさも抜けてきていたのだが、小碓と二人きりで帰る旅路ではまるで子供の頃に戻ったように目をきらきらさせて饒舌になっていた。

「やっぱり御子はすごいや、すごすぎてあたいは頭がおかしくなりそうだよ」

「いや、うまくいったのはあの時お前が久米歌を舞に選んだお陰だ」

雀が舞の曲に選んだ久米歌は、その昔、神倭伊波礼毗古命かむやまといはれびこのみこと、後に言う神武天皇が軍を率いて東征したとき、忍坂の土蜘蛛と呼ばれる民を討伐するにあたって歌われた、戦闘の合図の歌である。

久米の民が受け継いだその歌は帝に捧げられ、帝の守りを担う隼人達の間でもしばしば歌われることがあり、小碓や雀はその由来と意味を学んでいた。

「お陰で隙を見せずに討つことができた」

小碓の言葉に雀は酔ったように

「そうだよね、あたいもすごいよね・・・。ほんと、賢いんじゃないかしら。隼兄はいつもばかにするけど・・・・」

と続けたが、ふと真顔になって小碓をただした。

「でもさ、あの時のあたいたちと熊襲建の位置からすると、てっきり御子は弟の首を刎ねるのかと思ったんだけど・・・」

小碓は苦笑いをする。それはその通りである。だが、小碓の体を無体にも玩具のように触ってきた兄を、小碓は許せなかったのである。

「すまない。ついかっとしてしまった」

「でも、そのおかげで弟の方が観念して最後にあんなことを言ったから、誰も反抗しなくなったわけだし・・・倭建命なんて名前も・・・。かっこいい名前だよね」

雀の言葉はふわりと初夏の空気に消えていく。

小碓が選んだその一字が倭比売の名から取ったものだと雀も気付いているし、問われて倭男具那と名乗ったその事についても何も言わない。

「隼兄もあたいを認めてくれるかな」

と手をかざし、行く手を眺めるような素振りをする。

「もちろんだ」

小碓は力強く頷いた。

「そうしたら、兄者にお願いしよう」

雀は急に立ち止まると手を前に合わせて天を仰ぎ見た。

「何をだ?」

そんな女っぽい仕草をする雀を小碓は今まで見たことがなかった。小碓の物問いたげな視線から雀はすっと眼を逸らせ、

「雀はね・・・。あたいは御子をお守りする役目につきたいんだ。そりゃあ、御子は日継の御子の一人だし、放っておいても帝になると信じているけどさ。でも雀は御子をお守りする一番の者になりたいんだ」

そう言うと雀はぴょんと両脚で跳ねて小碓の顔を覗き込んだ。仕草は剽軽ひょうきんだが眼差しは真剣そのものである。小碓は微笑をうかべたが、静かに首を振った。

「・・・それはどうかな」

「なぜ?」

雀は小碓の衣の裾をつかんだ。

「なぜ?」

「それはお前たち隼人の役目は帝を、そして帝のみをお守りすることにあるからだ」

「でも・・・御子はきっと帝になるよ。こんな手柄も上げたんだしさ」

「そうとは限らぬ」

裾を握りしめたままの雀の手をゆっくりと解くと、小碓は続けた。

「昔から帝の座を争って、変がおきたものだ。当芸志美々命たぎしみみのみこと沙本毗古王さほびこのみこ・・・そうした争いを起こす者たちは常に帝の周りにおる近しい者たちだ。だから隼人は時の帝のみをお守りせねばならぬというきまりがある。もしも他の誰かを守るとしてもそれは帝の命による、一時的なものに過ぎない。その事をお前も散々叩き込まれてきたのだろう?もちろん、私は何があっても、帝になれなかろうとも帝を裏切るような真似をするつもりはない。だが、隼人は守る相手の選択をすることはできぬ。守るのは帝一人と決まっておる」

「いやだ」

雀はかぶりをふった。

「雀は御子を・・・御子だけを守りたい」

「わがままを言うな」

そう言うと小碓は優しく雀の手に自分の手を重ねた。

「だが雀がいつも味方でいてくれることを私は疑わぬ」

小碓の手は大きい。雀はその大きな掌から自分の掌に伝ってくる暖かみを暫くの間感じていた。やがて

「うん、分かったよ」

小碓の眼を見返すと雀は頷いた。


小碓の帰還は、纏向で大きな驚きを以って迎えられた。

出雲へ向かった時と違い、小碓は秘密のうちに出立したというわけではない。しかし供に小娘一人だけを連れ、旅立っていったのを知る者は、小碓は帝に疎まれたことを悟り日継の御子の座をなげうってその娘と共にどこかでひっそりと生きることを選んだのであろうと、陰で囁きあっていた。その上、一緒に連れて行った娘が出雲建を滅ぼした時に連れて行った娘だと知る者は、なるほどその時にもう二人はそういう間柄だったのだろう、などと邪推していたのである。

だがそれから三月も経たぬうちに首のかわりに熊襲建兄弟のびんいで持ち帰り、熊襲建数十人を船で率いて覆奏かへりごとを願い出たと聞いて慌てふためく者たちが続出した。

小碓が去れば、次の帝は若帯日子で決まりであろうと、裏で動き始めていた者たちである。だが長い間まつらおうとしなかった熊襲建を、出雲建に次いでたった一人で平らげたとなれば次の帝に相応しいのは小碓だと誰もが考えざるを得ない。

それまで次の帝に取り入ろうと密かに財物や人を八坂入日比売や若帯日子に捧げていた動きがふっと止まったのは人の心の浅ましさ故であろう。

帝は小碓が戻ったと聞いて、一瞬複雑な表情をしたが、以前から心を悩ませていた熊襲建を討ち取ったと聞くと喜びを隠そうとしなかった。前に召してその一部始終を小碓の口から直に報告を受けると、

「よくぞしてのけた」

と褒め称えたのである。

「捕えた者たちは隼人につけることにせよ。さぞかし強い兵になるに違いあるまい。お前には褒美をとらせよう。何か望みはあるか?」

そう尋ねた帝に小碓は、

「お願い事がございます」

と、平伏した。

「倭比売を私の妻に・・・ぎとうございます」

「ん?」

目をさっと上げた帝は、じまじと小碓を見つめた。

「まさか、そのような・・・。しかし、それはできぬぞ。倭比売は先の月、天照大御神をかこつけたのだ。豊鉏入日比売命とよすきいりひめのみことが齢をお取りになられたので、その代わりとしてすでに伊勢の斎宮に降っておる」

「え?なんと」

小碓は衝撃のあまり思わず帝ににじりよった。

帝は一瞬怯えたように腕で防ぐような姿勢になったがその姿を見ている者は誰もいない。

「控えよ」

帝の放った叱声に肩を落として再び平伏した小碓に帝は尋ねた。

「倭から聞いておらなかったのか?自分からお前に告げると言っておったのだが・・・」


小碓から熊襲建の征討に行くと告げられたその日の夜、倭比売は物思いに耽りながら飽くことなく月を眺めていた。

兵も碌に持たずに無謀な旅に出る甥の身を気遣う気持ちも勿論あったが、それよりも倭比売の心を占めていたのは小碓が最後に言った言葉である。

「私は帝の許しを得て、妻を娶ります・・・。そのお相手は私の欲する通り」

とあの子は言った。あの子・・・いや、今は眩いばかりの男である。小碓が言った言葉の意味も分かっている。その言葉に・・・私は・・・、思わず頷いてしまった。

「あの月に暮らすことができたなら・・」

心のうちで呟いた倭比売の目に浮かぶのは小碓と二人の間に生まれた子供と野で遊ぶ風景である。一緒に戯れている子供は小碓の幼い頃に生き写しの姿である。そのような事が、

「叶うはずがない・・・」

と思いながら月を眺めている。もし、小碓が命を全うすることなく帰ってくることができねば死ぬほど悲しいに違いない。でも、戻ってきたら・・・。

それを想像するのも恐ろしい。私は再び頷いてしまうかもしれない。許されるはずもないのに。

「どうなされました、姫」

槿あさがおという名の老女が心配そうに姫の側に寄ってきた。

「先ほどからお月様ばかりご覧になって。冷えて体に毒でございますよ」

ゆっくりと振り向くと倭比売は悲しそうに微笑んだ。

「槿、月には別の世界があるのかしら?そこにも人は住んでいるのかしら」

「さ、どうでございましょう」

ちらりと下弦の月を見ると、下婢を呼んで持たせた綾織りを、姫の肩に、さあさ、と言いつつ掛けながら槿は、

「何分、遠いところでございますからねぇ。ばばには想像もつきませぬ」

と応えた。

「そうですね」

頷くと倭比売は再び月を見遣った。槿は中に入ろうとしない倭比売に溜息を一つ吐くと、諦めたかのように宮中の世間話を始めた。

「遠いと申しますれば・・・どうやら伊勢の斎宮様が交替になるようでございますよ。伊勢も遠くございます。婆も一度だけ、先の帝の御幸みゆきにお供いたしましたが、山を越え、谷を渡り、それはもう大変でございました」

「それは本当ですか?」

驚いたように振り向いた主人から放たれた問いに、老女は何度も頷くと

「ええ、本当に大変でございます。でも着けば大層よいところでございますよ。海は綺麗でございますし、食べ物も大変おいしゅうございました」

と懐かしむように答えた。

「槿、私の尋ねたのは斎宮様の交替のことです」

あら、と老女は口に手を当てると恥ずかしそうに笑い、ええ、とうべなった。

「今の斎宮様はこの婆と同じ年に生まれたのでございますからね、もうお役目も十分果たされたということでございましょう。これからはゆっくりお過ごしになられることができればよろしゅうございます」

「そうですね。・・・で、どなたが代わりに?」

「それが、どうも石衝毗売命のようでございますよ。姫の所に内意があったと、おつきの者から聞きました」

「そうなのですか・・・」

石衝毗売は倭比売の妹であるが別の腹から生まれた子で深いつきあいはない。だが、いつもころころと明るく笑っている娘だと知っている。

「姫様はそのお話を聞いてすっかりふさぎ込んでしまわれたとのことでございますよ。見知らぬところでございましょう?ごもっともなことでございます。それに昔と違って今は伊勢に行くのも難しゅうございますよ。途中に無頼者たちが住み着いて、下手に通ろうとすればそこで命を落とされてしまうかもしれぬとも聞いております」

「そうですか・・・」

そう呟いた倭比売は一瞬遠い目つきをしてから、微笑みを浮かべた。

「ならば私が代わりに参りましょう。出雲へ下ることを課され、それを否んだこの身であれば」

「は?」

槿はあっけにとられて倭比売を見つめている。


翌日、倭比売は朝の御食が済んだ頃に帝に直の拝謁を願い出た。

「いかがした、ぎ妹よ?」

帝は機嫌が良いらしく、にこにこと妹を見つめた。

「召したのに朝餉に出て来ぬので心配したぞ。どこかまた体の調子でも悪いのか?」

「いえ。ですが、たってお兄様にお願いしたいことがございます」

いつもと違う倭比売の一途な様子に帝は首を傾げたがにっこりとすると

「そうか、そろそろお前の身のことも考えねばなるまいな。いつまでも私のもとに置いておくこともなるまい。誰か良い男でもいるのか?だが、遠くの者はだめだぞ。お前はいつまでも私の近くにいて貰わねばならぬ」

一度は出雲へと比売を遣ろうとした帝はその時のことに罪悪感を覚えているのか、以来帝は殊更に倭比売を気遣って心を尽くして可愛がっている。だがその帝の言葉を聞いても倭比売の心は変わらなかった。決然とした面持ちで

「伊勢の斎宮様を替えるとのお話を聞いております」

と問うた妹に

「む?・・・確かにその事は考えておるが」

帝は難しい顔になった。

石衝毗売がそれを苦にして食事も喉を通らなくなったと聞いているのである。暫く叔母に勤め続けて頂かねばならないかもしれぬ、と考え始めたところであった。

「その斎宮に私はなりとうございます」

「なんと・・・・?」

帝は驚いたように目の前にいる妹を凝視した。

「しかし・・・」

「斎宮にして頂けないのであれば私に死を賜りとうございます」

「ばかな・・・」

帝は先ほどまでの機嫌のよさはどこへやら、吐き捨てるように呟いた。

「さようなことはなるまい」

そう言うと帝は立ち上がった。

「是が非でも・・・もしお願いも聞いて頂けず、死も賜れないとしたなら、私は・・・ひとりで決めねばなりませぬ」

いつもなら一言いえば素直に引き下がるのだが、この時ばかりはすがるように頼んでくる倭比売を見て帝はその決意のほどを悟らざるを得なかった。出雲建に嫁がぬかと聞いた時と同じで、普段素直な妹は一旦、引かぬときめたら梃子でも動かない意志の強さを、優し気な体のどこかに備えている。

ひとりで決めるという事は自死も憚らないという事であろう。下手をすれば妹二人を一度に失いかねぬ。だが、倭比売の願いを受け入れれば・・・憂いは一挙に消える。帝は額に皺を寄せ再び倭比売を凝視した。


「だから許したのだ。そうか、そういうことであったか・・・」

小碓の瞳から決意と希望の色がみるみる失われて行くのを見てその変容を憐れむように、しかし厳かに帝は言葉を紡いだ。

「それにたとえ、伊勢に降らなかったとしても、あれはわしと同じ腹の妹だ。許すことはできぬ」

甥と叔母の関係で夫婦になるものは多くはないが、ないとは言えない。しかし、その場合血縁関係の薄い別の腹から生まれた相手となるのが通例である。

小碓もそれが障りになると考えた。だからこそ、帝の命ずるままに寡兵で熊襲建を討ち、それを手に無理を通そうと考えたのである。

しかし、倭比売はそれを悟って身を引いたのだ。

万一、小碓が無理を通せば帝の機嫌を損なうばかりか、日継の御子としての立場も危うくなるに違いない。一度、寵愛を受けたものがそれを失ったとき、世間がその者をどう扱うか、宮中という場にいる者たちは嫌というほど知っている。倭比売もその一人であった。

伊勢斎宮は天照大御神を託ける以上、生娘でなくてはならず、まして結婚など許されない立場である。もし自分が他の男に嫁げば小碓は傷つくかもしれない。憎悪も生まれるかもしれない。その憎悪が思わぬ事態を招くかもしれない。

だが斎宮となれば・・・。

身の置き所を失いつつあった倭比売は有無を言わさない形で小碓の手の届かない場所へと去っていったのである。

打ちひしがれ、跪いたまま動かない小碓に帝は優しく声を掛けた。

「少し体を労わっておれ。そうだ、石衝毗売をお前につけよう。本来、あれを伊勢の斎宮にと考えておったのだが、あれに身の回りの世話をしてもらえばよい」

石衝毗売も小碓の叔母であるが、別腹である。歳も倭比売より五つも若い。それならば何も問題はない。

だが、帝の声は呆然としたままの小碓の耳に届いていなかった。


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