第7話 兄の嫉妬

「やっぱりあたいの思った通りだ。小碓はすごい男なんだよ。帝もそれをお認めになったのさ」

日継の御子として三人の候補が告げられた日から数えて十日の後のことである。

はしゃいでいる雀の横で、小碓は真剣な眼差しで剣を研いでいる。帝から賜ったもとからの剣を磨き終えると、次に出雲建の首を斬った剣を研ぎ始めた。出雲建と鹿目連を斬った時についた血の曇りは既にきれいに落としてある。

賜った剣は飾りの剣、奪った剣は戦いの剣として使うことを小碓は決めている。出雲の鋼は良く切れる。首領を失って纏まりを失った出雲に小碓はすぐさま兵を送り、散り散りに賊が逃げていった出雲建の家の倉から剣を押収させると、すべての剣を試してみた。どれも良く切れるが出雲建の持っていた剣ほど斬れるものはどれ一つとしてなかった。それでも十分使えるものばかりである。

そこで小刀を二本だけ自分のものとし、残りは帝に献上した。献上した剣は隼人へと下され隼にも渡っている。自分のものとした小刀のうち、一本は雀に褒美として渡してある。

剣を陽の光に翳し、目を眇めて研ぎ具合を確かめている小碓の向かいで隼は、これもまた静かに、稲わらで草鞋わらじを丹念に編んでいる。そうした作業をする時、隼は無表情になり、誰も寄せ付けないような雰囲気を醸し出す。今もそうであった。

無言で自分の言葉を聞き流している二人の男に、遂に雀が癇癪かんしゃくを爆発させた。

「なんだよ、つまらない。せっかく御子が太子になったのに、ふたりとも仏頂面をしやがって。少しは喜ばないのかよ?」

「静かにしていろ」

小碓が磨き上げた剣を収めながらそう応じた。

「それよりも御子、日継の候補の御一人となったからには、もはやこのような所へおひとりで来るのはいかがなものか、と」

隼は草鞋を編む手を休めると、いつもの穏やかな表情に戻り、静かな口調でそう言った。

確かに日継の御子の一人と告げられてからというもの、行事の作法やら蔵の検めやら何やかやで時間を取られ、隼のもとに来る時間がなかった。鹿目連の置戸は小碓のものとして下賜され、それを検めるのにも結構な時間を費やしている。。

動く時は居所も知らせておかねばならない。隼の所へ行くと告げると皆に怪訝な顔をされたのも事実だった。帝でもないのに隼人を訪ねるのはいかがなものか、と諫める声もあったが帝の特別の許しを得て漸く来ることができたのである。

「え、そうなの?日継の御子になったら自由に出歩けないという法でもあるのか」

雀が慌てた口調で遮った。

「なら、日継の御子なんて、やめちゃえ・・・・と。え、でもそうすると御子が帝になれないし・・・」

うーんと唸っている雀に、

「お前は本当に雀のようにうるさいな」

小碓は磨き上げた剣の先を向けた。

「ひえ、危ないじゃないか」

雀は慌てて飛びのく。

「日継の御子となられた以上、お妃となるお方も決めませんとなりませぬな」

隼の言葉に、

「ほんとうか?なんでだ。妃なんてまだ早いよ。なんだよそれ、日継の御子ってそんなに面倒なものなのかよ」

雀は飛びのいた先でもぴーちくぱーちくさえずっている。

「妃か・・・」

剣を置くと、小碓は昨日の事を思い返している。

様々なことがあって漸く、その日の朝、小碓は昔のように倭比売の所へと一人赴くことができた。

「叔母さま・・・」

そう声を掛けると倭比売は美しい顔に笑みを浮かべて小碓を指し招くと、

「もう私を母とは呼んでくれないのですね。でも・・・もうあなたには母は必要ないのでしょう」

そう言った叔母の側にそっと小碓が寄ると、

「小碓。もしやあなたは私のために出雲へと?」

と小声で叔母は尋ねた。小碓は暫くその顔をじっとみつめ、小さく頷いた。

「そのような危ない真似を、私のためになどしてはなりませぬ」

少し睨みつけると、叔母は小碓の手を引いて昔のように抱きしめた。

「ああ、小碓、小碓。愛しい子」

されるがまま叔母の体に寄り添った小碓だったが、その体に今までなかった異変が起きた。叔母に抱かれた途端に下腹部が熱くなり、柔らかかった場所が急に固く叔母の腿に突き当たったのである。抱きしめた倭比売もそれを感じたのか、体を離すと真っ赤な顔をして

「まあ、小碓、あなたも大人になったのですね。ならばきちんと妃を貰い、子供をたくさん成しなさい。それが日継の御子の務めの一つですよ」

と諭した。

「私は・・・私は・・・」

小碓は手を差し伸べて叔母の白く細い手を取ろうとした。

「小碓、おやめなさい」

叔母は手を引くと、ぴしりと言った。

「さあ、もう下がりなさい。これが私の最後の命令です。あなたは日継の御子になられるのだから、私にはもうあなたに命令することなどできませぬからね」

そう言って背を向けた倭比売に、

「わかりました」

項垂れたまま小碓は倭比売の部屋を後にしたのだった。

あれは何だったのだ?

それまで母と慕っていた倭比売に突然抱いた華のような情熱は、いったい何だったのだろう。

その時こそ恥ずかしさで顔が火照ったのであるが、後になって考えれば考えるほどその答えははっきり形を成してきた。出雲建を成敗した時、これで叔母はこの下劣な男のものにならないのだ、と強く思った。それと同時に守った叔母はもはや自分のものだと強く思ったのである。自分のものだ、というのは母としてではない。

女として、である。


「何を考えておる」

いつの間にか側に寄ってきた雀が小碓を覗き込むと首を傾げた。

「何かいやらしいことを考えておるな?顔が赤いぞ」

「ばかな」

眼を逸らせると、小碓は面倒くさそうに頭を振った。雀は小碓の心を読むのがひどくうまい。小碓も小碓でこの小娘に思いを読まれそうになると心を隠すのが癖になっている。

「本当か?冬の野猿のように真っ赤な顔をしておるぞ」

雀の言葉にめんどくさそうに顔を背けると

「帝に命じられたことを考えておるのだ」

小碓には倭比売とのこと以外に思い悩むことがもう一つあった。兄、大碓に関することである。

大碓は日継の御子が定まったその日以来、朝夕の御食に出て来なくなったのである。御食みけとは帝の家の主だった者たちが一緒に取る食事である。成人の男は必ず、女は帝の求めに応じて共に食事をとるのが習わしであった。子供の中でもっとも年長の大碓がその習わしを無視するというのは許されることではなかった。

弟が日継の御子の一人に選ばれ、自分が除かれたのが気に食わないのだろう。だが、そのような憂き目に遭ったのは大碓自身の責任である、と小碓は考えている。三野の姫二人を偽って自分のものにしたという事は小碓も聞き及んでいた。そのような事をしておきながら、日継の御子の候補から除かれ不貞腐れているなど許されることではない。

兄には帝を非難する資格などいささかもない、と憤りを感じている。だがその小碓に帝は、今朝

「なぜ、お前の兄は朝夕の御食みけに出てこないのだ。お前からねぎさとせ」

と命じたのであった。「ねぎさとせ」の「ねぎ」とは「ねぎらう」という言葉にあるように、労われという言葉である。気を使いつつ説諭せよとの思召しであった。兄の肩を持つつもりは些かも持ち合わせない小碓は、帝の言葉に唖然とした。

帝は帝で兄に気を遣っているらしい。年長の者が日継の御子の候補にすらなれなかった恨みを気にしているのだろう。

だが、小碓は

「何もねぎさとすことなどない。帝はなぜ自らお叱りにならぬのか。兄の恨みは帝一人に向いているのではない。むしろ私に向いているに違いあるまい。その私にねぎさとせとはどういうことか」

と怒りすら覚えている。自分の女を盗まれてただただ、困惑しておられる帝も帝、その事で宮中の一部の者たちに笑いものになっていることをお知りにならぬわけでもあるまい。そう思いつつ、不服そうに頷いただけである。仕方ない、と呟くと小碓は立ち上がった。

「また来る。今日はちょっと別の用事があってな」

そう言い残して磨いたばかりの剣を手に取ると小碓は隼のもとを後にした。

雀は急に出ていった小碓を追って小屋の外に出たが、やがてしょんぼりと戻ってきた。小碓に相手にされなかったらしい。溜息を一つ吐き出すと

「なんだか変なの。せっかく日継の御子になったのに、なんだかちっとも嬉しそうじゃないし。いったい御子はどうしたのかな?」

と兄に尋ねた。隼は草鞋に余った稲わらを手にしたまま、

「うむ・・・。日継の御子として選ばれるなら、おひとりの方が望ましかった。こんなことになるなら、むしろ選ばれなかった方が良かったのかもしれぬ」

と答えた。

「なんでだよ?」

首を傾げた雀に、

「いずれ分かるであろう」

と作り上げたばかりの草鞋に目を落とすと隼は不愛想に答えただけである。


小碓は兄の家の一室で兄を待っている。

昼過ぎからずっと待っているのだが、もうそろそろ陽が落ちる頃合いである。木の影が長く伸びて小碓にかかり、その表情は分明ではない。

何度か湯を持った女が小碓のもとにそれを届けたが手を付けないので、ついに見かねたのか女が、

「お召しあがりにならないのですか?」

と尋ねてきた。ん、と部屋に入って初めて声を発した小碓の目に映ったのは見慣れぬ顔の女である。

「もしや、汝は三野から参った女か?」

小碓の問いに

「はい、さようでございます」

と女が答えた。

「二人と聞いたが」

「はい、お姉さまと私の二人でございます」

「名は何と申される?」

「遠子と申します」

言葉がどこか田舎臭いが、美しい中にどこか愛嬌のある顔つきである。

「帝に召されたのではないのか?」

「はい、そのように伺っておりました。ですが・・・」

大碓は二人に向かって、帝には既に十人を超える妃がおり今さら仕えても不幸になるだけだとかき口説いただけではなく、その日のうちに女のもとを訪れ自分のものにしてしまったのだと、その娘は語った。それなりに女らしい恥じらいはみせるのだが、ずいぶんとあけすけな物言いである。小碓はその率直さにむしろ好感を抱いた。宮の中ではこのような物言いをする娘はいない。

湯を運ぶなど端女はしためのするようなことをなぜなさる、と小碓が尋ねると、

吾背あがせの弟君と伺いましたので、どのようなお方かと」

と頬を染めた。

「随分と勇敢でお強いお方と伺っております」

とそれだけ言うと、

「ですが」

と面をただして、

「私の素性をあなた様がご存知という事は、帝もご存じということでございますね」

と聞いてきた。うむ、と頷いた小碓に

「では、吾背にお咎めを?」

と尋ねた女に

「今日来たのはそのことではない。だが、お前たちはどうなのだ。帝にお仕えする気がまだあるならばとりなしてもいいが」

と聞き返した。女は少し考えると、

「今さら帝のもとにお仕えすることなど・・・。それに吾背は私たちを大切にしてくれます。朝夕もお忙しいでしょうに私たちと一緒に食事をなさってくれます」

と答えた。

「そうか。今日はもう遅い。また来よう」

そう言って立ち上がった小碓に向かって、

「吾背の・・・命だけはお助けを」

と女はすがるように言った。小碓は冷ややかな目付きで女を見たが、すっと女から目を逸らすと何も言わずに立ち去った。

何という愚かな、と小碓は帰る道すがら女の事を心の裡で罵っている。帝に仕えるべき身で遣いの者に身を許し、その上自らを犯した男の命乞いまでするとは・・・。そう思いつつ、どこか女の哀れを小碓は汲んでいる。あの叔母でさえ・・・一度は帝の命で見知らぬ土地へと赴かされようとした。女に自由はない。ならば女にしてやれることは・・・。このまま放置すれば兄はつけあがり、やがて帝と抜き差しならぬことになるであろう・・・。


翌朝、まだ日が昇らぬうちに起きだすと、小碓は兄の家の横にあるかはやの近くに潜んでいた。

あたりが明るくなる頃、大碓が厠にやってきた。ひとつ伸びをした大碓がのっそりと厠へ入ったのを見て、小碓は隠れていた場所から姿を現した。暫くして用を足した厠から出てきた大碓は小碓の姿を見るとぎょっとしたように立ち竦んだが、

「これは、これは、日継の御子とあろうものが、朝早くからこんなところにお出ましとは」

嘲るように言い放った。その兄に向かって膝を屈すると小碓は丁寧な口調で、

「昨日お目にかかろうとしたのですが、叶いませんでしたので参上したのでございます」

と答えた。

「何の用だ」

大碓は唾を吐くかのように尋ねた。

「帝からの言伝がございましたのでお伝えに参りました。ですが、その前に一つ、お尋ねしたいことがございます」

大碓は良いとも悪いとも言わずに小碓を見つめている。

「以前、兄者は帝が新たに女を召し上げるのを非難されていた。三野の姫たちをお奪いになられたのは、その為なのですか?」

大碓は、なんだそんなことかとでもいうように

「そうだ、何が悪い。これ以上帝に后など不要だ。これ以上の兄弟王もいらぬ。そうであろう?日継の御子となったお前にはなおさらだ」

というと、ぽんと手を叩いた

「そうよ、これこそ日継の御子に選ばれたお前への兄からの贈り物じゃ。余計な子はもう産まれぬぞ。渡した女たちとの間に子が出来ようと、それは到底帝になれぬ、あれらはそうした血筋の女たちじゃ」

せせら笑うように続け、不意に激したように

「つまらんことになったものじゃ。お前ごときに越されるとは」

と声の調子を上げた。その激越な口調に辺りで地面をついばんでいた雀たちが驚いたように空に翔けあがる。黙ったままの小碓に兄は言葉を継いだ。

「それにしてもこんな時間に厠の前で待ち伏せするとは無礼で卑怯ではないか。出雲建を討った時も卑怯な手を使ったと聞いておるが、そのような者を日継の御子とするとはな、帝も目が曇られたか」

兄の挑発に顔色を変えることもなく、

「帝から朝夕の御食におでましになるように、とねぎさとすようにとのお言葉でございます。今日からでも・・・」

小碓の言葉を聞いた大碓の顔色が青く変わった。遮るように手を振ると、

「ねぎさとす、だと?諭すとはなんだ」

怒声を発して大碓は小碓に詰め寄った。

「諭すとは弟が兄に使う言葉か?」

言うなり大碓は小碓の頬を手で叩いた。血の味が小碓の口中に広がった。小碓は血を吐き出すと

「さほど、諭されるのがお嫌なら、では、ねぎてだけさしあげよう」

そう言って小碓は自分を叩いたばかりの兄の手をむんずと掴んだ。

「ねぐ」と言う言葉には「いたわる」という意味以外に卑俗な意味合いがある。隼や雀と訓練で戦う時に、

「そこだ、ねぎてしまえ」

などと使う。平たく言えばのしてしまえ、という意味である。

体は大碓の方が大きいのだが、逃れようとしても小碓に掴まれた手は微動だにしない。

「何をする」

大碓の顔に恐怖の色が浮かんだ。

「だからねぎて差し上げると言っている」

冷たい声と共に小碓が取った大碓の腕を捻ると同時に脚の腱を切り放った。朝の静寂をつんざくような悲鳴が破った。

ぐったりと地面に横たわっている大碓に菰を被せると、

「三野の姫が哀れだから生かしてはおきましょう。せめてあの者たちを幸せになさるが宜しい。だが、以降慎みなされ。帝にも、日継の御子にも・・・」

そう言い放つと小碓は立ち去った。大碓の悲鳴に驚いた家の者たちががさがさと起き始める音がしている。


「汝の兄はどうしたのだ?今日にいたるまでなぜ参り来ぬ」

帝が小碓に尋ねたのはそれから三日経っての朝の御食の席の後であった。

「ねぎさとせと申したではないか。なぜ大碓は参り来ぬ。それどころか大碓はあれ以来、御食ならず一度も顔を見せぬ」

帝の言葉にはいら立ちが籠っている。そのいらだちは自分の言う事を聞こうとしない小碓にも向けられている。だが、小碓は平然として答えた。

「ねぎさとそうと致しましたが、諭すという言葉がお嫌とのことで、代わりにねぎて参りました」

帝は小首を傾げた。

「ねぎた?それはどういうことだ」

「家に行ったのですが、居留守を使って会えませんでした。そこで朝、厠で待ち構えて手を拉ぎ、脚を折ってこもに包んで放っておきました。ねぐというのはそういうことでございます」

「なんと・・・」

小碓を呆然と見つめた帝は、その小碓の眼が、

「それこそが帝のなされたかったことではございませぬか?」と語り掛けているように思えた。

心の裡の密かな場所に隠していた自分の思いを読まれたような気がして帝は思わず小碓から目を逸らした。


大碓がなんとか立てるようになったのは一月後の事である。立てるようにはなったが、まっすぐに歩くこともできねば、肩より上に腕を上げることもできない。三野の姫たちは田舎育ちの義理堅さからか、大碓の不幸が自分たちに起因しているとでも思っているのか、大碓を見棄てることもなく甲斐甲斐しく介抱しているらしい。

大碓自身は弟にそんな目に遭わされたのを恥じたのか、帝の女を奪ったことを咎められるのが怖いのか、気力を失ったまま家に引き籠っている。そう聞いて帝は内心、ほっとした。大碓と小碓が事を構えれば面倒なことになる。その原因が自分の処置にあるとすればなおさらである。

と、同時に帝は恐れている。何を恐れているかといえば、あの時の小碓の眼である。

小碓がしたことは実は帝自身の心にもなかったとは言えない。帝を蔑ろにした罰を何か与えねばならぬと考えたが、それを明らかにすれば息子に与えられるのは死罪である。だからこそ、わしは慈悲の心で大碓を赦そうと思ったのだ・・・。

と、ここまで考えて帝は果たしてそうだったのかと自問せざるを得ない。私は単に事を大きくしたくなかったのではないか?

その弛んだ自分の心を小碓の眼は見抜いていたような気がする。罪は罪、罪を見ぬことにして許せば相手は増長するばかり、とその眼は叱咤していたような気がする。

その剛直な心に、いかな父とは言え、そこはかとなく反感が芽生えるのも致し方ない。例え小碓のいう事が正しいとしても、である。

まして帝として、父として自分は叱咤される立場にはない筈だ、と帝は苦い思いを抱いている。その帝の揺れる心を八坂入日比売も見抜いていた。

「実の兄まであのような眼に遭わせるお方でございます。帝がしっかりしておられるときはともかく、何かございましたら他のお二人の日継の御子がどのような目にあわされるか・・・。いえ、私は自分の子ばかりを心配しているというわけではございませぬよ、帝の全ての御子がそのような危険に晒されているのでございます」

事あるたびにまくし立てる后の言葉に只でさえ揺れている帝の心はさらに大きく揺り動かされている。


帝が小碓を呼んだのはそれから暫く後のことである。目の前に這いつくばり礼を取った小碓に厳しい声で帝は命じた。

「小碓命、その方、西の方建日別たてひわけすなわち熊襲くまその国を知っておろう。そここそは、迩々芸命が葦原中国、この倭に降臨なさった時に最初に治められた地。だが今そこにまつろわず、礼を知らぬ者たちがおる。それは熊襲建と称しておる者。小碓命、この者たちを滅ぼしてまいれ」

は、と這いつくばったまま小碓はうべなった。だが帝の次の言葉を聞いて小碓は一瞬目を上げ、驚いたように帝をみつめた。

「しかし、軍衆を率いていけば長い道のり、敵も迎え撃つために大きな戦になる。以前、出雲建を滅ぼした時のように機略を用いて滅ぼして参るのだ。連れ往くものは十人を越えてはならぬ」

無茶な話である。

熊襲建の話は出雲建からも聞いたことがある。出雲建が兵を興したなら、それに呼応して西の方で兵を興す手はずになっていた相方が熊襲建である。出雲建が滅ぼされた時の詳細は熊襲建にも届いている筈で同じ手は使えない。

小碓は再び顔を伏せた。

暫くは無言のままであったが、やがてそのまま顔を上げることもなく落ち着いた声で

「承知つかまりました。但し、連れ往くものは自ら選ばせていただきたく、お許しがあるということであれば」

と答えた。

「うむ、良かろう」

帝は答えた。

「では、一人、帝のお傍をお守りする者でございますが・・・」

と小碓がその者の名を上げると、帝は妙な顔つきになって、

「その者一人で良いのか?しかも女とは」

と小碓に問うた。

「はい、それで宜しゅうございます」

小碓の言葉に

「ならば・・・良かろう」

そう許しを与えたものの、帝は不審気な表情のままであった。


その日の午後、小碓の姿は隼と雀と共にある。

「難しい話となりましたな」

隼は話を聞き終えるとむっつりとした顔で言った。

「だが、私には策がある」

小碓は平然とした口調で答えた。

「どのような?」

隼は御子を見つめた。その視線をまっすぐに見据えると小碓は

「その前に・・・、隼、一つ願いを聞いてくれ。熊襲建を征伐にするにあたって雀を借りたい」

と頭を下げた。

「雀は本来、帝をお守りすべき隼人の一人だが、帝からは同行させるお許しをいただいている」

「え、あたいかい?」

雀は喜色満面で答えた。

「喜んで行くよ。他に誰が行くんだ。残りは九人だな」

と指を折った雀に向かって、

「いや、お前だけだ」

と小碓は淡々と続けた。

「ほんとうかい?あたいだけ?」

雀は目を丸くしている。その横で隼が眉を顰めて小碓を見つめるとおもむろに口を開いた。

「十人と数を限られたとしても他に連れて行った方が宜しいのではないか?なんなら私も」

「いや・・・」

小碓はあっさりと手を振った。

「ただし、命懸けになる。雀、それでもついて来てくれるか?」

「もちろんだい」

雀は飛び跳ねながら答えた。

「ですが、日継の御子・・・」

隼は眉をひそめた。

「いくら何でも雀だけでは心許ない」

「いや、むしろ隼のような強そうな男がついてきてもらっては困るのだ、というのは・・・」

小碓が策と言うものを話し始めると最初は無言で聞いていた隼の眼が次第に光を帯びてきた。そして最後に、

「なるほど、確かに先方に千を超える兵が取り囲んでいるという噂が本当だとすれば、僅かな兵で互角に戦うには・・・その手しかないかもしれませんな」

と頷いたのである。

「御子は賢いな。どうやってそんなことを思いつくんだ?」

雀は目をきらきらと輝かせて小碓を見上げた。雀と同じ位だった小碓の背はいつの間にか頭一つ分ほど雀を抜いている。

「窮まれば、人は色々と考えるものだ。先だって隼が教えてくれた通り・・・ところで、隼」

「は」

「私は父に憎まれているのかな?」

あっさりとした小碓の物言いに、沈黙が場を支配した。

「日継の御子を仰せつけってはいるが、一方で僅か十の兵でまつろわぬ者を討伐せよとお命じになる。嘗てそのような日継の御子がいただろうか?」

隼は暫く目を瞑って考えていたが

「古に迩々芸命は五伴緒いつとものを五柱いつはしらの神を引き連れて葦原中国に降り立たれたとの話がございます。その降り立たれた地もまさに筑紫の国。帝が許された十とはその数字と同じ、帝はその数をお考えになられたのでは」

そう答えた。

「そうか」

小碓は頷いた。

「御子のお力を帝は信じておられるのでございましょう」

隼は言葉を重ねた。

「そうに決まっている」

雀が叫ぶと、

「御子、鍛錬をせねば」

と小碓の手を引っ張った。

「分かった。まだお前に碌々勝ったこともないのに、熊襲建を殺すというのも難しかろう」

雀の手に引かれ小屋を出ていく小碓の背後で隼は二人の後姿を見つめていた。

その瞳に深い憂いの色が浮かんでいる。


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