第6話 帝の嘆息

「あのような狼藉を働いた者を日継の御子にするなどと・・・」

青白い顔の震えた細い唇の間から、

「もってのほかでございます」

と絹を切り裂くような声が続いた。叫び声が聞こえて来るのは他でもない、帝の間からである。そこで目を吊り上げ甲高い声で帝を責めているのは皇后の八坂入日比売であった。

「お気は確かでございますか?あの者は宮を血で穢した者でございますよ。ああ、なんと恐ろしい」

その時の情景を思い出したのか、后は声を震わせ突っ伏した。

「しかし、小碓はきたない心を持った出雲建をわずか一人で成敗し、それに繋がるものに罪を与えたのだ。良しとすべきであろう」

帝は宥めるように后の肩に手を置いたが、后はそれを振り払うように身を捩った。

「いえ、それにも仕様というものがございます。その仕様の在り方こそ帝とそうでないものを分ける大切な資質。日継の御子たるべきものがあのような仕様をするべきではございませぬ」

「いや、別にあの者を日継の御子にと決めておるわけではない。その資格のあるものの一人と・・・」

帝は困惑した表情でもう一度后の傍らによると背中を摩った。今度は后も振り払うような真似こそしなかったが、

「同じことでございます」

恨みがましい目で帝に振り返った。

「もちろん、若帯日子もその一人だ」

帝の宥める言葉に后はむしろ声を荒らげた。

「当たり前でございます。ですが、代々日継の御子は一人に決めるものでございます。今まで二人を日継の御子とした話など聞いたことがございません。そのようなことをすれば宮を二分する争いが起こるに決まっておりましょう」

八坂入日比売の言葉ももっともである。日継の御子を一人に決めても、なおその地位をめぐって争いが起きることがあるのである。同じ血を分けたものの間であったとしても争いが起きることがあるのだ。まして血が同じでない兄弟が争わないはずがないでしょう、とその眼は訴えている。

そんなことが起きれば・・・。后の目には、小碓に首を切り落とされた男の顔が息子たちのそれに重なって見えている。

「さような愚かな話を聞いたことがございませぬ」

后の言葉に帝も困惑している。言われなくても、分かっておると言いたげである。

だが、宮人の間では一人出雲に乗り込んで国を二分しかねない戦を防いだ小碓こそが次の帝に相応しいという声が澎湃ほうはいと沸き起こっているのである。帝としてもそうした思いを無視するわけにはいかない。

それに・・・・。と、帝は出雲建の首を持ってきた時の小碓の姿を思い浮かべている。急に大人びたその姿は、さながら昔の唐の話に聞く、こんおほとりと化したという故事を彷彿ほうふつとさせた。

未だまつろわぬ者が多いこの国を治めるには小碓こそが相応しいのではないかと帝自身、内心考えが傾きつつある。若帯日子は優れた知力を持つが、いかんせん体が弱すぎる。

「では、五百木之入日子いほきのいりひこもその一人に加えようか・・・」

困惑気味に呟いた帝を后は呆れたように見遣った。

「数の問題ではございませぬ」

そうは言ったが、后の目には迷いが浮かんでいる。五百木之入日子命も自分が腹を痛めた子である。若帯日子と小碓の二人だけを日継の御子の候補として、万が一若帯日子に何かがあった時、そのまま小碓が次の帝に決まるというのは何としても避けたい、というのが皇后の思いである。

「ともかくも、小碓命だけはごめんでございます」

そう言うと妻をなだめようとしている帝の手をふりほどくかのように、精一杯荒々しい素振で去って行く八坂入日比売の後姿を見やりながら帝は溜息を吐いた。

「どうも、こう次々と面倒が起きるとは、な」

次々と、と言ったのには意味がある。

先だって三野に送った小碓の兄、大碓が連れてきた大根王の娘二人が実は偽物であり、本物たちは大碓が自分のものにしてしまったという噂がまことしやかに囁かれているのである。

「まさか、そのような・・・」

と考え、率いられてきた女をそのままにして、遣いを密かに三野に送り容姿を確かめさせたのだが、どうやら噂は本当のようである。

大碓のところに美しい女が二人、加わったというのも事実だという。どうやら大碓もそれを隠し通そうとしているわけではないようだ。いや、むしろ日継の御子に選ばれなかったと知って公然とさせたのかもしれない。しかし、この事が起きる遥か前から帝は大碓を日継の御子の候補から外していた。

大碓が自分の事をどう思っているのか、帝にはそれとなく分かる。実母の伊那毗能大郎女いなびのおほいらつめが死んだとき、その葬儀の席で大碓は帝に仕える他の女とその子たちを時折、憎々し気に睨んでいたのである。

母を失った不安に苛まれているのは人としては分からぬではない。他の子どもたちが自分にとって敵だと思っているのも理解できる。そしてその子供たちが母に甘えて育てられているのも気に食わぬのだろう。

しかしその憎悪の視線は同時に、直接ではないにしろ帝自身にも向けられている。

皇統を絶やさぬために多くの子を成すのが務めと考える帝の眼には大碓の態度は許容できぬものであった。皇后の八坂入日比売でさえ、そうした帝の考えに楯突くことはないのである。もっとも八坂入日比売にしてみれば、小碓を除く他の皇子など気にはしていないのかもしれないが・・・。

小碓より大碓の方が八坂入日比売の心配を現実のものにする懸念が大きい、というのが帝の見立てである。あの目を見たその瞬間から、帝の心の中で大碓は日継の御子の候補の座から滑り落ちていた。

しかしその大碓が今になってこのような形で自分に反抗しようとはさすがに思いもよらなかった。

偽物の女二人は宮中に入れることが出来ず放置したままである。どちらもそれなりに美しい女なのだが、出所も分からぬ女を仕えさせるわけにはいかない。だいたい、三野の女を横取りしておいて別の女を帝に引き渡すという大碓の考えが良く分からぬ。

ずいぶん中途半端なやりかたではないか。自分を諫めるというより劣情を伴った子供っぽい反抗のようにしか思えぬ。万一、気付かずに偽物の女たちが子供を産んだなら、それでどうしようというつもりなのか?

一方で、その行為を厳しく処断できないのは、心の底で母を幼い頃に失った大碓の気持ちが分からぬではないという生温なまぬるい親としての心情が捨てきれないためである。

「さて、どうしたものか・・・」

改めて溜息を一つつくと、帝はそろりと立ち上がった。


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