第3話 叔母の涙
兄と別れた小碓は密かに毎日通っている
小碓はこの男から体術と剣術を学んでいる。
「おお、参られましたな」
隼は小碓を見て破顔した。隼の背は小碓より遥かに高い。兄の大碓と比べても頭一つ抜きんでている。伎も行うので、日焼けしないように苦労しているらしいが、苦労の甲斐もなくその顔はなめし皮のように艶々と黒光りしている。
「雀、御子がおいでじゃ。お相手して差し上げろ」
隼に呼ばれて小屋から出てきたのは小碓と同じくらいの背丈の娘である。眼差しは鋭く、身のこなしは鹿のように素早い。色の白さは叔母の倭比売に優るとも劣らないが、その白い肌の下にあるものは叔母の柔らかさとは異質のはしっこさと勁さであることを小碓は知っている。
外見だけでは隼と雀の二人が兄妹だとはどうしても思えないが、雀の技の鋭さを見れば頷かざるを得ない。
始め、と発した隼の声にたちまち小碓と雀の二人は間合いを詰めると、突き、蹴りを繰り出しあう。夏の暑さにすぐに小碓の体から汗が噴き出すのだが、雀は汗一つかかずに、小碓の繰り出す技を躱していく。
突きを放った小碓の前からふっと雀の姿が消えた刹那、小碓は背後から身を捕らえられ少女の薄い胸を背中に感じた。
「そこまで」
隼が言った。
首を折った小碓の視線の先には首に押し当てられている木の棒がある。これが本当の戦いであれば、木の棒ではなく小刀の筈で、小碓の命はない。
雀が舌先でぺろりと小碓の首筋の汗を舐めた。
「やめよ」
憤然として小碓は身を捩る。
「負けた罰じゃ」
ころころと鈴のような笑い声を立てて雀は腕を放し、小碓はぐったりと膝をついた。
「御子の汗は良い匂いがする。炒った豆のような匂いじゃ」
「たわけたことを」
弾んだ息で小碓は文句を言ったが、雀は気にも留めぬように
「あたいにだって、勝ちの褒美がいる。ただで御子に技を教えるのはまっぴらごめんじゃ」
と勝ち誇った。
「御子は以前よりは随分とお強くなられましたな」
隼が小碓を助け起こしながらのんびりとした口調で言った。
「身のこなしが格段に速くなられた」
「だが、勝てぬ。なぜだ」
小碓は吐き捨てるように呟く。
「鍛錬の量が違う。御子はいつまでたってもあたいには勝てぬ。御子が腕を上げてもその分、あたいだって腕があがるもの」
舌先を出して右目の下を引っ張って、いー、と言った妹を隼は叱りつけると、慰めるように小碓に語り掛ける。
「もう三月も鍛錬すれば、互角になりましょう。年の明ける頃には御子が勝ちましょう」
「そんなわけはない。あたいが御子になんか負けるわけないじゃないか」
雀は激しく反発したが、兄は首を振ると、
「黙っておれ、雀。御子に向かってなんという口を利くのだ」
と雀をもう一度叱りつけると、
「御子の体の下には今、鋼のような肉置きがつき始めております。冬が来る頃には汗も出なくなりましょう。その時は必ず雀に勝てます。それどころか、やがて私をも凌ぐかもしれません」
と続けた。雀は不機嫌そうにそっぽを向いている。
「そうか・・・」
そう呟いた小碓の胸の鼓動は漸く収まってきた。
「それは嬉しい。隼の言葉なら信じられる」
「そんなわけがあるか。兄者の腕は族の中でも一番なのだぞ、御子が勝てるわけがなかろ」
唇を突き出して、喚く雀をちらりと振り向いたが無言のまま、
「だが・・・・それでは遅いのだ」
呪いのように雀が吐き出す悪口雑言を聞き流しつつ、小碓は胸の内で考えている。
小碓が隼に体術と剣の教えを乞いに訪れたのは春も終わる頃、今から一月前のことである。
その数日前、小碓はひさしぶりに倭比売の部屋を訪れた。
「お母さま・・・」
戸を開けていつものように走り寄ってきた小碓に気づいた倭比売は、はっと顔を隠すように身を捩った。
「お母さま?」
小碓は立ち竦んだ。
「お母さま、どうかなされたのですか?」
そう尋ねた小碓の耳に、雨音のように幽かに床を叩く音が一つ二つと、響いた。
それまで見たことのない叔母の様子に小碓は何か悪いことが叔母の身におきたのだと直感した。
「なんでもないのですよ・・・」
答えた叔母の声はくぐもったような響きだった。
「お母さま、泣いておられるのですか」
答えは暫くの間、返って来なかった。小碓は開いた戸の前で立ち尽くしている。
「ほんとうに・・・何でもないのです」
やがて返ってきた叔母の口調はいつものそれに戻っていた。
「ほんとうに?」
「ええ」
叔母は顔を上げて微笑んだが、小碓には、その眼の奥に消しえない悲しみが残っているように思えた。
「可愛い小碓。今日は何をして遊んだのですか?」
「野駆けです・・・」
「そう・・・」
いつもなら誰と遊んだのですか、とか、野駆けでは一番でしたか、とか話が弾むはずなのに、相槌が一つ返ってきただけである。
「ほんとうに、どうなされたのです?」
小碓は叔母に抱きつく機会を失って途方に暮れている。
「なんでもないのですよ。気を使わせてごめんなさいね」
無理に微笑んだ叔母の眸が揺れた。
「ああ、小碓。今日はここにいておくれ。あなたの顔をずっと見ていたいのです」
叔母はそう言って手招きをした。小碓はものも言わずに叔母に駆け寄って抱きついた。叔母はいつものように頬と頬をすりよせてくれた。
その頬は、ほんの少し湿っていた。
小碓が叔母の涙の訳を知ったのは、偶然であった。
叔母の涙を見た翌々日、再びそっと様子を見に行った時、姫に付いている宮人の一人が、別の二人の男に、
「姫はまことに出雲へ下られるのだろうか」
と心配そうに話しかけたのが聞こえたのである。
「出雲?」
小碓は耳を
「たいそう嫌がっておいでのようだが・・・」
「しかし、
一人の男が答えた
「大国主命の生まれ変わりだとか申しておるらしいな。大国主命という名乗りは聞き捨てならぬ」
別の男が沈鬱そうに呟く。
「ああ、もし皇統が危うくなるとすればそれは出雲と闘う時、と親も良く言っていた。出雲建という男はすでに出雲、
最初の男がいやいやと、と手を振る。
「なんと筑紫まで手を伸ばしていると聞く。となれば国を挙げての戦となるのは必定。帝は東の方の憂えをなくすために三野との結びつきを固めようとなされておられるようだ。幸いなことに東は、今はそれほどもめておらぬ。だが気になるのは
「帝は姫を説き伏せようとなさっておられるようだが・・・それはどうなのかの?」
「姫は、もし出雲建が大国主命の産まれかわりであるならば嫁ぎましょう。でもその前にその証をお示しくださいと言っておられるそうじゃ。帝もほとほとお困りらしい」
「別の姫ではだめなのか?」
「それは向こうが拒んでいるらしいぞ」
最初の男が断言した。
「倭比売でなければ、要らぬと・・・。なんと生意気な物言いじゃ」
しかしの、と別の男が言う。
「出雲建という男、時を限っておると聞く。雪が降る前にという事だろうが、諸方への働き掛けもその頃には成り立つと考えているようにも見受ける。生意気な物言いと言うだけではすまぬぞ」
「となると、あと半年もない」
心配そうな声で二人目の男は呟いた。
「帝も戦備えをしてはおられるようだが、やはり比売が出雲に下られるというのが現実的だな。そうなると俺たちの何人かは比売に従って出雲へということになるだろう」
「おお、考えるだけでも身が震えるわ。出雲は雪が多いというではないか。ついて行くのは御免蒙りたいものだ」
「声が大きい。このことはまだ内証のことよ。万が一にでも漏れたら疑われるのはわれらぞ」
そんな事を男たちは言い合いながら、奥へと姿を消したのである。
自分を愛してくれるが故に誰にも嫁がなかった叔母が、望みもしない男のもとに遣ろうとされているのだ。
柱の陰で小碓はそう考えた。だからこそのあの涙だったのだ。ならば・・・。
その日、小碓は隼のもとを訪れた。
隼が戦いの名手であるという事は、共に遊ぶことの多い
「御子は何を考えておられる」
雀は小碓の脇に腰かけると、問いかけた。
「ん?」
雀を見遣ると小碓は
「なんだ?」
とぶっきらぼうに答えた。
「御子は何かお考えがある。だから兄の所で戦いを学んでおられるのだろう?」
「そんなことはない」
不愛想な表情のまま小碓は横を向いた。
「兄者は仰る。御子はきっと日継の御子になられるに違いない。我らが隼人は
執拗に尋ねてくる雀に向かって煩わしそうに手で払うような仕草をすると、小碓はぶっきらぼうに言った。
「私は日継の御子にはなれぬ。兄もいるし、他にも兄弟が山ほどおる」
「いや、あれで兄者の目は確かだ」
雀は
「それに、あたいもそう思う」
「ばかな。兄を差し置いて私が日継の御子になどなれようか。それに
若帯日子は父帝と今の皇后である
その生まれもあってか小碓たちの母のように帝から朗らかに言われても子供の名を付ける権利を譲ることもなく、しっかりと自分で子を名付けている。父は他愛もなく自説をひっこめ、その子供達には父帝の名を引く帯やら、木やらの字が躍っている。
「ふん」
雀は口を尖らせた。
「あんな弱っちいのが帝になるなんて、あたいは嫌だ」
若帯日子は腺病質の体質で、大切に育てられている。皇子とはいえ、他の子供たちが幼い時分は野山に駆けて遊んでいるというのに、若帯日子だけはおつきの女官たちに付き添われて、静かにそれを見ているだけだった。
「そんなことはない」
小碓は滅多に若帯日子と話す事はないが、一度だけ若帯日子がわざわざ小碓に近づいてきたことがある。
どうしたのだ、という目をした小碓に向かって、若帯日子は年若の礼をとって幼げに挨拶をすると、
「お兄様、私は体が弱いので今こそ一緒に遊ぶこともできませんが、そのうちに体も良くなると思います。その時はぜひご一緒に、民の力となりましょうぞ」
と頬を染めて言ったのである。
「分かった」
と小碓は不愛想に答えたのだが、その時の身のこなしは実に優雅で立派なものであった。帝の血の濃さというものはこうした時に現れるものかと変な感心をしたものである。兄や自分には到底真似ができそうにない。
「まあ、それはいいとして」
雀は言葉を継いだ。日継の御子になるに違いないと言っているわりには、雀の小碓に対する態度はぞんざいである。
「御子は思いつめておられるんじゃないかって、あたいは心配なんだ」
「なぜだ?」
「だって・・・」
雀は
「御子は・・・あのさ、ある人を守るために強くなりたいと兄者に言ったそうじゃないか。それって倭比売命のことだろ?」
「なぜ、そう思う?」
「みてりゃ分かるよ、誰だって」
雀が膨ら雀になった。その膨ら雀の頬を人差し指でちょんとつつくと
「あのお方は私にとって特別なのだ」
小碓は叱りつけるように言った。
「特別ってなんだよ?母御のかわりというわけか?それとも・・・」
「うるさいな、お前は」
小碓は突き放すように雀の言葉を遮った。その小碓を見つめると雀はぽつりと呟いた。
「でも・・・倭比売命には出雲に往くという話があるんだろ?」
「お前、誰からそれを聞いた?」
小碓は雀の手を掴もうとしたが雀は素早く身を退けた。空を切った小碓の手をぴしりと叩くと、
「あたいらは、帝をお守りするために色々な事を知っておかねばならないんだ」
雀は叫んで向かいの木の枝に飛び上がる。小碓は雀を睨みつけた。雀も睨み返してくる。
「御子がその事で変なことを考えているんじゃないかって・・・兄者が言う。そうなのか?」
「黙れ」
小碓は一喝すると雀から目を逸らした。
「へん、なんだい」
雀は軽やかに跳んで再び地面に降り立つと、小碓に向かって舌を突き出した。
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