第2話 少年の夢想

纒向まきむくの夏は、雨が多く蒸し暑い。連なる山々は濃い緑に覆われ、そこからはむくむくと無限に雲が湧き立ってくる。

その雲の下を二人の若者がやってくる。

若者と言っても、一人はまだ前髪を切り揃えた岐嶷かむろの子供である。色白で華奢な体つきに見えるがその実、骨は意外と太い。年は十三か四であろう。切れ長の目元は涼しく、頬は白く黒目がちな眸は少女のようである。

もう一人は総角あげまきを結った大柄の若者である。こちらはもう年は十八にもなっていよう。

「お父上にも困ったものだ」

大柄の若者が顔をしかめ、額に滲む汗をわずらわし気に腕で拭くと、脇を歩いている少年に大声で不平を零した。

半歩遅れてついてくる少年はまだあどけない顔を上げて、

「どうかなされたのですか?」

と尋ねた。

「私に三野みのに赴けとお言葉があった。大根王おほねのみこの娘二人を召し上げ、てこい、と仰られる。また宮に新しい女を引き入れるおつもりらしいぞ」

「はぁ」

要領を得ぬとばかりに、ちらりと兄を見上げると少年は生返事を返した。

その少年こそ成長した小碓である。前を歩いて、弟に盛んに愚痴を言っているのは兄の大碓であった。

小碓には兄の愚痴の意味が良く分からない。ただ、実の母以外に宮中にたくさんの女性が共に住い、兄弟姉妹が名を覚えきれないほどいるということは気づいている。だが宮の外を殆ど知らぬ少年は、世の中とはこんなものなのか、とくらいにしか思っていない。

「お前には分からぬかもしれないが、帝に子が多いという事は争いの種になる」

兄は気のない返事をした少年にちらりと視線を遣ると、さとすように言った。

「争いとは・・・何ですか?」

少年は兄を見上げるようにして尋ねた。

「日継の御子をどうするか、ということよ。つまりは次の帝を誰にするかという事だ」

兄の櫛角別王は子を成した後すぐに早逝したこともあり、兄弟の中で今、最も年長なのはこの大碓である。

「それに王が多ければ、国のついえもかかる。今の屯倉みくらからのあがりでは到底支えきれまい。たとえ今年は良かろうとも、ひでりや大風・大雨が来ればあっという間に倉は干上がる。倉を満たす民は増やし、倉を減らす王は代を繋ぐ以上に増やしてはいけないのだ。父上は将来の禍根を残しておられる事に気づいておられぬ」

「そんなものでしょうか・・・」

と答えた少年に実感はない。

日々、食す米や菜が届かなくなるほど困窮しているわけではないのだ。そんな満ち足りた少年に蓄えがなくなると説いても実感が湧かないのは仕方ないのだが、気のなさそうな弟の答えに苛立ったように大碓は石を蹴ると、

「そうだ。だいたい、私ももう十八だ。そろそろ妻を娶る年になったのだぞ。その子供に自分の新しい女を連れてこいなどと・・・どう考えても変だろう?」

と言葉を継いだ。

「はあ、それはそうかもしれませぬね」

小碓は答えたが、それより目の前を飛んでいる大きな蜻蛉とんぼに気を取られている。

わんわんと山をとよむように蝉が鳴いている。それに呼応するかのように日が雲の分け目から顔を出して、かっとした熱気を送ってきた。額の汗を再び拭うと兄は、うるさいな、夏が終われば死ぬくせに何を喚いておる、と蝉をこきおろしてから声の調子を上げた。

「まあ、年端の行かぬお前には分からぬだろうが、女というものはぜんたい、何を考えているか分からぬ。中には父上に取り入って自分の子を日継の御子にしようと画策している者もおるらしい。そうすればわが身は安泰、倉の米の取り分も思うが儘、と考えているらしいぞ」

「日継の御子・・・お兄様を差置いて、ということですか?」

少年は素直に反応する。

「まあ、そういうことだ」

若者は歩みを止めると、少年の目を覗き込んだ。

「いざというとき、お前はわたしの味方をしてくれるよな」

兄が誰を敵と意識しているのかは小碓にも分かっている。

兄の敵は、蜉蝣かげろうのように華奢な腺病質の少年である。その少年に対する敵愾心てきがいしんが、兄をして父親の批判をさせているのだ、くらいの事は少年にも分かる。兄からその少年の悪口をさんざん吹き込まれているのだ。腺病質の弟の母が、亡くなった自分たちの実母のかわりとして、つい最近皇后になられたことに兄は苛立っているらしい。

「はぁ、もちろんです」

いささか頼りなげな返事であったが、大碓は満足そうに小碓の頭に手をやるとくしゃくしゃと髪を撫でた。少年はくすぐったそうに笑い声をあげてその場にしゃがみこんだ。

それにしても、と兄から乱暴な扱いを受けながら小碓は考える。

女と言うのはそんなに悪い生き物なのであろうか?女と言うと小碓の脳裏に浮かぶのはただ二人である。

一人は実母である。母は優しい女性であったが、少年が五つの歳に病で亡くなった。その代わりに母のように接してくれたのがもう一人の女性である叔母である倭比売であった。その頃はまだ少女のおもかげが残っていて、きれいなお姉さまだなぁ、となんとなく思った記憶がある。

「私のことを母と思いなさい」

叔母は喪が明けぬうちに小碓を呼ぶとそう言った。

「母がない子は情が薄くなるといいます。情が薄くなっては帝にふさわしくございませぬよ」

母を亡くしたばかりの少年にとってその一言は存外胸の奥に響いた。帝になるかどうかはともかく、情が薄くなるというのはとてもいけないことのように思われた。

「お母さま?」

尋ね返した少年に向かって、そう、と言うと叔母は体を抱きしめてくれた。母を弔う藤衣ふじごろもの少しごわごわとした感触を通して柔らかく温かい体の感触が心地よかった。

「お母さま・・・」

そう言って自らからも抱きついてきた小碓をずっと叔母は抱きしめてくれていた。

叔母はその後もずっと小碓の側にいてなにくれとなく世話を焼いてくれた。だから小碓の記憶には叔母との日々の暮らしが一杯に詰まっている。

だがさすがにこの頃になると他の男の兄弟と遊ぶことも増え、以前ほど共にいる時間は少なくなった。

お母さま、と人前で呼ぶのも今となっては昔のことである。小碓が倭比売をお母さまと呼んでいるのに気付いた兄が

「われらが母は身罷ったあの母御だけぞ。お前は産んで下さった母のご恩を忘れたか」

と、きつく叱ったからである。仕方なしに人前でお母さま、と呼ぶことは憚ったが叔母と二人の時は今でも時折密かに「お母さま」と呼んでいる。

叔母は穏やかな性質の美しい女性である。宮中には天皇の后を含めて何人もの女性がいるが、その誰よりも美しいひとだ、と小碓は思っている。それなのに、叔母が誰に嫁ぐこともなく二十歳を過ぎた今も宮中に一人住まいをしているのが不思議だった。

叔母が自分のことを慈しむために敢えて嫁ぐ男を得ないのだ、というのが小碓の夢想である。その夢想は幼い頃からずっと少年に甘美な喜びを齎してきた。

そしていまだに叔母の柔らかな体と甘い体臭は少年の安息所である。

その叔母が、まさか兄のいうように、何を考えているのか分からない化け物とは・・・。小碓には到底思えない。

「まあ、三野には行ってこようよ」

小碓の想いは兄の言葉で断ち切られた。

「どうするか、考えないとな。まだお前は気にする必要はない。私が何とかしよう」

兄の言葉に小碓は小さく頷いた。まるで子供扱いだが、兄は知らないのだ。兄が化け物と呼んでいる女の一人を守るために今自分が何を考えているのか、という事を。そしてそれが命を懸けた行いであることも。

でも、と少年は甘酸っぱい思いに囚われている。

いずれお母さまは自分の心の裡を知ってくださるだろう。たとえ、そのために自分が命を落とすことになろうとも。

また命を落とすことになればそうなったで、お母さまの記憶には一生自分の姿が幼いまま残るであろう。

そんな夢想さえ少年には甘美である。



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