古事記異伝(悲愴の章)

西尾 諒

第1話 真白の衣

「あら、まあなんて・・・」

少女は美しいひとみを真ん丸に瞠ると、息を詰めた。

「あら、まあなんて・・・」は少女の叔母の口癖である。

叔母が口にするたびに、なんだか年寄じみて変、と非難がましく言っていたのに、少女は自分が同じ言葉を口走ったことには、とんと気付いていない。

「あら、まあ・・・・」

頬を染めてそう繰り返した少女の視線の先には真白の衣にくるまれてすやすやと寝ている赤ん坊がいる。

「どうした、やまとよ。赤子がそんなに珍しいか」

赤ん坊の父である兄が怪訝そうな顔で少女に尋ねた。倭というのが少女の呼び名である。本当の名は倭比売やまとひめなのだが、兄はたいていつづめて「倭」とだけ呼んでくる。

いつもなら、きちんと倭比売と呼んでくださいな、それでは男の子なのか女の子なのか分かりませぬ、と文句をつけるところだが、妹は兄の言葉も耳に入らぬようで、一心に赤ん坊を覗き込んでいる。

美しいひげを指で弾くと、兄は呆れたような顔で妻を見遣った。妻はにっこりと笑い返すと、義妹に

「よほどこの子が気に入ったのですね、抱いてみますか」

と勧めた。そのあによめに向かって少女はとんでもないというように首を振った。

「だって落としでもしたら・・・。ええ、結構です」

言いつつ後ずさりした少女の視線は、しかし赤ん坊に吸い付いたままである。

「とてもうつくしい、可愛らしい御子だこと。おめでとうございます」

大きく息を吐き、漸く赤ん坊から目を逸らすと少女は嫂に微笑んで見せた。子に慈しみの視線を向けている嫂の細く白い首には産後のやつれを表すかのように一筋のほつれ毛が垂れている。

「そう言えば、この子は私でもなく、夫でもなく、あなたに似ているようですね」

小首を傾げながら言った嫂の言葉に

「そうかしら?」

少女は頬に手をやった。切れ長の目の黒々とした瞳の下、透けるような白い頬が薄く紅を指したように染まってくる。

「うれしいわ」

それを聞いて兄は、ははは、と笑った。

「まだ首も座っておらぬに。誰に似ているもないものだ。何に似ているかといえば猿のようであるな」

思わず口にした戯言ざれごとに女二人から冷たい視線が投げかけられ、兄は首をすくめた。

「それで、何という名を?」

少女の問いに、

小碓をうす

兄は投げかけられたばかりの冷たい眼差しなどなかったことにするかのように、間髪置かずに答えた。それを聞いてあっけにとられたような顔になると

「まあ、奇妙な・・・また碓ですか?」

少女はころころと笑い声をあげた。

「そうか?この子の兄が大碓おほうす。ならば弟は小碓が順当であろうが」

兄の言葉に嫂は眉を微かにひそめて義妹に訴えるように言った。

「あなたの言う通りですよ。昔はもっと立派で長い名前をつけていたものです。それに物の名など」

夫をとがめる口調である。

「櫛やら碓やら・・・。何だか暮らしじみた名前ばかり」

夫婦の長男の名は櫛角別くしつのわけ、次男が大碓である。

「良いではないか」

歌うように夫は答えた。

「国だの日だの、波だの石だのありふれておる。自然の物は尊く美しくもあるが、人の手になるものも同じく尊く美しい。それに名が長すぎるのも考え物だぞ。小碓。きっぱりとして、良い響きではないか。倭、お前の名と響きが似ておる」

今度こそ、少女は兄にお決まりの文句を言った。

「お兄様、ちゃんと倭比売と呼んでくださいな」

ははは、と兄は笑うと、

「良いではないか、良いではないか。めでたい日じゃ」

意味不明の弁明に少女は不満げに頬を膨らませた。だが再び赤ん坊を見遣ると、じきに不満げな目はとろけて、

「よしよし、お前はいい子ね。お父様なんかとは違って優しい子ね」

などと呟いている。

帝自身の名は大帯日子淤斯呂和気おおたらしひこおしろわけである。幼い頃から大仰な名前だと不満であったようである。何より覚えにくい、自分でもこんがらがるわ、と常々こぼしている。

「子の名をつけるのは私の仕事ですのに」

嫂はそれでも不満を漏らし続けた。子の名を付けるのは爾来じらい母親の仕事なのだが、帝は朗らかな態度で妻からその権利を奪ってしまったのだ。きっと小碓と言う、ちょっと変わった名前を自分が付けたかのように思われるのを気にしているのだわ、と少女は嫂の行き場のない不満に同情した。

「でも、小碓って可愛らしいと名前だと思います」

少女は再び赤ん坊に目を戻すと言った。

「小碓、私はお前の叔母様ですよ。分かりましたか?」

くしゃん、と寝たまま小碓が小さなくしゃみをした。それがあたかも分かった、という返事のようで、そこにいた者たちはさざめくように笑い声を上げた。

少女の年の離れた兄は後に景行天皇と呼ばれる人である。

名の知られている子供だけで二十一、全部で八十もの子供をもうけたと言われるが、その中にあってこの小碓こそ、その生涯を通して唯一深く関わりあっていく甥になることを、少女はこの時、まだ知らない。

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