第4話 壊れ始めた心


―――


「……いっ!」

「あ、ごめんなさい!」


 情事中、彼の背中に爪をたててしまった。痛さに顔をしかめた彼を、僕は下から覗き込んだ。


「大丈夫、大した事ねぇ~よ。」

「でも……」

 そっとそこに指を這わすと、ビクッと体を震わす。僕は反射的に手を引っ込めた。


 彼はいつもの笑顔で微笑むと、僕の耳許に口を寄せた。


「圭吾、愛してるよ。」

「僕も……邦宏くん、愛してる。」

 首筋に顔をうずめてきた彼の体温を感じながら、僕は目を閉じた。



 ごめんね、本当はわざとなの。僕の証をあなたに刻みたかった。


 でもあなたはそんな僕の気持ちに、きっと気付いている。そして知らないふりをするんだ。


 僕を傷つけないために、自分自身を傷つけている。だけどそんなあなたの優しさに、僕はいつも胸が痛むんだ。



 ……それでも僕は、彼の事を手離せない。邦宏くんは僕に、たくさんの事を与えてくれた。彼がいるだけで、世界はこんなにも輝くのかと驚く程。


 僕は彼に何もあげられないけれど、僕には絵がある。これからもずっと、邦宏くんのためだけに絵を描くのだろう。


 彼が好きだと言ってくれた僕の絵を武器に、顔も知らない彼女と勝負をする。だけどそんな無用の争い、彼は望まないから。


 僕は微笑う。



「平気だよ、大丈夫。」

 そう言って、微笑うんだ。


 だけど、僕の心は知らない間に少しずつ、壊れていったんだ……




―――


「じゃあ、帰るな。また、連絡する。」

「うん、待ってるね。あ、次来る時までには完成させとくよ、絵。」

「おぅ。圭吾の絵見ると、元気出るから。楽しみだな。」

「期待してて。」

 僕が笑うと、邦宏くんもほっとしたように笑う。僕はそっと彼の背中を押した。


「ほら、早く帰ってあげて。」

「圭吾……」

「じゃあね、おやすみ。」

「……じゃあな。」

 パタンと閉まったドアを、僕はいつまでも眺めていた。ドアが閉まる直前、振り返った彼の顔を思い出しながら……




―――


 そして、次の週の土曜日。


「久しぶり。」

「お帰り。邦宏くん、待ってたよ。どーぞ。」


 邦宏くんは約一週間ぶりに、僕の家に来た。僕は彼を早速、アトリエへと連れて行った。


「やっと出来たんだ。入って。」

「お邪魔しまーす。」

「ふふ。」

 何回も足を踏み入れているのに、毎回彼は緊張気味に入る。僕は思わず出た笑いを慌てて引っ込めた。


「これだよ。」

「うわー……」


 イーゼルに立てかけられたキャンバスを一目見た瞬間、そう声を出したきり固まってしまった彼。僕はドキドキする心臓を押さえて、じっと彼を見つめた。


 背景は、白と黒。その境界線には真っ赤な円があった。


 そしてそれは、真ん中からキレイに真っ二つに別れ、間からは青い筋が何本も垂れていた。


 暗くてどんよりとして、グロいんだけれど、どこか眩しくてキレイで美しい。何故か惹き付けられて、僕でさえ我を忘れて見入ってしまう程。


 しばらく見つめた後、彼はほっと息をつくと僕を見た。


「すごい、すごいよ、圭吾。」

「本当?」

「あぁ。マジで芸術って感じ。上手く言えないけどすげぇって事はわかる。」

「気に入ってくれた?」

「あぁ。」

「良かった。それ、僕の気持ちだから。」

「え?」

 首を傾げる彼を見て、僕はにっこり微笑んだ。




 邦宏くん?僕のあなたを想うこの気持ちは、キレイなものではないのはわかってる。十分すぎるくらいに。汚くてドロドロして、真っ黒な闇の中にいるみたい。


 でも反面、こんなにキレイで美しいものがこの世に存在するのだと、この僕の中にあるのだと、初めて知った。それを教えてくれたのは、他の誰でもないあなた。


 他に大切な人がいる人の事を愛してしまった僕は汚くて、だけどキレイなんだ……



 一緒にいる事がこんなに辛くて苦しいのなら、別れてしまえばいい。だけど僕から別れを告げる事なんて、出来やしない。


 だからといって、あなたから別れを告げられる事も耐えられない。あなたが僕ではなくて、彼女を選ぶ所なんて見たくなかった。


 いつまでも側にいたい。

 いつか離れてしまう未来なんか、見たくない……


 僕はもう一度、描いた絵を見た。


 真っ赤な円は僕自身。青い筋は、今まで流してきた涙。



「ねぇ、邦宏くん。お願いがあるの。」

「ん?俺で出来る事なら何でも聞くよ。何?」


 彼と離れなければいけない運命ならば、いっその事……




―――


「僕を……殺して?」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る