第301話 中書省のゲンサイ

 桾国の皇帝である晨紀帝の正式な相談役となったゲンサイは、一揆を起こした漢登省の北部民を鎮めるために、豊作だった地方から食糧を運び込み、炊き出しなどを行わせた。


 その成果が出て一揆は収まり、人々はゲンサイの言う事を聞くようになる。ゲンサイは人々を集め、田畑に排水路を掘るように命じた。


 広い田畑から始めた排水路造りは、周囲に広がり自主的に自分の田畑に排水路を掘る家も現れた。ゲンサイが信用され始めている証拠である。


 ゲンサイは洋河の治水工事に取り掛かった。川幅が狭い箇所を掘り返して、川幅を広げる。川底を浚って溜まっている土砂を俵に詰めて土嚢にして堤防を築くなどする工事を行い。次回の長雨に備えた。


 季節が変わり長雨の時期になる。その頃になると、人々は不安な様子で空模様を見詰め、いつ雨が降り始めるのかと話し合うようになった。


 そして、雨が降り始める。例年通り雨は降り続いたが、洋河の洪水は起きず水害は最小限に抑えられた。


 その事で北部の民は、ゲンサイへ感謝と信頼を寄せた。ゲンサイが三椏を栽培しようと言い出した時には、進んで協力したほどである。


「ゲンサイ殿が北部に派遣されたせいで、宮殿の情報が取れなくなったと言って、組頭が困っていましたよ」

 ゲンサイの弟子という事になっているヒョウゴが、組頭の言葉を伝えた。


「そう言われても、晨紀帝の命令だからな」

「ここでの仕事を片付けて、一刻でも早く宮殿に戻るようにしてくれ、という組頭の指示でした」

「承知した。しかし、宮殿には三人の使用人を送り込めるように手配したはずだが」


 ヒョウゴが顔をしかめた。

「新米の使用人では、宮殿の奥には行けませんからね」

 ゲンサイは溜息を吐いた。


「そうだな」

 ゲンサイは北部の治水工事と産業育成のための計画書を書き、それを人々に告知した。そして、三椏を使った紙作りが拡大し軌道に乗ると、北部が安定した。


 その報告を受けた晨紀帝は、ゲンサイを首都に呼び戻す。久しぶりにゲンサイの顔を見た晨紀帝が、

「ご苦労であった。北部が鎮まり安心した。報告を読んで、朕は良い臣下を持ったと嬉しくなったほどだ」

 珍しく御機嫌な顔で晨紀帝が言った。

「光栄でございます」


「そこで、そなたを中書省左大臣の補佐に任命する事にした」

 これを断る事はできなかった。皇帝の言葉は絶対であるからだ。ちなみに中書省とは詔命・行政を司る最高官庁であり、左大臣はその官庁の最高権力者だった。


 中書省左大臣は春邦しゅんほうという人物で、その補佐に任命された事になる。

「私は医者なんだがな」

 ゲンサイは納得できないという顔で、中書省へ向かった。中書省の胡左大臣に挨拶する。


 胡左大臣は眠そうな顔をした太った人物で、ほとんどの仕事を補佐に任しているという評判の役立たずである。


「ふむ、陛下にも困ったものだ。医者を中書省に寄越すとは、何を考えられておられるのやら。しかし、正式に補佐に任命されたからには、命懸けで働いてもらわねばならんぞ」


 ゲンサイは分かりましたと言って下がった。この左大臣に仕事の事を聞いても無駄であり、同僚の補佐たちに聞こうと思ったのだ。


 左大臣には補佐が五名おり、その中で一番の古株であるそうせいという人物が実権を握っているらしい。

「宋様、新しく補佐に任命されました周余でございます。今後の御指導よろしくお願いいたします」


 馬面の宋補佐は、担当する部署を決める権限を持っていた。と言っても、中書省はほとんど仕事をしていなかった。


 中書省は詔命・行政を司る最高官庁と名目上はなっている。だが、実際の仕事は六部と呼ばれる吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の各部署が行い、そこから上がってきた上書に誤字脱字がないかチェックするだけの部署となっていた。


 本来なら誤字脱字の間違いだけではなく、政策の良否を問い間違いが有れば書き直させるだけの権限を持っていたのだ。


 ゲンサイが提案して側近たちにやらせている上書の精査は、中書省でやるべきものなのだが、左大臣と補佐たちにはやる気がない。その事に気付いた晨紀帝が、ゲンサイを中書省に送り込んだようだ。


「という事は、この人事の原因は、自分に有るのか。……仕方ない。少しずつ本来の姿に戻すように努力しよう」


 ゲンサイは六部から上がってくる上書の確認を始めた。中書省の役人たちが誤字脱字の間違いは修正しているので、ゲンサイは数字に間違いがないか検証する事にした。


 ちなみに、桾国の上書とは上質の紙に筆で装飾された長い文章で書かれており、全体像を掴むのが難しかった。

 その事で頭を悩ませていると、ヒョウゴが良い事を教えてくれた。アマト国では表というものを作って管理しているというのだ。


 そのためには細かい字が書けるペンや鉛筆が必要だと言う。ゲンサイはそれらを取り寄せるように頼んだ。


 部下の役人たちに命じて、金額や人数などの数字を書き出してゲンサイに提出するように命じた。


 その数字を見ていて、兵部から上がってきた兵の数がおかしい事に気付いた。元々桾国の兵は百五十万人ほどだった。だが、負け戦と反逆のせいで八十万人ほどに減っていたはずなのだ。


 だが、支払われている給与が九十万人分となっている。誰かが横領しているに違いない。この情報の扱いに困った。


 正規の方法だと左大臣に報告して、刑部に調査させる事になるのだが、そんな方法を取ればゲンサイが殺されそうだ。


 そこで天順殿下を経由して、情報を晨紀帝に上げる事にした。それが大きな事件になるとは、この時は思っていなかった。


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