第296話 晨紀帝とゲンサイ

 主治医である仁栄から晨紀帝の病状を聞いたゲンサイは、胃潰瘍いかいようではないかと思った。胃潰瘍は炎症などにより胃粘膜の一部が欠損する病気である。


 ピロリ菌や暴飲暴食、細菌、ストレスなどが原因だと考えられているが、ピロリ菌や細菌を除去する薬などはないので、治療は煎じ薬と食事療法が基本となる。


 仁栄が行った治療は、あまり効果がなかったようだ。そのために太医院の一室で皇帝の治療についての会議が行われた。先輩医官たちの意見を聞いていたゲンサイに、仁栄が視線を向ける。


「周医官、陛下の治療について、何か意見は有るかな?」

 ゲンサイは、長年に渡り宮殿で医官を続けている医者たちを見回してから、意見を述べた。


「治療法については、仁様の方針で間違いないかと思います。それで回復されないというのは、孝賢大将の死が陛下の御心を傷付けているのでございましょう」


 主治医である仁栄が頷いた。

「やはり、そうか。だが、このままでは悪化するばかりだ」

「それでは、牛乳を陛下に飲んで頂くというのは、どうでしょう」


「牛の乳に効果が有るのか?」

「列強諸国の医学書に書かれていた治療法でございます。それに食事の量を減らし、回数を増やす事も効果が有ると書かれておりました」


「ふむ、手がないのなら試してみよう」

 それらの治療を実行した結果、皇帝の容体が改善された。何が効果があったか分からないが、宮殿内にホッとした空気が流れる。


 その後、孝賢大将の葬儀が行われた。晨紀帝は悲しみに暮れ、政務も手につかないようになる。

 ゲンサイが薬湯を持って、執務室に入ると晨紀帝が窓からぼんやりと外を眺めていた。


「陛下、お薬の時間でございます」

 晨紀帝が振り返りゲンサイの方へ視線を向ける。

「周医官か。ふうっ」

 大きな溜息を聞いて、ゲンサイが質問した。


「どうかなさいましたか?」

「身体の調子が回復しておらぬというのに、官僚どもは容赦なく仕事を持って来る。朕を殺す気なのか」


 晨紀帝は机の上に積まれている書類の束に視線を向ける。孝賢大将が亡くなったので、孝賢大将が処理していた分も晨紀帝のところへ来るようになっていた。


 ゲンサイは皇帝が自分の事を『朕』というようになったのに気付いた。孝賢大将の死が、晨紀帝の心境の変化に繋がったようだ。


「陛下が無理をされるのはいけません。側近の方々に任せられる案件は、任せてはどうでしょう?」

「任せる案件を決めるのが面倒なのだ」

 ゲンサイは、それも側近の方々に選ばせれば良いと提案した。


「一人の側近に任せるのは危険ですから、複数の側近に案件を評価させ、その評価表に従って、仕事を選り分けるのです」


 不正ができないような仕組みにするために、同じ案件を複数の側近に読ませて判断させるという方法なのだが、その基準を決めるのは皇帝である。


 晨紀帝は側近と一緒に、基準を決める事にした。そして、その会議の場にゲンサイも参加する事になる。晨紀帝はゲンサイを使える臣下だと思ったようだ。


 もちろん、最重要だと判断された案件は、側近を通さずに皇帝が判断する事になる。射杯省からの援軍要請も、その一つだった。


「射杯省の状況は、それほど悪いのか?」

 鄭将軍から送られた連絡官は、状況を詳しく説明する。夜襲に失敗した桾国軍は、射杯省のちょうど半分まで後退したという。


 晨紀帝が連絡官を睨む。

「兵力は、我軍の方が圧倒的に多いのだ。なぜ押されている?」

「ユナーツ軍の大砲のせいでございます。砲弾を撃ち込まれますと、防ぎようがないのでございます」


「それでは援軍を送っても、同じではないか。他の者の意見を聞きたい」

 晨紀帝は孝賢大将の部下だった者たちに視線を向ける。その中の一人が意見を口にする。

「漢登省に配置されている軍から、十万の兵を引き抜き、ユナーツ軍の背後から襲わせては如何でしょう」


 それを聞いた晨紀帝は渋い顔になる。首都がある漢登省の守りが薄くなるのが気に入らないのだ。

「背後から襲わせるのに、十万も必要なのか?」

「ここは圧倒的な数で、押し潰すのが、確実でございます」


 ユナーツ軍の兵は一万ほどである。いくら最新鋭の銃で武装していても、十倍の数なら圧倒できるだろうという意見だった。


「他の者は、どうだ。他に勝つ方法はないのか?」

 晨紀帝が見回すと、軍の幹部たちは顔を伏せている。会議室のドアが開き、ゲンサイが牛乳を持ってきた。

「陛下、少し休憩されてはどうですか?」


「周医官か、心配するな。疲れてはおらぬ。だが、ユナーツ軍が朕を困らせておる。何か特効薬が有れば良いのだが」


 ゲンサイは苦笑いする。そんな特効薬など有るはずがない。テーブルの上に広げられた地図から、射杯省での戦いについて作戦会議を開いているのだと分かった。


「特効薬はございませんが、ユナーツ軍の大砲が問題なら、少数の鍛えられた兵を派遣して、大砲に使う火薬に火を掛ければ良いように思えます」


 ゲンサイは忍びとして、ミスを犯した。医者としての意見ではなく、忍びとしての意見を口にしてしまったのだ。


「申し訳ありません。出過ぎた事を口にしてしまいました」

 晨紀帝がゆっくりと首を振る。

「いや、面白い意見だ。関将軍、周医官の意見を達成できる者は居るか?」


「居ます。鬼影隊という夜襲専門の部隊が有ります。彼らなら成し遂げられるでしょう」

 その鬼影隊は特殊な訓練を受けた兵だったようで、ユナーツ軍の火薬庫を襲い、大砲に使う火薬を爆発させる事に成功した。


 その事により、鄭将軍が率いる桾国軍がユナーツ軍を押し返し形勢を逆転させた。これに喜んだ晨紀帝は、ゲンサイと鬼影隊に褒美を与えた。


 ゲンサイは医者というだけでなく、晨紀帝の相談役という地位を与えられ困惑する事になった。


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