第295話 孝賢大将の死

「誰か! 誰か来てくれ!」

 鄭将軍が大声を上げる。すると、屋敷のあちこちから人が集まる気配がして部屋に集まり、孝賢大将の亡骸を見て息を呑む。


「こ、これは一体?」

「曲者が屋敷に侵入して、孝賢大将を暗殺したようだ」

 鄭将軍は部下に屋敷の出入り口を封鎖するように命じた。そして、暗殺者を探すように命じたが、捕らえる事はできなかった。


「こんな時に、なんという事だ。どうしたらいい……そうだ、張軍師を呼べ」

 張軍師は前の指揮官である孫将軍が使っていた軍師である。


 呼ばれて駆け付けた張軍師は、部屋の様子を見て呻き声を上げる。

「ううっ……これは、まずい事になりましたな」

「どこの仕業だと思う?」


 張軍師が厳しい顔になる。

「今、戦っている敵となりますと、イングド国、ユナーツ、雷王、成王になります。その中で最も怪しいのが、雷王でしょう」


「なぜだ。この射杯省で暗殺したのなら、ユナーツが怪しいのではないか?」

「ユナーツならば、鄭将軍を狙うでしょう。孝賢大将を殺しても、ここの戦線にはあまり影響しません」


 鄭将軍は納得したように頷く。

「それは雷王も同じではないか?」

「雷王は、晨紀帝に成り代わり皇帝の地位に着きたいと思っているようです」

簒奪さんだつか、そんな事をして民が従うと思っているのか?」


「晨紀帝の評判が地に落ちれば、易姓革命の時だと人々が言い出すかもしれません」

 易姓革命とは、天子の徳がなくなり人心が離れ、徳のある他の姓に天命が下るという意味だ。


「それと孝賢大将の死が、どう関係する?」

「官僚たちに指示を出し、桾国の屋台骨を支えてきたのは、孝賢大将でございます。その孝賢大将が居なくなれば、政治が上手く働かなくなり、人心が晨紀帝から離れると考えたのでしょう」


 あり得ると鄭将軍は考えた。

「だが、雷王の仕業だという証拠がない。晨紀帝には何と報告する?」

「ありのままに報告するしかございません。但し、今話した憶測は、報告すべきではありません」


 鄭将軍の顔が曇る。

「なぜだ?」

「今の憶測の前提が、桾国の屋台骨を支えてきたのが、孝賢大将だとなっているからでございます。晨紀帝の機嫌を損ねるかもしれません」


「なるほど、難しい報告になるな。張軍師、そなたが行ってくれぬか?」

 張軍師が顔をしかめたが、すぐに頭を下げる。

「ご命令とあれば、行きましょう」


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 張軍師は首都ハイシャンへ行き、玉座の前で孝賢大将の死を報告する。それを聞いた晨紀帝は、玉座から立ち上がり目を吊り上げ、手の震えを抑えられない様子だった。


「……下手人はどうした?」

「申し訳ございません。孝賢大将の遺体を発見した鄭将軍が、すぐに屋敷を封鎖し暗殺者を探させたのですが、見付かりませんでした。鄭将軍が屋敷を訪れた時には、逃げた後だったのでございます」


「どこの仕業だと思う?」

「証拠を一切残していない事から、玄人くろうとの仕業なのは確かでございます。ですが、どこが命じたかは分かりません」


「我が国に敵対するのは、李成省の雷、蘇采省の成、イングド国、ユナーツしか居らぬ。どうしてくれよう……むっ」


 晨紀帝が腹を押さえて痛みを訴え始めた。

「陛下、如何なされたのです?」

 側近の猛奇もうきが玉座に駆け寄り、声を掛ける。


「腹が痛い。医者を呼べ」

 皇帝の主治医である仁栄が皇帝の寝室に呼ばれた。仁栄は皇帝の脈を取ってから、痛いと言っている腹を診察する。


「陛下の御病気が何か、分かったのか?」

鳩尾みぞおちに痛みを感じておられ、ゲップや呑酸がある事から、胃の腑に炎症が起きていると思われます」


「治療法は?」

「煎じ薬をお持ちします」

「その煎じ薬だけで治るのか?」

「症状を診ながら、対処していく事になるでしょう」


 その日から高位の宮廷医が総出で、皇帝の治療に当たる事になった。御蔭で忙しくなったのが、下っ端の宮廷医たちである。


 その中には町医者から宮廷医になったゲンサイの姿も有った。宮殿では周余と名乗っているが、アマト国の忍びである。


「周医官、天順殿下が訓練場で怪我をされた。治療に向かってくれ」

「分かりました」

 ゲンサイは治療の道具や薬が入った薬箱を持って、訓練場へ向かう。天順殿下というのは、晨紀帝の次男である。


「周殿か。よろしく頼む」

 天順殿下の守役である陳坤明が声を上げる。

「畏まりました」

 殿下の傷は大した事がなかった。消毒し傷薬を塗ってから包帯を巻く。


「治療は終わりました。三日ほどすれば、よくなるでしょう」

「周医官は、宮廷医の中で最も信頼できる。なのに、なぜ父上の治療をせぬのだ?」


 殿下に尋ねられて困った顔をするゲンサイ。陳坤明が笑いながら殿下に言う。

「確かに、周殿の腕は一流でございますが、まだ経験が浅いので、陛下を診る事はできないのです」


 殿下は腑に落ちないという顔をする。その後、晨紀帝の容体は良くならなかった。そんな時、天順殿下が皇帝の治療に周医官を加えよと言い出した。


 忍びとしては目立ちたくないゲンサイにとって、有難迷惑な話だ。だが、主治医である仁栄も反対しなかったので、ゲンサイは皇帝の治療に加わる事になる。


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