第5話 脳みそグルグル

 翌日、裕が目を覚ますと、まだ日の出前だった。

 トイレに向かい、用を足した後着替えを済ませて井戸に向かう。手と顔を洗い、洗濯を済ませて裕は部屋に戻る。途中で食堂を覗いて神官が何人かいるのを確認した裕は服をハンガーに掛けると食堂に向かう。


「おはようございます。朝ご飯を頂きたいのですが、どうしたら良いですか?」


 裕は丁寧に頭を下げて挨拶し、朝食を要求してみる。もちろん、日本語でである。


「ソルヴィンメ。」


 神官の一人が裕に向かって言う。裕が何のことか分からずに首を傾げていると、神官は同じ言葉を繰り返す。


「そ、ソルヴィンメ?」


 裕がオウム返しに言うと、これが朝の挨拶なのだろうか、他の神官も同じ言葉を返す。

 それに満足したような顔で神官の一人が立ち上がり、裕を手招きする。裕が従って奥に行くと、神官がトレイや食器を指して一つ一つ単語を発していく。裕が指差し復唱しながらトレイに食事を取っていくと、神官はとても満足そうな顔をして、戻っていった。


 朝食を食べていると、他の神官や子どもたちが「ソルヴィンメ」と挨拶を口にしながら食堂にやってくる。神官たちは雑談をしながら賑やかに食事をしているのに対し、やはり子どもは静かである。


 会話することも無いならと裕は食べ終わるとトレイを下げ、席を空ける。

 神官が何も言わないので、先に食べ終えることは問題ないのだろうと考え、裕は薪割りに向かった。


 作業場にはまだケンタヒルナは来ておらず、静かなものである。ケンタヒルナには片付けや掃除をするという考えがないのか、地面には木の屑が散らばったままになっている。


「掃除くらいしろよ……」


 不満げに呟きながら裕は箒を取り出し、木屑を掃き集めていく。

 集めた木屑をどうすれば良いのかは分からないが、取り敢えず集めておくのだ。

 裕はそれほどきれい好きとか潔癖症というわけではない。単に作業環境としては不適切、端的に言えば、斧や鋸を持って作業をしている最中に転んだりすれば危ない。それを心配してのことだった。


 軽く掃除を終えた裕は、丸太を引っ張り出す。六歳児である裕の腕力では、直径二十センチ足らずの丸太を引っ張り出すのが限度だ。

 手袋を着けて、鋸を手に作業を始めると、ケンタヒルナが現れた。裕が顔を上げて挨拶しても無言で睨んでくるばかりである。何を怒っているのか全く分からず、裕はため息をついて作業に戻る。


 ギコギコギコギコと玉切り作業を終えたら、鋸から斧に持ち替えて縦に割っていく。何という種類の木なのかは裕には全く分からないが、とてもきれいに割れやすく、割と楽しそうに作業を進めている。


 丸太一本の薪割りを終えて裕は一息つく。昨日よりも早い時間に開始しているうえに、作業ペースも上がっている。空を見上げ、太陽の位置を確認してみるが、お昼まではまだ時間がありそうだった。


 次の丸太を引っ張り出す。裕の腕力では、この作業が一番大変である。ケンタヒルナは手伝うどころか見向きもしない。えんやこらさと掛け声をかけながら、押したり引いたり転がしたりして、丸太を何とか作業位置まで運んでくる。


 玉切り作業は、台は使わず、丸太を地べたに置いたままでやる。丸太を台の上に持ち上げる腕力が無いのもあるが、裕の体格では台に載せると高すぎるのだ。


 鋸を手に、裕はふと思い出し、数を数えながら作業をすることにした。

 ハク・エン・サン…… とサンゴザ(二十八)まで数えるのを繰り替えす。まるでお風呂に入っている幼児のように。


 そんな裕をケンタヒルナが睨んでいるが、そんなことは全く気にせずに、カウントアップを繰り返しながら玉切り作業を進めていく。


 そして、玉切りが終わる前に昼の鐘が鳴った。



——

 バッドタイミングぅぅ。なんてこった。

 玉切りだけ終わらせて食事にするか、頑張って全部割るところまで済ませるか。


 少なくとも、中途半端に鋸を入れた状態で放置するのは嫌な感じだ。

 切りが悪いとは正にこのこと!

——



 とりあえず玉切り作業だけは終わらせることにして、裕は鋸に力を籠める。ケンタヒルナは相変わらず斧を振り回しているが、そちらはどうでも良い。


 裕が玉を切り終えて顔を上げると、既に神官が見に来ていた。棚に積まれている薪を見て、ケンタヒルナの様子を見ると、裕に声を掛けて手招きして歩き出す。


 もう良いから食事にしろということだろうか。裕は鋸と斧と片付けて、手袋を棚に戻して作業場を後にした。


 途中、井戸に向かい、手と顔を洗う。食事の前に清潔にするのは当然のことだ。裕は衛生意識が高いのだ。

 汗と木屑で汚れた顔を石鹸で流し、手拭を忘れたことに気付く。

……裕の衛生意識は大したことが無かったようだ。



 ベジタリアンな昼食を終えた裕は、作業場に向かおうとしたところでミキナリーノに捉まった。ぷんぷんと早口に何か言って、裕の手を引っ張っていく。誰がどう決めているのか、今日は紙芝居も無く、ひたすらお勉強の時間だった。


 ミキナリーノは裕に言葉を教えようと頑張っている。それが神殿の判断なのか、ミキナリーノ個人の判断なのかは裕には確認のしようが無かったが、とにかく生活に必要な言葉を叩き込まれることになった。


 まずは室内の色々なものを指して、その名称を覚えるところからだ。


 ミキナリーノ先生は、とても厳しい。勉強の時間は怠けることも甘えることも許されない。裕のほかにも何人か、文字や数字、算術を仕込まれている。

 トイレ休憩以外は全て勉強の時間とされ、夕食の頃には、みんな疲労困憊であった。




 裕が神殿生活を始めてから五日目。そろそろ、神殿孤児院での暮らしにも慣れ始めてきたかという頃合いである。


「全ッ然慣れへんわ! トイレの後、拭きもしないってどないなっとんねん! 飯は不味いわ、風呂は無いわ、やっとれへんにも程があるっちゅーの!」


 裕は、不満を、怒りを薪に叩き付けてどんどんと割っていく。しかし、裕に私の声が聞こえたのだろうか? 何の能力も無い子どもの筈なのだが……


 ケンタヒルナは相変わらずだ。ひたすら丸太に斧を打ち込んでいる。木材を無駄にしまくるのはどうなんだろう。神官は指導をしないのだろうか。それとも既に指導を諦めたのだろうか。


 裕も少しづつ言葉を覚えてきてはいるが、まだ単語を並べるだけで、文章表現になっていない。苦情を伝えるにはほど遠いレベルだ。悪口を言うことすらできない語彙力では何にもならないだろうと、無視を決め込んでいる。



 午前中は薪割り、午後からは勉強。この生活リズムは完全に固定化されてきていた。他の子どもたちは午前中は掃除や洗濯をしているらしい。


 薪割りは快調に進むが、勉強は進まない。

 当然と言えば当然である。紙も鉛筆も無ければ、自分用の教材も無い。日本の子どもたちのような勉強する環境など全くないのだ。



 紙と鉛筆があれば一時間でできるようなことが数日掛かる。

 無い物ねだりをしても仕方が無いとは分かっていても、裕のフラストレーションは大きい。


 変化のない日常に早くも飽きてきた裕が午後の睡魔に襲われていた頃、神官が裕を呼びに来た。

 神官に連れられて行くと、部屋には二人の戦士風の男が待っていた。ハンターを指揮していたリーダーと、なにかと裕をフォローしていた弓士である。

 もっとも、裕は二人の顔も名前も知らないのだが。


 挨拶を済ませて裕が椅子に座ると、戦士が一本の山刀を差し出す。

 何のことかと裕は首を傾げるが、男が鞘から抜いてみると、それは見覚えのあるものだった。

 裕が記憶しているよりも磨き込まれて綺麗になっているが、先日のモンスター襲来の際にゴブリンから奪った物だ。この戦士が手入れをしたのだろうか。

 返す、と言わんばかりの戦士の態度に、裕はありがたく受け取ってこの国の言葉で礼を言う。その程度の言葉はミキナリーノに教わっていた。


 戦士に話し掛けられるものの、裕はまだ日常会話ができるほどには言葉が分からない。

 断片的に、モンスター、戦う、明日、などの数語を聞き取れた程度である。

 戦士二人が言葉の通じない自分に対して、という事を踏まえて、内容を推測する。



——

 雰囲気的に防衛戦勝利記念パーティーの招待ではなさそうだ。

 今後の防衛に関しての打ち合わせに言葉が分からない者を呼ぶとも思えない。


 弟子の勧誘か? もしかしたら可能性が高いかもしれない。

 あるいは町の周辺のモンスター掃討の戦力勧誘だろうか。

——



 裕が考え込んでいると、神官が力強くお断りしている。

 裕には伝わってはいないが、戦力の勧誘だ。だが、神殿側としてはお断りの方針のようである。


「私は、戦う。」


 片言ながら、裕はこの国の言葉ではっきり言った。


 そして翌日の夜明けと共に、総勢二十三人のモンスター駆除部隊が町の門を出た。

 さすがに無防備の子どもを連れていくというわけにもいかず、ハンターたちが裕の装備を用意をしてくれた。

 装備と言っても革のジャケットにグローブ、ブーツ。それに山刀を背負い、腰から提げている水筒。子どもの体力に無理のない軽装である。


 日帰り予定のため夜営用の荷は無いものの、重装備の者もいるため、裕の歩く速さは遅い方ではなかった。早い方ではないのは確かだが、移動の時点では足手纏いになる様子はない。


 徒歩数時間の道を進み、モンスター発見報告があった地点付近の岩場に到着すると、リーダーは指示を出して索敵を開始する。

 数名一組で班を作り、周囲に広がって索敵しつつ前進し、ほどなく敵を発見した。


 集まってきたメンバーが敵を見て息を飲む。

 岩場の先には数え切れないほどの大量の骸骨兵が徘徊しているのだ。これは誰も想定していなかった事態だ。


「これ、どうするんですか……?」


 裕が呟き、すぐ近くにいる戦士たちも低く呻く。

 駆除隊の装備は、どう見ても対アンデッドではない。槍や剣などの刃物を主体に、毒矢を用意してきている。おそらく、オークやオーガを相手にするための物だろう。骸骨に毒など効くはずもない。

 周囲の状況を見て、裕はリーダーに駆け寄り、端的に言う。


「町。帰る!」


 その言葉に、後ろの方で誰かが喚いている。



——

 どうせ「臆病風に吹かれたのかクソガキ!」とでも言っているんだろうね。

 脳筋のバカはこれだから困るんだよ。

 アイツらは、ここで発見されたオークやオーガがどこへ行ったと思っているんだか。

 目の前だけじゃなくて、もうちょっと視野を広げて考えるとかできないんだろうか。できないんだろうな……

——



 裕は内心毒づいて、町、すなわち来た道の方角を指す。


「敵。」


 しかし、その方向には敵の姿など無い。当然だ。今通ってきたばかりの道に敵がウヨウヨしているほど彼らは無能ではない。


 誰かが嗤い、誰かが怒りの声を上げる。

 それでも弓士は大真面目な顔でその方向の敵を探す。隣のリーダーも同様に目を凝らして敵を探す。


 だが、どこにも何もいない。

 周囲の者が焦れて騒ぎはじめて、骸骨に向き直った時に、やっとリーダーには裕の言いたいことが理解できた。


「現在考えられる最悪の事態は、ここにいたオークやオーガが、我々と入れ違いで町に向かっていることだな。」


 ここに居るべき敵が居ないことにようやく気付いた。彼らは骸骨兵発見の報告は聞いていない。彼らが聞いたのは、あくまでも、オークとオーガの群の発見だ。それがここにはおらず、別のモンスターがいるというのはどういうことか。

 オークやオーガは、いったいどこに行ったのか。


 弓士の言葉に青褪める戦士たち。現在、町の防衛力は激減している。町の門扉はまだ修理途中であるし、傷の癒えていない兵も多い。

 それ以上の文句は無く、速やかに撤収が開始された。


 作戦を根本からミスっていたことにリーダーは焦っていた。

 帰り道を急ぎながらも、今となっては遅いことが次から次へと頭に浮かんでは消える。

 何より、年端もいかない子どもに指摘されるまで何も気づかなかった。骸骨兵に突撃するつもりですらいたのだ。



 駆除隊の一行は町の無事を祈りながら、歩みを早める。

 本来、彼らには町を守る義務というものはない。ハンターである彼らの多くは、今の町に定住しているわけではない。だが、現在拠点としている町が全滅したとあっては、さすがに気分が悪いどころの話ではない。


 彼らは同じ過ちを何度も繰り返しはしない。

 足が軽い者を先行させ、索敵範囲を広げて周囲を警戒しつつ、最大限の速度で町へと引き返していく。

 だが、ゴブリン一匹とも遭遇することなく町の手前まで来て、『最悪の事態』が的中していたことを知った。


「急げぇぇぇ!」


 誰かが叫ぶ。先行部隊全員が走り出す。門をくぐると、地獄の様相を呈した戦場が目に入った。


 そこらじゅうに転がる死体。血でぬかるんだ地面には、原型を留めない肉片も散らばっている。


 ハンター達は悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げて、近くにいたオーガに飛び掛かっていった。



 後続部隊とともに到着した裕は、街門付近でハンターと対峙しているオーガを無視して、その横を駆け抜ける。断続的に町の中からも悲鳴が聞こえている。それは、すでに何匹かに入り込まれているということだ。

 裕は悲鳴の方向に向かって走り、オーガを見つけた。



 石を拾い、走ってオーガとの距離を詰めながら投げつける。しかし、子どもの投石など効かんとばかりに、オーガは裕に向かい棍棒を振り上げる。


「必殺! 砂かけババア!」


 裕はワケの分からない必殺技名を叫び、掴んだ砂をオーガの顔面めがけて放ち、その足のすぐ横を駆け抜ける。

 目潰しを食らって喚いているオーガの足の腱を断ち切り、さらに残りの足へと振りかぶる。


 だが、オーガもただ黙ってやられてはいない。

 バランスを崩しながらも棍棒を振り回し、裕を追い払おうとする。


 それでも、オーガはそれまでだった。

 近くにいた住民たちの一斉投石攻撃を受けて、裕から意識を逸らし、吼えたのが最大の敗因である。


「ホームラン!」


 無防備になったオーガの足に目掛けて、裕が山刀をフルスイングする。


 盛大な悲鳴を上げて地面に倒れ伏したオーガは無視して、裕は次の相手を探してまた駆け出す。

 両足の腱を断ち切られ、立ち上がることができないオーガなど怖くなどない。

 近づかなければ良いだけである。止めを刺すのは後でゆっくりやれば良い。なんなら、明日でも構わないのだ。そんなのに今は構っている暇は無い。



 町民と対峙しているオーガを見つけると、裕は近くの建物へと飛び込む。階段を駆け上がり、小物を投げつけていた女性に汚物入れを差し出す。


 女性は目を丸くしていたが、窓から叫び、下にいる者たちに注意を促したうえで壺を放り投げる。

 糞尿を周囲に撒き散らしながら、放物線を描いて壺は地面に落ちて砕けた。


 オーガはといえば、頭から糞尿を浴びて大パニックに陥っている。

 棍棒を放り出して顔を拭うオーガに、裕の必殺技・彗星斬が決まり、勝敗は決した。


 尚、彗星斬とは三階の窓から飛び降りながら斬り付けるだけの技である


 地面に這いつくばって呻き声を上げるオーガは町人に任せて、裕は、三匹目に向かう。

 裕は肩で息をしながら走る。残りは一か所、町の南側だけだ。既に他の箇所の怒声や悲鳴は止んでいる。



「これで最後!」


 裕が神殿への道に着くと、神官数名が一匹のオーガの相手をしているのが目に入った。だが、裕は今までのように駆け寄ろうとはせず、ゆっくりと忍び寄っていく。


 オーガのすぐ背後にまで迫った裕は、尻の割れ目を下から切り上げる。

 変な絶叫を上げるオーガ。そして裕は馬鹿笑いを上げる。

 神官たちは呆れ顔である。


 ひとしきり笑ったあと、裕はオーガの脚の腱を断ち切り、倒れた隙に首筋へ止めの一撃を放つ。

 戦いを終えて裕は道端に座り込む。呼吸が落ち着くとともに、裕は眠りに落ちて行った。

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