第4話 神殿ぐらし
裕の目が覚めた。
暗い部屋。薬の臭い。頭を振り意識を呼ぶ。
裕には自分がどれくらい眠っていたのかは分かっていないが、丸一日以上眠っていた自信があった。
「ここは何所ですか? 化け物どもはどうなったのです?」
誰にともなく呟き、ベッドを下りて窓を開けると、外は穏やかな青空が広がっていた。
裕は視覚・聴覚・嗅覚をフルに使って外の状況を確認する。
近くに戦闘の気配はない。血の臭いも感じられない。
漂うは緑の匂い、そして料理の匂い。
「お腹がすいたでござる。」
裕は呟いてポケットの中を探る。
なんと、チンピラから盗んだ僅かなお金がなくなってしまっていた!
戦いの最中に落としたのだろうか。
痛恨の表情を浮かべながら、裕は部屋の中を改めて見回す。八畳程度の部屋に、ベッド以外の家具は何も無い。
裕は部屋の扉を開けて、廊下へと出る。廊下は左右のどちらにも長く続き、似たような扉が並んでいる。
「すみませーん! どなたかいらっしゃいませんか?」
裕が声を張り上げ、呼びかけてみると誰かが出てきた。
神官と思しき服を着た若い男である。裕を町から追い出そうとした人なのかは分からない。裕は人の顔を覚えるのが苦手であった。
裕が廊下に出ているのを見つけ、神官は驚いたような顔をして近づいてくる。
裕は半歩足を引いて身構える。ただし、相手を無用に刺激しないように戦闘態勢には入らない。
「ハナジルキホネェノ。」
神官が何か言った。言葉が通じないことを思い出し、裕は和かに挨拶をする。
「おはようございます。」
だが神官は変な顔をしているだけだった。
「グッドモーニング」「グーテンモルゲン」「ズドラーストヴィッチェ」「ニーハオ」「アニョンハセヨ」
何か途中から意味が違っているが、裕の知っている限りの各国の挨拶を試みると、神官は一瞬だけ顔を顰めて「こちらだ」と言わんばかりに歩きだす。
廊下を折れて進み、一つの扉を指すので、裕は開けてみる。そこが何の部屋なのか見た目では分からなかった。が、すぐに臭いで分かった。
「おトイレでございますね。」
どう見ても水洗式ではないが、汲み取り式の酷い臭いもない。どんな仕組みなのか気になるところだが、今はそんなことは重要ではない。
そう。今ここで最大の問題は、紙が無いことである!
木の葉や砂など、用を足した後に使用するものは古今東西色々あるが、ここには何もない。
「いや、これ、マジでどうするの? 小は良いとして、大の後拭かないの……?」
裕の疑問と不安は尽きないが、とりあえず、今は小だけ済ませることにした。
そして。
手を洗う所がない。室内のどこにも。
「不潔! なんというお不潔!」
裕は泣きそうになるのを堪えながらトイレを後にする。一般家庭に水道がなく、共用の井戸を使用していることは分かっているのだから、手を洗う場所が離れていることくらいは事前に想像できてもよさそうなものである。
それでもやはり用を足した後に手を洗うことができないのは、日本で生まれ育った裕にはショックが大きいものであるようだ。
裕がトイレを出ると、廊下で待っていた神官が歩きだす。
テーブルの並んだ部屋に入ると、椅子を引いて促してくるので、裕は素直に座ることにする。
神官が奥に消えていき、戻ってくるとトレイを手に持っていた。裕の前に置かれたそれは、食事らしきものが載っている。
「食べて良いのですか?」
裕が問うと神官は頷いている。
「その前に手を洗いたいのですが。」
だが神官は、どうぞ食べてくださいと言わんばかりに手を差し出している。
どうやら、食事の前に手を洗う文化も無いようである。衛生概念と言うものが欠落しているようにも感じるが、それにしては糞尿の処理は行われているのだ。裕には理解できない価値観である。
裕は諦めて食事に手を付けることにした。
堅いパンに焼き野菜、そしてスープ。栄養のバランスが悪い。肉も魚も無いメニューは、どう考えてもタンパク質が足り無さそうだ。もしかすると、この世界には栄養の概念も希薄なのであろうか。病気が切実なまでに心配である。
そんなことを思いながらも、パンを齧り、スープに口を付ける。
——とても美味しくない。
食べられない程ではないが、あまりにも原始的な調理だ。
野菜やキノコを切って水で煮ただけ、調味料が入っておらず、これといった出汁も無い。子供がおままごとで作ったような代物である。焼き野菜もナスやカボチャを切って火で炙っただけだ。
あまりにも酷い食文化である。衛生観念もデタラメだし、裕の頭の中は「日本に帰りたい」でいっぱいである。
裕が食べ終わると、神官は一人の男を連れてきた。その男は、いきなり裕の袖を掴み引っ張る。
「一体何ですか? 挨拶もなしに失礼にも程がありますよ!」
裕が強く抗議すると、通じたのか神官が男の腕を掴み、何やら言っている。
「ケンタヒルナ。」
男の子がボソッと言うと、神官が苦い顔をして彼を指して繰り返す。どうやらそれが彼の名前のようだ。
裕は自分を指して名乗る。
「好野 裕。」
笑顔で言って裕は握手を求めて手を出した。ケンタヒルナは裕の手を取り、歩き出す。握手という文化は無いのか、ケンタヒルナが礼儀知らずなのかは定かではない。
裕は、俯きながらケンタヒルナに手を引かれてついて行く。建物の外に出て、裕は少し不安になる。前回はそれで町の外まで連れ出されたのだ。それは本当にショックだったのだ。
今回はさすがにそんな非道な真似はしないようで、丸太が積み上げられた場所に来た。
ケンタヒルナは丸太の一本を引っ張り出し、斧を力いっぱい打ちつけはじめる。
「危ないなおい! 一体これをどうするのです?」
だが、返事はない。
裕は周囲を見回し、状況的に薪割をすれば良いのだと理解するが、だからこそケンタヒルナの行動が理解できない。
伐採した丸太を短く切る作業、いわゆる玉切りは普通は
ケンタヒルナは手袋もせず斧を握りしめ、掛け声とともに斧を振り下ろしている。
斧が打ちつけられるたびに木の破片が激しく飛び散り、とても危険である。服から露出した肌に当たれば怪我もするし、目に当たったら最悪失明しかねない。
斧を振り廻すケンタヒルナにドン引きしながら、裕はブカブカの革手袋を装着して玉切りを始める。もちろん、ケンタヒルナから可能な限り距離を取ってである。
裕が丸太一本の玉切りを終え大きく伸びをする。横のケンタヒルナを見ると、親の仇とばかりに斧を振るっている。武術のトレーニングにも見えないそれは、ただの無駄な労力としか思えなかった。
「それ、本当に何をしているのですか? 筋トレですか?」
ため息交じりの裕の質問は無視された。言葉が分からないにしても、振り向きすらしない無視っぷりに裕は少々不機嫌な顔をする。
裕は普通に斧を振るい、薪割りを進める。キレイに割れやすい木は楽しい。丸太一本分の薪割りを終え、転がる薪を置き場に積み上げる。空を見上げると、太陽は天高く昇っていた。遠くで鐘が鳴っている。
「ふう、まだ丸太一本ですか。ノルマは何本なのでしょうねえ……」
裕は一人呟く。
もうケンタヒルナには期待をしていない。用具置き場の隅に箒があるのを見つけた裕は、木屑を掃き集めてから一度休憩を取る。
一息ついていると、神官が現れて裕に問いかけてくる。
——
この男は何を言っているのか?
見た目、怒っている様子はない。
ならば、単に進捗確認だろうか。ここに連れてきたのは仕事をしろってことなのだろうから。
——
「丸太を一本、私が、割りました。」
裕は丸太、自分、割った薪を順に指して、最後に人差し指一本を立てる。
しかし、神官は「わからなーい」という顔をしている。裕はもう一度丸太を指し、横に置いてある鋸と斧を指し、薪を指す。そして最後に親指一本を立てる。
眉を寄せた神官は、ケンタヒルナをちらっと見る。そして、掃き集められた木屑を見て、最後に薪に近寄って見ている。
何とか伝わったのか、神官はぶつぶつ言いながら、裕の使用していた斧と鋸を片付ける。そして手招きをすると、来た道を戻っていった。
裕は手袋を元の場所に戻してから神官を追いかける。取り残されたケンタヒルナはひたすら斧を振るっていた。
神官に案内されたのは先ほどの食堂。子どもから大人まで、何人もの人が席についている。匂いから察するに、食事タイムに違いない。
裕は神官に手を見せて、洗わせてほしいと言ってみる。
分かってくれたのか、井戸まで案内してくれた。
水を汲み、桶に移して洗い場に運ぶ。なんと不便なことか。ふと見ると石鹸がある。
裕は石鹸を使って手と顔を洗って「サッパリしたー!」と言ってから気付いた。そう、タオルが無いことに。
余りの不便さに落ち込み項垂れながら、食堂に戻る。神官は裕が落ち込んでいる理由が全く分からないようで、困った顔をする。
「分からないですよねー。分からないでしょうとも……」
裕はひとり呟き、神官に促されるまま空いている椅子に座ると、男の子が食事の乗ったトレーを持ってきた。
昼食のメニューは朝とあまり変わらない。神殿の食事はベジタリアンなのであろうか。肉や魚の類が入っているように見えない。主食はやたらと堅いパン。他の人を見ると、スープに浸けて柔らかくしてから食べるもののようである。
食事をしながら、裕はふと気づいた。
ケンタヒルナが来る気配がない。神官も普通に食べてるし、周りには似たような背格好の子も食事をしている。彼は昼食を摂らないのであろうか。
そして、もう一つ。
周りの子たちは何故か一言も喋らず、無言で食事を摂っている。食事が終わった子も雑談を始める様子がない。まさか、他の子どもたちもみんな言葉が通じないということないであろう。
食事中に喋るのはマナー違反ならば、神官連中も黙々と食べているはず。しかし、彼らは普通に会話をしながら食事をしているのである。
微妙な空気のなか、食事を終えて一息ついていると、どこかで鐘が鳴りだした。
それを合図にしたかのように、というか合図なのだろう、端の神官からトレイを手に立ち上がる。
下膳は、もしかしなくてもセルフのようだ。朝の食事は出しっ放しで席を立った裕は若干気まずい思いをする。だが、あれはケンタヒルナが引っ張っていったのが悪いのだと、自分を納得させる。
大人たちから下膳を済ませ、それぞれ散っていく。子どもは偉い人の邪魔をしてはいけないのだろう。小さい子も大きい子も座ったままで順番を待っている。
裕が次の指示を貰おうと神官の姿を探すが、もう既に行ってしまったようだ。子ども達も幾つかのグループに分かれて移動している。
「どなたか、私が何をしたら良いのか聞いている方はいらっしゃいますか?」
言葉が通じないとか構わずに訊いてみる。このような場合、何もしないのが一番良くない。
掛けられた声に振り向くと、十二、三歳くらいの女の子が手を上げて裕を呼んでいる。言葉はよくわからないが、たぶん、呼んでいるのだ。
裕が近づくと、小さな子たちを連れて歩き出す。
「ふむ。この子らの子守をしろと言うことでしょうか?」
裕は激しく勘違いをしている。六歳にしか見えない裕は、子守をされる側である。
幼児の一団を連れた少女は、並ぶ部屋の一つに入ると棚から木箱を取り出した。
何をするのかと見ていると、それは紙芝居のようだった。もっとも、紙ではなく木の板に絵が描かれているのだが。
——
紙は無いのだろうか? それとも耐久性の問題で木の板が使用されている可能性もある。日本でも木製やプラスティック製の紙芝居は売られているし。
——
裕が下らないことを考えていたら、少女に怒られた。
少女はぷんぷんと早口に何か言ったあと、裕を指してあーうー言っている。きっと名前が分からないということなのだろう。
「好野 裕。」
察した裕は自分を指して名乗ると、少女も同じ様にした。
「ミキナリーノ。」
紙芝居が終わると沈黙が訪れる。とても気まずい。なぜか、だれも、一言も喋らないのだ。
子どもってのは普通、騒ぐものだろう。この状況は一体何なんだと考え込んで、裕は今さらになって気付いた。
ここにいる子はみんな孤児なのだということに。
みんな元気がないのは分かるが、ただ黙っているのが辛くなり、裕は紙芝居を片付けるのを手伝う。昔、幼稚園で歌っていた歌を歌いながら。
「かたづけ、かたづけ、たのしいなー♪」
子どもたちが一斉に顔を上げ、驚いたように裕を見ていた。ミキナリーノも手を止めてポカンとしている。
「え? あれ? 煩かったですか?」
裕が戸惑っていると、ミキナリーノが何か必死に裕に訴えかける。
「片付け? 楽しいな?」
何がまずかったのかと、裕は言葉を繰り返してみるが、反応は薄い。
「変な歌を歌うなと言うことですか?」
では、変ではない歌を歌ってみよう。選曲は、幼児を相手にと言うことで童謡から。
「一番。チューリップ。」
裕は子どもたちの前に座って手拍子をしながら歌ってみると、みんなが目をまん丸にしている。
「二番。およげたいやきくん。」
裕は立ち上がり、高らかに歌う。童謡から、と始めたことは既に忘れている。
「ラストです! 三番。翼をください。」
何故か、大盛況である。開けっ放しの扉から神官たちが覗いていたりもする。
歌い終わった裕は軽く眩暈を感じ、激しいアンコールを振り切って部屋を出る。
ミキナリーノまで手を掴んでくるので、裕は小声で告げた。
「ニーハオ。」
ミキナリーノは目を丸くすると下を向いて手を放す。いったいどんな意味なのだろう? 首を傾げながら裕はトイレに向かった。
裕は胸の不快感からトイレに来たが、今すぐ嘔吐するほどではない。とりあえず小用を足して井戸に向かう。そこで手と顔を洗い、水を飲む。サッパリするとともに、頭の靄も晴れていくようだった。
裕が部屋に戻ると、ミキナリーノと子どもたちの間に木の札が並べられていた。
様子を見ていると文字の学習のようで、「あ、え、い、お、う……」と繰り返している。
並んでいる札は三十五枚。全て表音文字のようである。アルファベット二十六文字より多いが、平仮名四十六文字よりは少ない。
ミキナリーノはさらに札を並べる。
「ハク、エン、サン、ギム、リズ、モト、ザト、ロナ、ワナ、ソー、ポー、ノキ、メイ、ジユ」
零から数えて十三まで。まさかの十四進数である。
余りの文化の違いに裕は項垂れる。
——
どうせ一年が十四ヶ月なのでしょう。そして、一日は二十八時間なのでしょう。
角度は一周で三百九十二度で直角は九十八度。
そして、九九ではなくジユジユ。一の段は除外するとして、覚えるべきパターン数は十三×十二÷二。つまり七十八パターン。
さらにそれが足し算と掛け算それぞれあるので、百五十六パターン。
とにかく、まずは数字を覚えないと……
——
半ばウンザリしながら、裕は呪文のように「ハク、エン、サン、……」を繰り返す。
裕は、文字・数字との戦いに疲れ、立ち上がって伸びをする。
——
勉強も良いけれど、子どもは外で遊ぶものではないですか? 天気も良いのですし、暗い室内に籠っているのも不健康でしょう。
目いっぱい体を動かしていたほうが、嫌なことも忘れられるでしょうに……
——
そんなことを考えながら、裕は窓から外を眺める。
陽が傾いて影が伸びてきている。
「ゴムボールでもあれば色々出来るんですけどねえ。」
裕は呟き、空を見上げる。今日もよく晴れている。空に向かってため息一つ。裕はホームシック気味だった。そしてその自覚があった。
「カルチャーギャップが激しすぎるんですよ。」
夕食も粗食であった。やはり肉や魚は影も形もなく、味付けという概念すらないのか、塩の一つまみすら入っていない。それでも裕は、食事が出てくるだけマシだと思い、残さず平らげる。
もともと、裕は味の薄い食事は大して苦にしない性質である。それでも不満に思うくらい、神殿の食事には味がないのだ。
夕食が終わると、もう日没が迫っていた。神殿の居住部には照明が無いため、日が沈んでしまうと室内は真っ暗になってしまう。そのため神殿生活は、日の出とともに起きて、日の入りとともに寝るのが基本である。
食事を終えて部屋に戻ろうとした裕は、神官に生活用品一式として替えの服・手拭・ナイフなどを渡された。
あまり歓迎されていない雰囲気を感じていた裕は驚きながらもありがたく受け取って部屋へと戻っていった。
「歯ブラシはないのですね。」
一式の包みを開けて見てみるが、タンブラーやナイフはあるものの、歯ブラシや歯磨き粉の類は入ってはいなかった。
日本人の裕としては、食後、あるいは寝る前にくらいは歯磨きをしたいところである。
裕はベッドに倒れ込み、半ば不貞腐れながら、どうしようか、と考える。
現代日本で普及している歯ブラシが発明される前は、どのようにしていたのか? 江戸時代の人たちは歯磨きをしなかったなんてことはないはずである。諸外国でも、歯磨きはしていたはずだ。でなければ、みんな虫歯で大変なことになっている。
何かあったはずだ、と裕は記憶を掘り起こす。
「思い出した、楊枝だ。爪楊枝じゃない方の!」
ぽん、と手を打ち身を起こすと、部屋から出ていった。
向かった先は、薪割り作業場だ。
ケンタヒルナが大量に生産した木の破片を拾い、それをナイフで細く削って楊枝を作る。その先端を噛み潰してそれで歯磨きをするのだ。
さらに、顔と手足を洗って、部屋に戻る頃には完全に日が暮れていた。
こうして、裕の長い一日が終わった。
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