第5話

 

 「ねぇ唐君、登山って興味ある?」

 そんな時だった。未玖から誘いを受けたのは。

 1人図書室に残って勉強していた俺の正面に座り、スマホの写真を見せてくる。いつもなら恋春を誘っていたが、今となっては1人の方が気が楽だ。

 

 「この山、最近雑誌でパワースポットとして取り上げられてたの」

 「あぁ、近い場所やん」

 「ねぇ、付いてきてくれない?」


 俺は思わず「え⁈」と目を皿のようにして叫んだ。


 「お前他に友達いなかったっけ?」

 「女の子だけで登山するの不安なんだもん」


 脳裏に申し訳程度に恋春の顔が浮かんだ。

 今の俺を彼女に繋ぎ止めているのは、最早情けのみである。

 「恋春ちゃんのこと気になってるの?」

 俺の胸中をなんとなく察したのか、未玖がそう尋ねてきた。

 「あ、いや…」

 こてん、と首を横に傾ける彼女。

 頬には穏やかな笑みをたたえていたが、俺を見つめる双眸は恐ろしいほど無感情だった。

 「バレなきゃ大丈夫だよ」

 そうだ。バレなきゃ大丈夫だ。が、まだ完全には恋春を切っていない状態で、別の女子と2人きりで会うという行為を良心が咎めていた。


 煮え切らない様子の俺に、未玖が軽くため息をついたのが分かった。

 「ねぇ……」

 そのまま机に身を乗り出して上半身を俺に近づけてくる。

 何をするのかと身構える暇もなく、ギュッと右手を彼女の両手に掴まれた。

 驚いて思わず見上げた時の未玖の表情は、先程の優しい笑みからは想像もできないほど憂いげで、艶やかで……、


 「…未玖を選んでよ?」


 その瞬間、俺の良心が壊れる音がした。

 かつてはあれほどにまで強かった恋春への思いが、彼女を裏切ることへの罪悪感が、潮が引くようにすうっと消えていった。

 恋春と過ごした半年間が本当に存在したのかすら怪しかった。たった一瞬で人間の気持ちなど簡単に変わってしまうということを身を以って実感した瞬間だった。

 ボーッとしたまま首を縦に振ると、未玖はうっすらと微笑んだ。


 

 その週の日曜日、俺は最寄駅で未玖と待ち合わせをし、2人して電車に乗って例の山へと向かった。

 標高800m程の山で、ハイキングに来ている人も多いため道に迷う心配も無い。

 「この山の中腹辺りにね、おじいちゃんの別荘があるの」

 だから万が一遭難したとしても、そこにたどり着ければ大丈夫。

 そう付け足して彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。


 長い山道だったが未玖が程よいスパンで話しかけてきてくれたので、苦痛が紛れたし、気まずさを感じることも1度も無かった。

 やはりこの子は空気を読むことや、人との距離感を推し量る能力が優れている。

 未玖と山を登っている間、俺の頭の中に恋春のことなどは1ミリたりとも浮かんでいなかった。彼女など、俺の中ではもういないも同然だった。


 昼間に差し掛かった頃、雨が降り始めた。

 「この後段々強くなるみたい」

 スマホを見ながら未玖がそう言う。

 「もう少し歩いたらおじいちゃんの別荘だから、そこでしばらく休憩しよっか。誰もいないし」

 俺はうなずいて彼女の後に続いた。


 しばらく歩いて見えてきたのは100坪くらいの和風な屋敷だった。

 庭も雑草が刈られていて綺麗だった。時折誰かが来て手入れをしているのだろう。

 中に入ると内装は外観と反して割と近代的だった。

 フローリングの床に、天井にはシャンデリア風のライト。壁には思い切りピカソの絵が飾られていた。


 「そこ座ってて。何か飲み物作ってくる」

 未玖はキッチンの近くにあったテーブルを指差して、パタパタと廊下へと出て行った。

 飲み物を作るのにどうして廊下へ行く必要があるのだろうか。

 椅子に座って待っていると、数分後未玖は帰ってきて、キッチンでお湯を沸かし始めた。


 「ねぇ未玖」

 「ん?」

 「何で今出て行ったの?」

 「…………」


 未玖の視線は数秒間虚空を泳いだ後、俺の目と合った状態で止まり、

 「………別に、お手洗いだよ」

 と、恥ずかしそうに細くなった。

 「あー、ごめん」

 明るい声を立てて笑う彼女の動きに合わせ、何かがカサカサと揺れるような音が聞こえていた。


 「はい、紅茶飲めるよね?」

 やがて未玖が2人分のコップを持ってきて、青い方を俺の前に置いた。

 「ありがと」

 彼女はうなずく代わりに微笑んで正面に座り、自分の赤いコップで紅茶を飲み始めた。

 それを見て俺も同じように自分のコップに口を付け、その中の物を飲み下した。



 「おいし?」



 目の前で頬杖をつき、油を塗りたくったような瞳でこちらを見下ろしている未玖。

 その問いかけに、俺は答えることが出来なかった。

 何だこれ、強烈な眠気が襲ってくる。目を開くことができない。眠い。眠たすぎる。

 「"どうして廊下へ出て行ったの?"」

 机に突っ伏した状態で、彼女の声だけが聞こえてきた。

 「…"どうして廊下へ出て行ったの?"」

 オウムみたいにまた繰り返す。無機質な、無感情な声で。


 ……どうして廊下へ出て行ったの?

 そう問うた過去の自分に、決して届くことの無い回答を未来から訴えた。

 それは、紅茶の中に混ぜる物を取りに行ったからだ。早く、早く逃げろ。

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