うつろいと共に


 ジャンボと言うほどはジャンボではないが、かといって比較的大きくはあるためジャンボではないと強くはいえないたこ焼きを、私がちょうど食べ終えた頃、小豆島からの出港を知らせるアナウンスが館内に流れた。

 アナウンスが終わるのを待たず、船が例のごとく震え始める。二回目ともなればもう慣れたものだ。

 船が小豆島を離れきる前に、といそいそと準備を始める。鞄やリュックの整理を終えて、高松に着いた後の予定を再度一通り確認すると、ソファー席から立ち上がり、茣蓙ござを片して元の場所に戻した。

 私のいた場所の周りに人がいなかったので、さっきまでいた一角を写真に残し、階段を上がっていった。


 高松までまだ一時間ほどあるらしいが、私は心地良いソファー席を離れて階段を上がり、フェリーの四階まできていた。

 四階には少しの座席と、ちょっとしたゲームコーナーのようなものがあった。ただ、私の興味はそこにはない。この静けさには少々不釣り合いの騒がしいゲームコーナを通り過ぎると、半開きになっていたドアに手を掛ける。



 ――ギィィ

 と潮風にさらされながらも働くドアの留め具が、年月を感じさせる音を立てる。

 外から風に吹かれているので、実際のドアより少し重く、強めに力を込めてドアを押した。

 ドアを開けると船の外に通じており、ちょっとしたバルコニーがあった。手すりの方まで行くと、船の後ろ側の甲板に、車が何台か乗っているのが見えた。船は長い間、多くの車を乗せてきたのだろう、元々青色だったように見える床の塗装が剥がれて、茶色いさび色がその大半を占めていた。


 また、その甲板より後ろに目を向けると、船が海面上に大きな道を作っていた。

 その道は遠くに見える小豆島からずっと続いていて、過ぎてしまった夏のさみしさと、これから向かう新たな夏への期待の両方をはらんだような、そんな美しさがあった。

 過ぎていく小豆島は、遠ざかってみて初めて分かったが、港の周りには結構な数の民家があったらしく、昔ながらの瓦屋根が並ぶ町並みが、小豆島の緑に映えてとても綺麗だった。



 

 しばらく去りゆく小豆島を眺めた後、私は細い階段からさらに上に行く。

 実は始めに船を見回ったときに、後で絶対に来ようと計画していた場所がある。私の見立てが間違っていなければ、ここはおそらくこの船最大の魅力だろう。期待に胸を躍らせながら少し急な階段を登りきった。


 周りに遮蔽物が一切ない為、西からの吹きさらしの海風が全身に襲いかかる。開いていた目に風が入って、思わず目を閉じて、近くの手摺りにつかまった。そうして、もう一度目を開くと、想像していたものを遙かに超える景色が視界いっぱいに広がっていた。

 ここは、わたし的この船の最大の魅力、"屋上テラス" だ。



 はじめに目に映ったのは、一面の青だった。今日だけでももう何度となく夏の青に見せられていたから、もうこの旅行が始まった時のような、衝撃的な感動には出会えないだろうと思っていた。

 しかし、目の前に広がる瀬戸内海の景色は、それを良い意味で裏切ってくれた。瀬戸内の景色は、自然の総合芸術といった感じだった。


 四方を囲む海は深い青色に染まり、潮風で小さく揺らぐ海面を日の光がきらきらと照らす。辺りには島々が点々と見られ、夏の緑が島全土を覆う様に茂っていた。ただの海なら一辺倒な景色だが、この島々の緑が所々にあることで、濃い緑が海の青とうまく調和しながらも、良いアクセントにもなっていた。


 何より私の心を打ったのは、いつもは頭上にしかなかった、この夏私を誘ったあの空が、私を囲んで地平線の彼方まで広がっていたことだった。

 空だけではない、海も雲もさっきまでいた東の大陸も、東側に見える地平線まで流されてしまっていた。

 もう一生変わらないと、もう一生を共のするのだと諦めていたあの土地が、もう今ではただのうすぼんやりとした線にしか見えない。数時間船に乗るだけで、影も形も見えなくなるようなものに、私は縛られ続けていたんだ。

 その地平線をみていると、なんだか今まで抱えてきたものが、凄く馬鹿馬鹿しくなってきた。

 少し大げさなようだけど、でも確実に、私はその瞬間、その景色に救われた。

 自分がこの旅に、自分の人生に求めた、私の中の世界の価値が、そこにはあった。月並みだが、本当に母なる海に包まれているかのような安心と幸福がそこにはあった。




 この旅で気づいた事だが、どうやら私は、何も煌びやかな美に価値を感じるわけでないようだ。

 むしろ、明るいだけ、綺麗なだけではない、不安定でいて、ただあるがままの、そんなどこにでもあって、いつまでもはない。時間が生み出して、時間が壊す。人が作っただけの、美しいだけの美ではなく、所々粗がみられて完璧ではないありのままの美しさ。そんなものを私は求めていたようだ。


 私の眼前に広がるものは、まさしく私が求めたものだった。触れることも出来ないあの雲や、眼下の海の小さな波一つにしても、時間が流れてしまうと二度と同じものは見られなかった。美しかった景色は、瞬きの間に次々と違うものへ変わってしまう。

 流れる雲が太陽を隠し、海に光を落とさないこともある。その時、先ほどまでそこにいた輝く夏の美しさはいなくなってしまうが、今度は影の中からみる夏に、先程までとは違う魅力があることに気づく。

 変化を怖がる私を放って、世界はどんどん姿を変え、変化への不安の先を見せつけるようにして私を誘う。とめどなく変化する夏の景色は、変わって移ろいでいかなければ、得ることの出来なかったものを、私に示しているように思えた。



 風が西から東へ、白い雲を押し流していく。船が進むにつれてさっきまで見ていた景色がどんどん全く違うものになる。

 この旅で何度か味わった感覚だが、瀬戸内の景色の変わり様は今までの比ではなかった。辺り一面に広がる夏は、どこをみても釘付けになってしまいそうなほどで、いくら写真や動画を撮ってみても足りなかった。それに何より、残しておきたいからカメラを回してはいるものの、スマホのカメラも加工カメラも、目の前に広がる夏の美しさを完璧に切り取ることが出来ていなかった。

 今ここで暑い日に当たりながら、人の視界では捉えきれないほどの大きな夏に全身を囲まれることによってしか、この感動は、目の前の夏は、捉えられないものなんだと思った。


 それが凄く心地よくて、さっき加工カメラに感じた寂しさは一切感じず、むしろちょっとした優越感すら感じていた。勝ち誇るように胸を大きく張って、強く吹き付ける風を浴び、大きく深呼吸をした。

 風に押されて流れ込んでくる潮の香りが、一瞬で私の肺を満たした。私の身体は、今完全に夏になった。

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