夏のはじまり
息が、できない。空気を、空気をともがく度に、肺から空気が抜けていく。はく時は私の意も介さず勝手に出ていってしまうのに、ひと息吸うとなったら一苦労だ。
呼吸をしようと思っていた頃はまだましで、今では、いつ吸っていていつはいているのか、そもそも吸えているのか、と呼吸の仕方を忘れてしまった。
上手く呼吸が出来なくて、意識は朦朧として、手足はどんどん動かなくなった。手足が動かなくなると、私は無抵抗に沈んでいった。いっそ底についてしまえば終わる気がして、落ちていくほうを一瞥するが、そこには暗い暗い無限があった。私はどうしようもなく怖くなって、体を小さく丸めて、無限に背を向けて沈んでいく。遠くに見える鮮やかな青が、眩しく私の目に刺さった。
いきすぎなくらいの重低音を奏でるギターと、ドラム破壊工作でもしてるのかと疑わしくなるほど荒々しく打楽器をたたきつける音が、爆音で部屋中に鳴り響いている。しばらくすると、のっけから独特な歌い方をするボーカルが、早口に、何か聞き取れない歌を歌い始めた。朝か。
「!!!!!???!?!?!」
まだどうにも眠い。クーラーをつけっぱなしで寝たからか、口がカラカラに渇いていた。なにかを飲もうかと思うが、けだるくて動けない。朝は弱かったのは大学までで、今は克服したつもりだったんだけど、三つ子の魂百までというやつだろうか。なんともだらしない大人だ。
「~~~!?!!!?!?」
しかし、昨日は早めに寝たつもりだし、よく寝られたはずだけど、その割にずいぶんと瞼が重い。そういえば何か夢を見ていた気がするけど、……よく思い出せない。あんまりいい夢じゃなかったような気もするし、クーラーつけっぱなしだったのがあまり良くなかったのかな。
うまくまとまらない思考を振り払うように寝返りを打つ。また一段と重くなる瞼に抵抗することなく促されるまま入眠する。せっかくの休日だ二度寝としゃれ込もうか。
「……GIYAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!」
「さっきからうるせぇ!!!」
勢いよくスマホをたたく。それでもまだ騒ぎ続けるので、いつものように素早くアラームを切る。こういったジャンルの曲はあまり詳しくはなかったのだが、朝弱い私が社会で生きていくために、なんとかたどり着いた最終解がこれだった。
でも、こんな使い方してることがファンの方にばれたら、確実になき者にされるだろうな。とりあえず起こしてくれたことに関して感謝しておこう。未だに何言ってるか分からんけど。
ようやく意識がはっきりとしてきた。身体大きく伸ばして、活動の体制に入るよう全身に通達する。身体は私より早起きのようで、起きたばかりだというのに今日の予定を思い出してうずうずしていた。寝付きが悪かったとはいえ久々にゆっくり寝られたからだろう、近年まれに見る身体の軽さだった。今ならフルマラソンも完走できそうだ、したくはないけど。
ベッドから起き上がって、冷蔵庫から冷えた水を出し、渇いた喉に流し込んだ。食道から胃にかけて一気に体温が下がるのが分かる。冷たい水が気付けになって、ようやく完全に目が覚めた。
携帯を確認すると、朝の六時半、予定通りに起きられたようで安心する。夜のうちにたまった通知を一気に消して、もう一度船の時間を確認する。諸々確認が終わると早速朝支度を開始する。余裕は持って起きたが、早めに用意しておくに越したことはない。朝支度用のポーチを持っていそいそと洗面所に向かった。
朝の支度を終えると荷物の準備を始める。といってもだいたいは昨日の晩に済ませてあるので、大きなリュックとは別に、持ち運びに適した肩に掛けるタイプの小さな鞄に、お財布や昨日もらった時刻表、買った紅茶などを詰め込んだりした。
荷物の準備を済ませたら、それをひとまとめにして入り口近くに置いておいた。後は部屋中を見て回って忘れ物がないか確認する。それほど荷物は広げてないが、こういうのは念には念を入れておいた方がいい。あまり自分を信じすぎると痛い目に遭う。大人になる過程で大雑把な私が身につけた処世術の一つだ。
一通りの確認をすませると、今更部屋が暗いことに気がついた。窓の方へスタスタと歩いて行くと、勢いよくカーテンを開けた。
一気に光が入ってきて、反射で目を瞑る。瞬きくらいの合間でまた目を開けると、眼前には早朝の三宮の風景が広がっていた。暗くて昨日は気づかなかったが、八階ということもあって、近くに高いビルがいくつかあるくらいで、なかなか見晴らしは良かった。朝の太陽の光を浴びるというのは良いものだ。このすがすがしさは他には代えがたいだろう。そんなことを思うとは、数日前まで朝日を恨めしく睨み付けていた人間とは思えない。自分の変化が面白くて、しばらくそこで、ご満悦に外を眺めていた。
「!??!!???!?!!!!!」
しばらく、ぼーっとしていたら、堕天使達がまた世界に対する恨み辛みを叫びだした。出発時用につけておいたアラームだ。
それにしても起きてるときに聞くと余計うるさいな、そりゃ私も起きる。というか、よく考えると、これで起きても強制的に起こされてるだけであって、朝を克服したことにはならないのでは。
さっきとは違い、落ち着いてアラームを止める。時間を確認して再度忘れ物がないか見て回る。最後にいくつか記念に写真を撮って、部屋を後にした。
チェックアウトを済ましてホテルを出ると、少し早めに出たので昨日と違う道から歩いて港に向かう。ブランドショップが並ぶ通りも、さすがに朝ということもあって、昨日の夜の絢爛さはなかった。時間帯で街の表情はずいぶんと変わるものだ。
途中、公園の近くにあったコンビニで飲み物や、熱中症対策に塩分タブレットを買った。フェリーの中で飲み物を買うと高いかもしれないし、何だったらそもそも自販機もないかもしれない。念には念の精神が板につきすぎじゃないか私、それもうただの心配性では。
コンビニを出て公園を抜ける、どっかの心配性のせいでいやに重いリュックを揺らして港に向かう。
隣の大きな道路では、朝から車が道路を忙しなく行き交っていた。私たちの休日は、こういった大人達のおかげで過ごせているんだろう、まったく頭が上がらない。
大きな通りにさしかかると、歩道橋を渡って向こう側へ行く。この歩道橋を渡ればもう港はすぐそこだ。
少し高い場所に上がったからか、さっきより強い風を受ける。潮風だ。止めどなく流れてくる海の香りに誘われて、また一段と歩くスピードが上がった。私はもう、夏を目の前にしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます