見知らぬ町の知らない空
「あっっっっっづ……」
三ノ宮に着き、駅から出るとまだ午前とはいえ真夏だ、あと五度でも上がろうものなら体のタンパク質がたちまち溶けていきかねない暑さが私を迎えた。
駅を出て夏の熱気にやられそうな心を何とか保ち、私はフェリー乗り場に向かう。
今日はもうこの三宮でのんびりするつもりだが、明日のフェリーの券を先に買っておけないものだろうかと、チェックインまでの暇つぶしがてら、港の方へ足を向けていた。
駅を出た時は、私の家の周りとさして変わらない、窮屈なビルばかりの街だと思い少し気分が落ちていたが、海の方に歩けば歩くほど視界が開けてきて、落ち着いた雰囲気になっていった。
それに、よくよく観察してみると私の住んでいる街と違って、広告がそれほど多くない。場所を取り合うように、つけられる場所はとりあえずつけとけ、とでも言わんばかりに広告がある私の街とは違って、それは統一の取れた一つの街の景観として成り立っていた。
同じビルでも場所が変わればやっぱり違うものなんだ。
私以外の人は、そんな当たり前のことって言うのだろうか、よく考えてみれば確かに当たり前なような気もする。そんなことに気づけないほど、私はあの街でしか生きていなかったんだろう。
港の近くのコンビニでスポーツドリンクを買って、乾いた喉に流し込んだ。いつもなら少し甘すぎると感じるのに、今日は格別に美味しかった。汗、いっぱいかいたからなぁ、とか考えながらぼーっと夏の空を見る。
私は、今違う街の空を見てるんだ。そうやって確認も要らないことをいちいち確認しては、なんか変な感じがして頬が緩んだ。
あっちで見上げた空よりも、今日の空は一段と青く透き通るように綺麗だったから、今年は良い夏になる、そんな予感がしていた。
海の匂いのする風が髪をバサバサと揺らす。もう港はすぐそこだ。潮を帯びた風に吹かれて、髪はいつもよりパサついていた。乾いた髪が瞼や額にあたるのは鬱陶しいが、体が夏になっていってるみたいで、きしむ髪自体はそれほど嫌な気はしなかった。
あのまま、今年の夏もどこにも行かず、今もあそこにいたのなら、きっとこの髪はいつもと変わらないままだったろう。潤いを保ったまま、変わらないまま、同じくらい汚れて、同じようにケアする、何も変わらない当たり前の今日だっただろう。
そう思うとおかしくて、昨日の私に見せびらかすように、変わった私に触れて確かめるみたいに、かさついた髪をかき上げて、額の汗を拭った。
まだ私の夏は始まったばかりだというのに、どうにも感慨にふける時間が多い。コンビニ外のベンチから離れようとしない体に、一際強い潮風が吹いた。それがなんだか夏に急かされてるみたいで、もう一口喉を潤すと、勢いよくベンチから立ち上がって、待ちきれないみたいに早歩きで港へと歩き出した。
「この時間のチケットは予約が必要ですね」
「なるほど予約ですね……、え?」
夏にあげられた体温が、受付のお姉さんの一言で一気に下がった。
お姉さん、そういう心臓に悪いことはもう少し深刻そうな顔で言って欲しいな、その無表情、結構クるものがある。
「あの、ここのホームページで確認した時に、八時の船は予約いらないって書いてあったと思うんですけど……」
そう、私もさすがに社会人。フェリー乗るのに予約した方が良いかな、と事前に確認はしっかりすましているつもりだった。今驚いているのは予約が必要なことに対してではなく、では私が確認したと思っていたあれは何なんだということだ。まだ若いと自負しているが、それでも私も一人の大人の女だ。責めるつもりはないが、きちんとした説明を求めて、まっすぐお姉さんを見つめて訊ねた。
「ただ今、お盆のシーズンですので、どの便もご利用になるお客様が多数いらっしゃいます。人の少ない深夜便など以外はご予約をいただくようお願いしております。少し小さくて恐縮ですが、こちらのホームページの見出しにも、お盆シーズンの便についてというお知らせをさせていただいております」
すっ、とお姉さんが見せてくれたタブレットには、「夏季(盆シーズン)の運行について」という見出しが、件のページのトップにしっかりと表示されていた。
予想の五十倍きちんとした回答が返ってきてしまった。責めるように聞いたさっきの私が恥ずかしい、完全に私の確認ミスだった。大人の女とか言っていた五秒前の私を目の前の海に沈めて欲しかった。
「あの、今から予約しても間に合うものなんでしょうか?」
もし穴があったなら今すぐ埋葬して欲しいというほどの恥を忍んで、恐る恐る訊ねた。お姉さんは少し端末や予約情報の書いている紙か何かを確認しながら。
「恐らくまだ大丈夫だと思います。ご予約はこちらの紙に記載されているこの番号にお電話ください」
と言って、ピンク色の、時刻表などが書かれた紙を手渡してくれた。
ご丁寧なことに、紙の下の方に記載されている私が今からかけるべき電話番号に、黒いペンで丸をつけてくれていた。
私は早急に明日の便を確保するべく、というかここにいては恥ずかしさで焼け死にそうだったので、すみません、ありがとうございます、とぺこぺこ頭を下げながら、どうにも開くのが遅い自動ドアの前でぱたぱた足踏みして、開いた途端、脱兎の如くそそくさとその場を後にした。
フェリー乗り場から出てすぐ、コンビニまで早足で逃げてきて、さっきのベンチに腰掛け、黒い丸で囲まれた電話番号に急いで電話をかけた。
結論から言うと予約は驚くほどあっけなく取れた。窓口が夕方までということで急いで、早口で予約の電話をしたものの、それなりにチケットは空きがあったようで、ほんの五分程度で予約は終わった。
もしフェリーに乗れなかった場合、バスで、レンタカーで、と最悪の事態を想定していた私の緊張を返して欲しい。
けれど、何はともあれ旅が始まって早々、旅が終わるような事態は避けられた。そんなことになっては目も当てられない。フェリーのチケットが取れなくて、きれいなままの荷物を背負って誰もいない自宅にとんぼ返りする夏とか、むなしいにも程がある。
ふぅ、と安堵とも幸先の悪さへの不安ともいえない吐息がこぼれる。
私は結局ミスばかりだ。やっぱり私は何も変わらないのか。そうやって考えているとどんどん落ち込んでいってしまいそうだった。
そのまま際限なく下がっていってしまいそうな鬱屈とした気分を、どうにか変えようと一つ大きく深呼吸して、日向へ体を出した。
もう日はてっぺんまで登り切り、夜を迎えるため傾き始めていた。港の周りはそれほどビルが多くなくて、はっきりと太陽がまだどこにいるか分かった。
そういえば、あっちだとこの時間は、明るくはあるけど、もう太陽の姿は大きなビルの陰で見えなくなっている頃だ。
上を見上げても、狭いビルの間から、やたらめったら明るいだけの狭い空が見えるだけだった。ため息が出るのが分かっているのに、昼休みにはいつも空を見上げてしまう。
何かを変えて欲しくて、違う世界に縋りたくて、求めるように空を見上げるのに、あるのはただ明るい青と白。人が描いたと言われても別に驚かない、小規模でビビットなだけのただの色。鮮やかな夏の色に目が疲れて、視線を下に逸らすと、見えるのはシャツの背中と、黒い靴、道の端のパンのゴミ。
それで、あぁ、私の世界はこんなに狭いんだって思い知らされる。そんな昼休みが私の日常だった。
そんないつもの癖でつい、死んだ魚のような目を、目の前の明るい空に向けた。
がむしゃらに騒ぐ蝉の声と、昼を過ぎ一層強くなった日差しが、夏の空から降り注ぐ。久々に太陽を見た眩しさに目を落とすと、視線の先では青々とした緑が、花壇や歩道に茂っていた。街路樹に満ちた夏の緑に目を奪われていると、さっきまで鳴いていた蝉の一匹が、港の方へ飛んでいった。蝉の飛んでいった先には、私が昼休みに、いつも夢描いていたあの空があった。
そうか私は今、夢だった空の、すぐ側まで来ているんだ。
絡まって離れない昨日までの私を解くように、大きく体を伸ばしながら日に当ててやる。すると途端玉のような汗が額に浮かんで、次第に服が湿る感じがした。どれだけ水飲んでも喉が渇く。スニーカーの靴底が、アスファルトに焼かれて熱くなる。
そんな夏に囲まれた中、私はやっとこさ重い腰を上げて、あーとかうーとか言いながら、涼しいホテルに向かって歩き出した。
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