越海
水縹 こはる
プロローグ「私」
あんなものに意味などない。空なんて見上げていてもなんの物種にもならないからだ。
どう足掻いてもここからは出られなかった。四方は壁で囲まれ逃げ道もない。今日を生きていくには、輝く空を見ているより、足下にある実益を拾うほうが無難だ。
ここでは夢なんてものは見るだけ無駄だった。ただ目の前のことと向き合うだけ。そうやってなんとか今日の生を繋ぐ、なんとか明日の雨を待つ。そうしないと生きていけなかった。
空なんて見上げると、悔しさで目から溶けていってしまいそうで、目をそらすようにうつむいて、ただぽつぽつと地面を濡らした。
「まもなく、三ノ宮、三ノ宮です。お出口は右側です」
無機質なアナウンスが車内に流れる。もう目的地は目の前らしい。
アナウンスを聞き逃さないように、少し下げていた音楽の音量を上げて、慌てて降りる支度をした。財布はここ、飲み物はこっちとばたばた慌ただしく整頓を始めたものの、列車は一向にスピードを落とす気配をみせない。どうやら新快速だからか、やや早めのアナウンスだったようだ。元々そんなに荷物を散らかしていたわけでもなく、「まもなく」なんて嘘じゃないか…と独りごちながら、降りる準備万端できちんと座っている自分がどうにも所在ないので、また窓をぼーっと眺めることにした。
実は、人生の三分の一ほどの時間を今までずっと関西で過ごしてきたにも関わらず、三宮という場所に訪れるのはこれが初めてだった。何となく聞いていた話では華やかな場所、との事だったのでさぞ騒がしい街並みで、息苦しいところなんだろうと思っていた。
だけど、そんな私の偏見は見事なまでに打ち砕かれることになる。
朝、人でごった返す最寄り駅から、なんとか座席に落ち着いて、混雑していて騒がしい電車に乗っていく。落ち着いた曲のプレイリストを流しながら、私生活の忙しさから熟成に熟成を重ねた積読から、適当に選んできた本を読む。
二十分もしないうちに、ビルの森を抜けたのか左側の窓の方が明るくなる。何気なくそちらに顔を向けると、窓一面に海が見えた。
その美しさに夢中になって、読んでた本を栞もしていないのに閉じてしまった。
私の町から見る海と、たしかに同じ海のはずなのに、北側から見るとこんなに綺麗だったのかと驚いた。
空がずーっと向こうまで続いていて、雲が風に気持ちよさそうに流されている。その青は自ら光を放っているのかと感じるほど鮮やかで、家族旅行中の子供さながら窓に顔を近づけて、じーっと外を眺めてしまった。
四人がけの席に座っていたので、前の男性の怪訝そうな目線が少し痛かったが、私はその青から、もう目が離せなかった。
電車に乗ってたった三十分もしない程度の場所に、これほど美しいものがあっただなんて、知らなかった。
私の世界は、いつの間にかずいぶんと窮屈な世界になってしまっていたらしい。それがなんだか悲しくて、でもそれ以上にうれしかった。世界ってどこにでもあるんだ、なんて当たり前のことに気づいて目頭が少し熱を帯びた。
電車が進むにつれ、ずっと背中についていた憑き物が剥がれ落ちていく感覚があった。あの場所から一度離れるべきという私の直感は、どうやら間違いなかったようだ。
軽くなった体を緊張から解放するように、私は体をぐ―っと伸ばした。体が緩むと自然と空気が肺を満たす。なんだかそれがすごく懐かしいような気がして、勿体ないから少し我慢してみるが、すぐにしんどくなって勢いよく空気を押し出した。
なんとも清々しい気分だった。まだ旅も始まっていないというのに、なんだか目標を叶えてしまったような感がある。
しかし、それもまた随分と私らしい。どうせ何もかも思い通りにいかない人生なのだ、目標など面倒事が増えるだけで特に必要ない。
戻ることなど許してくれそうもない大きなリュックが私の太ももを押さえ付ける。仕方が無い、ここからは目標も何も無い、ただ自分が追い求めるままに、適当気ままに旅をしよう。
目標を失ったというのに、どうしてかさっきまでより旅への活力に満ちていた。不思議と長い間思い出せていなかったが、そういえば私は結構自分勝手な性格だった。
もう男性の視線は気にならなかった。私が海を見ている時、彼は私を訝しんでいた。そんなふうに、彼と私の見る世界は違って、ならば生きる世界もきっと違うだろうから、彼の世界の私がどれだけ変でも私には関係ないことのような気がした。一度そう思うと、途端に全部が楽になった。
遠くの青に魅せられながら、窓から伝わる暑い夏が、私の胸をくすぐった。あの空が、手招きする夏に早くかけ出したくて、体がうずうずした。そんな美しい風景は三ノ宮駅に着くまで続いた。
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