未だ生を知らず

和智礼思

未だ生を知らず

 私はただの高校生。どこにでもいる制服を着た女。学校を卒業したら、どこにも所属しなくなったら、私は誰とも区別が付かなくなる。


「未だ生を知らず、多分ずっと生を知らず。“生”に価値を見いだせない」


 ただ生きる意味がわからなかった。生きる意義が見つからなかった。今まではそれを考えてこなかったから生きてこれた。

 だが、ふと考えるとよく分からなくなる。


「今日で部活も引退か……」


 ただ無自覚に教育を受け、何も極めず、ある程度の社会の成り立ちを知り、過去の偉人を尊敬しては今まで社会や文明を構成してきた全ての人々に感謝をする。  

 そして、自分の必要性を失う。


「受験、嫌だな……」


 私がいなくても確実に世界は回る。だからその中でどう生きるかが重要……でも生きていて何が良いのか分からない。


 そんなことを“誰でもない私”がバス停でバスを待ちながら考えていると、バスはようやく到着し、中に入る。私はバスが苦手だ。押し込まれて、どこか知らない所に流されてしまう気がするから。

 私は知らない綺麗で刺激的な場所を求めているのに、知らない場所に行くのが怖かった。


 私は空いている席に座る。左を振り向くと窓があり、そこから外を眺める。都会の街並みは綺麗だけれども、窓に反射してこちらを見つめる自分の顔がなんとも惨めに思えて、視線を膝に向けた。膝には紫の痣がまだ残っていた。


「帰りたくないなぁ……」


 私の口からはつい小言が出ていた。部活が終われば存在意義がなくなる気がした。そんな喪失感と、家に帰りたくない気持ちが頭を混雑にしている。

 バスが次の駅で停車すると老爺が入ってきて、丁度私の席の前で止まった。二席ずつの椅子だったので私は「どうぞ」と窓際に寄った。


「ああ、ありがとう……」


 老爺は何かを考えている顔だったので、私はその背中に目を向けると大きなリュックがあった。私は考える間もなく席を立ち、二席使ってリュックを置いてほしいという旨を伝えた。椅子の足元は老爺のリュックを置けるほど広くはなかったからだ。

 良いことをしたかったわけじゃない。なんとなくだ。たぶん、譲らない方が罪悪感が残るからだ。結局私は自分のためだった。


「ああ、大丈夫大丈夫。席に座っておくれ」


 そう言うと老爺はリュックを膝に置いて座る。私は席を立ったことを少しだけ恥ずかしく感じ、視線をまた膝に戻す。すると頭の中はまた生きることへの不安で溢れた。


(……生まれることに運命はない。ここまで私が育ってこれたのはすごい恵まれてるんだと思う。だけど、それに意味がある気がしない)


 バスのエンジンが椅子を揺らす。私の視線も揺れる、右手首の治りかけの傷が視界に入る。私は窓から空に目を向けると、少しかすんで見えた。バスの窓が見えにくいのか、私の目が見えにくいのか。


 家が近くなるにつれて受験が近くなることを感じる。勉強は有意義で、視野を広げてくれるだろう。未知を知れることはとても恵まれている。でも私は知るよりも知られたかった。特に家族には、もっと知ってほしかった。

 

 私は深いため息をつく。もう何も考えたくなかった。生きていると悲しいことが多い。何より悲しいのは、本の中には美しい言葉が星の数ほどあるのに、世の中には錆びついた刃物のような言葉がその星空を覆い尽くすほど溢れていることだ。


(それでも死にたいわけじゃない。生きる意味がないだけ)

「――お嬢ちゃん、さっきはありがとうね」


 私の負の思考を止めたのは右隣に座る老爺だった。私の頭の中は唐突なことに言葉が上手く出ず、会釈だけで返してしまった。


「浮かない顔だね」

「いや……その」

(きっと私の悩みを打ち明けたところで意味はない)


 私の頭は負を嫌いながら、負でいっぱいになっていた。しかしなぜか私は、私の思いとは裏腹なことを口にする。


「なんで生きているのかわからないんです」


 老爺は抱えている大きな袋を優しく撫で、少し考えてから答えた。

 

「僕には孫がいるんだ。とてもかわいい子だ。その子が今日で十才の誕生日、だからプレゼントを買いに行ってたんだ」


 私はこんな大きい荷物を老爺が持てるか心配だったが、それを聞いて中身の重さが容易く想像できた。

 ただ、老爺は私とは違う世界にいるのだと壁をつくりそうになっていた。


「……僕も昔は生きる意味がわからなかった」


 老爺は何かを悟った顔をして、私に対して何も詮索をせずに自分のことを語り始めた。


「高校時代、周りは必死に勉強をしていたよ。でも僕は家の仕事を継ぐことが決まってた。だから周りが羨ましくも思えた。自由が欲しかったんだ」


 彼は私と同じ世界にいた。私と同じような目をしている気がしたのだ。


「皆が大学に通う頃には既に仕事をしていたよ。……周りがいつも楽しそうに見えて辛かった。毎朝同じ時間に起きて、食事を済ませて、仕事をして、これが死ぬまで続くと思えて悲しかった」


 私の無気力とは違う。彼には自由がなかった。私は自由を活かしきれないだけなのに。


「そんなある日、同い年くらいの女性と見合いをさせられてね。……周りは自由恋愛だというのに、相手を選ぶ権利すらないことに落胆していた。……まあ、彼女に見合いで出会うまでだけれど」


 老爺の瞳の中には若さが感じられた。きっと視界には当時の情景が見えているはずだ。


「生まれて初めて人を好きになった。見合いをした後、次に会える日が待ち遠しかった。食事は美味しく感じた、仕事も楽しくなっていった」

「素敵な人だったんですね」

「ああ、とても。その人のおかげで今も幸せに暮らせているよ」


 私は成功者の体験談にはあまり興味が持てない人間だと自覚した。

 

「生きる原動力っていうのは、夢だと思うよ」

「……大した夢なんて、私には無いですね」

「夢の大小には関わらずだよ。生きることは小さな夢の積み重ねなんだ」

 

 私は黙り込んだ。中学に上がってから夢を見なくなった。良く言えば、大人になったのだ。

 老爺は黙り込む私を見かねて、再び口を開く。


「僕は、心の中で何度も思い出す人ができた。その人と映画を見たいと思った。だから、誘ってみた。……そうしたら来週のその日までは生きれたよ」


 それは夢というよりも、ただの予定だ。


「それじゃあ来週で、終わってしまいますね」

「またその人と約束した。今度は夏祭りに行く約束だ。そしたら、それまでの半年は生きれたよ」


 私は少し言葉に詰まる、だがもっと聞きたくなっていた。


「半年生きたら終わってしまいますね」

「それからまたイチョウの並木を見る約束をしたよ」

「……そしたら冬がくる頃には終わってしまいますね」

「クリスマスにプレゼント交換をする約束をしたよ」

「それでもまだ年は越せませんね」


 私は、六十年以上は生きていると見受けられる老爺が、一週間や半年の“生きれる”を積み重ねて生きていたことが信じられなかった。しかし、老爺の口からは、初詣、桜、海、次から次へと色々な夢と、それを叶える旅路が流れてきた。そうなってくれば私が疑う余地もない。


「そして、その人と結婚したいと思った」


 偶然出会わせた、本来なら通り過ぎるだけの老爺の人生がこんなにもカラフルだとは思わなかった。

 私はまだ何も知らなかった。周りの人間を“ただの大勢”だと錯覚していた。人生に同じものなんて一つもないのに。


「その人と……妻と、ずっと一緒にいたいと思った。そしたら妻がいる間はずっと生きれたよ」


 私は老爺の少し寂しげな横顔を見て何かを感じてしまった。言葉には出せないものだった。


「……まあ、本当は老いるのが怖くて、早めに死にたいと思っていた頃もあったんだけれども」


 もしかしたら、老いるのことを怖がるのは生への欲望なのかもしれない。幸せを感じ、幸せを求める人ほど、その終わりである“死”、それに近づく“老化”を恐怖してしまうのではないか、そんなことを考えながら、私はまぶたを少しだけ下ろした。


「その人との間に最愛の息子ができた。その子が成人するのを心から見たいと思った」


 老爺はまた、新たな夢を見つけていた。   


「そして今は、その最愛の息子に子どもができた。……可愛い孫だ。今度の夢は、その子が大人になるのを見守ることさ。……そんな夢の積み重ねで、こうして老いぼれになるまで生きてこれたんだ」

「……そうやって、人は生きていくんですね」


 私の中に何かが生まれた。その感情の名前はまだ知らない。


「今だって思う。介護や何やらで家族に迷惑をかけるなら長生きしたくない。でも、やっぱり生きたいから生きるんだよ。人は生きたいから生きるんだ。若い子は存在意義とか個性とかを気にするけど、そんなのは後から付いてくるのさ。生きていれば自然とあなたの道になる。生きる過程が、生き方自体があなたの個性なんだよ。今こうして悩めるのも、あなたの個性なんだよ」


 生きる意味も個性も、幻想だと思う。言葉でつくろっているだけなんだ。でも、私は全てに意味があってほしいと思った。


「さっき、夢が生きる原動力とか言ったけど、その夢は叶えられなくてもいいのさ。夢は叶えられなくても夢だろ? 見ている間はずっと夢なんだよ。見ている間は生きる原動力になるのさ。諦めても、また違う夢を見ればいい。夢はたくさん転がってる、世界は意外と、とても広いからね」


 その後の会話はあまり覚えていない。気がついたら私はバスを降りていた。

 私は生きる意味がまだ明確には分かっていない。ただ、急に死ぬのが怖いと感じた。

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