第11話 魔王のシ者

 いつもの修道女服に黒衣を重ね着したキルシュは、階段を降りた。

 少し寒い冒険者ギルドの一階広間、椅子で一夜を過ごした者、冷たい床で毛布に包まる者、奥の寝椅子で一塊の子供たち。

 厨房に向かうと、黒髪から小さな二つの角がのぞく少女が野菜を切る手を止めて、


「おはようございます、プファオさま」

「イズニィ、おはよ。何か手伝うよ」

「では、大鍋に水を張ってくださいまし」


 キルシュは魔力を絞って解放。

 虚空からあふれた冷水が大鍋に満ちる。

 わずかに目を瞠るイズニィ。


「まぁ、便利ですこと」



 エシレ姉と朝稽古から、キルシュは朝食の席についた。

 温かい肉スープとパンに小さくはしゃぐ子供らに、唾を飲み込む頬がこけた大人たち。

 昨日まで命の値札がついていた彼らの瞳に、黒の修道女の微笑みがおさまる。


「みんな、おめでとう。自由の朝です」


 小さな主が胸元で手を組むのを見て、一同は倣った。

 エシレも祈りを捧げる。


 ——どうか、この子たちに熾天使してんしさまの御加護がありますように。



 キルシュは講堂の後ろ扉をそっと滑らせた。空席を探すも、


「——そこの君、この問題を解きなさい」


 同級生の目が、最上段で固まる黒の修道女に集まり。


 ——編入して次の日から遅刻、やる気あんのかよ。


 腰の引けた小さな悪罵に一瞥をくれて、キルシュは講堂の中央階段を降りた。黒板の数式は苦手な整数問題があっという間にぼやけて、


「わかりません」

「正直でよろしい。では、解を示そう」


 青年講師は黒板に数式を書き連ねる。


「この条件を満たす変数の範囲は——」


 鮮やかな解に、キルシュはみとれて。


 ——やばい、僕でも理解できてしまった。


「君、席につきたまえ」


 最前列の席から、あらためて彼を眺める。


 そなたは領主になったのじゃ、まずは人材を集めよ——胸によぎった実母パルフェの声。


 眉目秀麗は美姫の血を代々取り入れた古い貴族、仕官の口はいくらでもあるだろうに。



 午前の講義が終わった。

 今日は週末、午後の実技はなく自由時間——キルシュは席を立った。

 首を巡らせると、ふざける男子に華やいだ声で群れる女子。

 目が合うと、それてゆく。


 ——もしかして、僕は仲間外れ? 昨日の挨拶は社交辞令だったの?

 ——勘違いして浮かれた昨日の自分が恥ずかしい。


 廊下を歩いていると。


 ——キルシュさま、お待ちになって。


 振り返ると、赤髪のシャルロッカ。

 胸元に両手を当てて息を整える彼女、キルシュは待った。


「あ、あの、キルシュさま」

「ーん」

「あ、頭を触ってもいいですか」


 キルシュはわずかに目を細める。


 ——さっきの放課後の景色は、僕が魔族かもしれないから近寄りがたいと。


「どうぞ」


 差し出された頭に、シャルロッカは両手を伸ばした。

 男の子にしては長い黒髪をまさぐり。


 ——やっぱり角はない。くだらない嫉妬まみれの噂を流したのは、誰?


「ありがとうございます、お手々が幸せになりましたっ!」


 黒衣を目深に被り直したキルシュは廊下をゆく。

 後に続くシャッルロッカは、そっと両手の匂いをかいだ。


 ——エシレさまとは違う上品な花の香り、これが彼の匂い、わたしも同じ匂いに包まれたいな。


 列柱に人だかりの玄関広間、エシレ姉とその取り巻きが待っていた。


「キィくん、お昼にいこ」


 思い出した、今日はフェネトラ姉と待ち合わせ——キルシュは駆け出す。


「こらー、逃げない」


 黒の小さな魔女を追いかけて、エシレ一行は学院裏手の演習場の底に降りた。

 取り巻きの一人が、陰る陽光に空を仰ぎ、


「なに、あれ?」


 青空を旋回する黒い影が急降下。

 烈風と共に、二頭の鳥竜が大地に踏ん張る。

 当然のように鳥竜の背から身を投げたフェネトラ姉を、キルシュは胸におさめて。


「普通に降りてください」

「よいではないか」

「ちょっと、キィくん!」


 吊り気味の目をいっそう吊り上げたエシレ姉に迫られ、キルシュはフェネトラ姉を下ろす。


「弟よ、わらわはお腹がペコペコじゃ。あとな、久しぶりに蛮人の街を散策したい。案内を頼むぞ」


 その言葉に、取り巻きがざわめく。


 ——蛮人て、おれらのこと?

 ——弟って、どーゆとこ?


「姉さま、その言葉は禁句です」

「ああ、すまんの」


 振り返ったフェネトラは、手で合図を送った。

 頭巾で角を隠す家臣のマホレノが、主の臣獣を引き連れて青空へ。

 キルシュはエシレ姉を手招き、


 ——学食にフェネトラ姉さまを連れていくと面倒事が起きるに違いないし、この人数で街へ繰り出すのも目立ちすぎ、なのでお友達と親交を深めてください。

 ——やだ、やだ、やだ。昨日の誓いは嘘だったの?


「とにかく、ついてこないで」

「やっぱり、わたしはいらない子なんだ」


 はぁ、また始まった、困った姉さまだな——キルシュは、エシレ姉をゆるく抱きしめた。


 ——姉さま、大好き。夕方、伯母さまの館で、いいかな。

 ——うん、わかった。早く戻ってきてね。わたしのキィくん。


 取り巻きを引き連れて斜面を上るエシレ姉を見送る。

 なぜか一人残った赤髪のシャルロッカが、内ももをすり合わせもじもじと。


「あ、あの、キルシュさま」

「なんじゃ小娘、弟に気安く話かけるでない」

「お、お昼だけでも、ご、ご一緒させてください」

「わらわの令を無視するとは、命知らずじゃの」


 あ、あ、あ——底光る紫の瞳にみつめられ、震えだしたシャルロッカ。

 キルシュは姉に向き直った。


「脅しすぎ」

「すまぬ、じゃが——」

「ねえさま」


 ふん、とそっぽを向く姉。

 小さく吐息をついて、泣き出しそうな顔に微笑む。


「怖い思いをさせてごめん。お詫びにお昼をご馳走するよ」


 シャルロッカの顔が、ぱっと明るくなった。


「キルシュさま、お姉さま、うれしいです」


 誰がお姉さまじゃ、弟に手を出したらただではすまんぞ——がおうと吠える姉を、キルシュは抱き寄せて。


「シャルロッカ、街へいこう」


 はい、キルシュさま——右腕に絡む彼女も連れて、辻馬車乗り場へ向かった。



 フェネトラは、出来立てのパイ包みをサクとかじり、


「なかなか、おいしいの」

「キルシュさま、おいしいです」


 一口だけ欠けたパイ包みが差し出され、キルシュの両手が塞がる。


「次はあれじゃ」


 自由気ままに市場の食べ歩きは一口だけのフェネトラ姉——まぁトルテ姉もこんな感じだし。


 買い求めたパイ包み、串肉、唐揚げ、チーズ、果物を広場の円卓にひろげると、十人前はありそうな、しかもお腹はいっぱい。


「姉さま、買いすぎ。どーするの」


 フェネトラは色褪せた椅子に腰掛けた。遠巻きに眺める一塊に手招きして、


「そこの子供たちよ、お腹が空いてるのじゃろ。好きなだけもっていくがよい」


 シャルロッカは両手で口元を覆った。


 ——なんて、お優しい方なの。


 ボロをまとう子供たちが、汚れた手を伸ばす。

 フェネトラは微笑みを添えて食べ物を配った。

 やわらかにしなる紫の瞳が血赤に染まりゆくのに気がついたキルシュは、そっと懐の魔杖を握り。


 お姉ちゃん、ありがと——短い感謝の言葉を残し、子供たちは消えて。


「感動しました、お姉さ——」

「黙れ、小娘」


 姉の鋭い合図を待たず、キルシュは腹底に満ちた魔力を全て解放。


 絶速——時は沈黙、海底に沈んだかのように街が歪む。泡立つ氷壁を半球に展開。


 雷鳴が轟いて直撃。氷の天蓋が七色に遊び。


 大地が震えて混乱の広場から、悲鳴が逃げ出した。


 二度、三度、雷撃を浴びるも。


「姉さま、使い手の位置は」

「教会の尖塔からじゃ」


 キルシュは席を立った。懐から抜いた蔓薔薇の杖を、空を鋭く切り取る尖塔に振り下ろす。


 白魔——泡立つ特大の氷塊が鋭い音を残し。


 低く唸る氷の大槍が尖塔を貫いた。

 ゆっくりと傾ぐ塔から、影がこぼれて。


 拍手——キルシュは振り向いた。


 虚空から滲み現れた軍団の先頭は、銀髪から生える二本の弓なりの角に尖った耳の魔族の貴公子。


 キルシュは魔力を解放。

 砕け散った氷壁に、軽い口笛。


「やるじゃねェか、角なし」

「弟に何のようじゃ」

「本当にテメェの弟が生きていたとはなァ」

「だから何の用じゃ」


 ゆっくりと、銀髪の貴公子が懐から手を抜いた。

 その細い指に挟さまれた封筒が、円卓を短く滑る。


「父王の急報だ」


 フェネトラは封蝋を切る。短い文面をさらい、弟に身を寄せた。


 ——不治の病に倒れた父王が危篤。一目、会いたい。らしいが、罠かもしれん。


 耳元のささやきに、キルシュは短く頷いて。


 ——姉さまの言うとおり、いきなり攻撃をしてきた人を信用する方がどうかしてる。


「角なし、今すぐオレさまについてこい」

「なんで?」

「あァー、オレさまに逆らうのか」

「僕の父は剣聖クワルクだ。いまさら会いたいと言われても——」

「オメェを連れてこい、との勅命なンだよ。運びやすい死体にしてやろうかァ」


 黒の軍団が散開した。手にする杖に炎が吹き出し。

 弟を守るように、フェネトラは両手をひろげて、


「やめよ、バローロ。われらにも予定がある。夕刻の鐘までに、街外れの野原で待ち合わせでどうじゃ」

「たった今、テメェの弟にぶっ壊された鐘がいつ鳴るんだよ」

「とにかく、夕方じゃ」


 舌打ちをこぼした第二王子は片手を上げる。軍団の炎が消えた。


「いいかァ、絶対に逃げるなよ」


 指を突きつけたバローロが、背を向ける。

 遠ざかる黒の軍団が、突風に溶けて消えた。


「はわわー、キルシュさまが、まぞ——」


 緊張が切れたのか、椅子で気絶のシャルロッカ。

 キルシュは彼女を背負った。


「姉さま、記憶の消去とかできます?」

「無理じゃから、連れてくるなと言ったであろ」



 冒険者ギルドの勝手口から、お昼で忙しい厨房を横切って従業員の控え室。

 寝椅子にシャルロッカを横たえて、キルシュとフェネトラは広間に向かった。


「ああ、フェネトラさまー」


 小さな角に黒い翼も露わな給仕が、嬉嬉と寄ってくる。

 フェネトラは、腰にすがりつくイズニィを押し剥がしにかかるも。


「ええい、うっとおしい。弟よ、どういうことじゃ」


 ——解放した奴隷の主がイズニィだった。


 フェネトラのタレ目がギリと吊り上がる。


「どうしてもプファオさまに会いたくて、時間に縛られない楽な仕事はこれだけだったの」

「痴れ者が! 手癖が悪いだけでなく、性根までゆがんだか。わらわの手で治してやろうぞ」


 ぱちん、ぱちん——イズニィの頬が往復ビンタに揺れる。


 ——あぅ、ゆるして。ひぐぅ、ごめんなしゃい。


 見かねたのか、食事の手を止めた冒険者の数人が立ち上がり。

 キルシュは、振り上がった姉の手首をつかんだ。


「ここは、姉さまの家ではありません」


 ふん、とそっぽを向いた姉。

 キルシュは首を巡らせた。


 ——買い出しを頼んだトルテ姉とガレット姉がいないギルドは、なんだか活気がない。それはともかく、荷物持ちの彼だ。


 筋骨隆々の大男が黒の修道女の前で片膝をついて、


「嬢ちゃん、ただいま戻りました」

「メルツェン、待たせたね。契約を交わそう」


 殺風景な客間、三人は円卓の席についた。

 遅れて、大事そうに酒壜を胸に抱くイズニィも腰掛ける。

 キルシュは目の端の何か言いたげな姉を制して、


「僕は敬愛する亡き父の夢を継ぐ。魔族と人族が手を取り合う世界になるように力を尽くす」


 両手で虚空を包み、魔力を絞って解放。


 白魔——しゅるしゅると練り上がる二つの氷の杯。


「契約の条件は二つだけ。僕の夢に邁進し、秘密を守る」


 大男はゴクリと唾を呑み込んだ。


「わたくしは、プファオさまに人生を捧げとう存じます」


 曇りない深紅の瞳にみつめられ、キルシュは頷いた。


 酒を——紫黒に満ちた氷の杯がピキりと軋む。


 キルシュは杯を掲げて、


「イズニィ、僕は君の忠誠に全力で応えることを誓う」


 舐めるような一口から差し出された杯を、イズニィはゆっくり呑み干した。


「んふー、ご主人さまと口づけを交わしてしまいました、きゃー」


 子供かおまえは、とでも言いたげな半眼の姉の唇に、キルシュは人差し指を押しつけた。


「嬢ちゃんは男の子なんですか」

「そうだけど」


 はぁー、メルツェンの盛大なため息。


「オレの夢は砕け散った」

「ちょっとまて、僕が女の子だと思っていたのか」

「涼しい顔であの剣帝を葬った嬢ちゃんは、オレの熾天使してんしさまなんです。だから、男の子じゃダメです。股間の余計なモノを千切っ——」


 両手をひろげて力説のメルツェンに、キルシュは腹底の魔力を解放。


 絶速——時は凍り、指先から生えた氷の蔦が向かいの太い首に巻きつく。


 いきなりの喉の冷たさに、メルツェンの時が凍った。


「——てはいけません、オレの首をーっ! キルシュさまに永遠の愛を誓います!」

「永遠の愛って、ふざけてるの?」

「——うごぉー、ギルジュざまにぜっだいぢゅうぜいをぢがいまずぅー」



 夕日に染まった街から続く荒れ道、フェネトラは足を止めた。

 血赤に染まる瞳は千里眼が、枯れ野を見渡し。


「あすこにおる」


 キルシュは魔力を解放した。


 白魔——しゅるしゅると練り上げた氷の片手剣を手に。


 突風が吹いた。


 滲み現れる黒の軍団、その奥でずらりと伏せた鳥竜。

 黒い翼を折り畳んだイズニィは、キルシュの背に隠れる。


「遅ェんだよ」


 夕映えを硬く弾いて燃える瞳の貴公子バローロは、数歩の距離で足を止めた。腰に手をかけた両隣の護衛を制して、


「なんだその剣は。オレさまに喧嘩を売ってるのか」

「いきなり襲ってきた輩を信用するお人好しじゃないから」

「フェネトラ、剣を取り上げろ」

「そこな、先に攻撃をしかけたのはそっちじゃ。それとも、謝ったら死ぬ病なのかや」


 貴公子は銀髪の頭を乱暴にかいた。


「さっきの襲撃は、オレさまじゃねェぞ、テメェの弟が敵を作りすぎたンじゃねェのか」


 それはそうかも——キルシュは、凍剣を枯れ草に放った。

 何気なく首を巡らせたフェネトラは目を瞠り。


 闇に紛れたつもりらしいが、わらわの千里眼をごまかそうなど——鳥竜に跨がり平然のマホレノと預けた臣獣。


 小さな疑念が、胸裡に一つ泡立った。

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