第10話 新たな決意

「この三日間、どこで何をしていたのです」


 一語も発せず夕食をおえた騎士爵未亡人は、冷えた目を息子に向けた。

 お茶を配った侍女が、不穏の空気を察して下がる。

 息子から差し出された書面を手に、騎士爵未亡人の目が吊り上がり、


「なんてことをしてくれたのです。少ない手札が灰になったではありませんか」


 怒りでたぎる灰色の瞳を、キルシュはみつめた。


「トルテとガレットが侯爵家と血縁になりエシレを王にする。そして、あの人の夢を叶えるのです。もう、誓いを忘れたのですか」

「父さまの夢は、僕が継ぎます」


 騎士爵未亡人の肩が震えだした。


「あなた一人で何が出来るというのです」

「僕は一人じゃない、姉さまがいる」


 ——あなたまで、わたしを裏切るというの。

 ——お母さま、落ち着いて。


 激昂の母の前にひろがる書面に、ガレットは手を伸ばした。


 ——アウスレーゼ家の領地を切り取る条約、優しい弟がそこまでするなんてよっぽどのこと、けれど。


「トルテ姉を迎えにいく」


 寡黙なガレット姉の一言に、キルシュは目を向けた。

 いつもどこか眠たげな目が、わずかに細まる。


「トルテ姉はアウスレーゼ家主催の舞踏会にいった」


 キルシュは気色ばむエシレ姉と目を交わし。


 ——偶然とはいえ、失地を取り戻すためにトルテ姉を人質にするかもしれない。


「母さま、説教は後でいくらでも受けます。エシレ姉さま、ギルドを閉めて」

「わかった」


 席を立った弟に、ガレットは声をかけた。


「館まで案内する」



 辻馬車を飛ばして、街明かりを見下ろす館についた。

 御者が扉をひらき、キルシュは前庭に降りる。

 紫紺の夜会服に身を包むガレット姉と車列を抜けて玄関へ。

 衛兵から離れた優男が扇の石段を降りた。麗姿の乙女に優雅な一礼。


「招待状を拝見します」

「わたしはガレット。トルテ姉さまを迎えにきたの」


 優男は控える目深の修道女を一瞥し、


「ガレットさま、確認して参ります」


 優男が背を向けた瞬間、キルシュは腹底の魔力を解放。


 白魔——しゅるしゅると練り上げた氷の片手剣を手に。


 石段を駆け上った黒の修道女が、驚愕の衛兵を襲う。

 瞬く間もなく槍が宙を舞って衛兵二人が倒れ、ガレットの眠たげな瞼が持ち上がる。


 ——弟を忌み嫌っていたトルテ姉の変心がわかった。きっと、わたしと同じようにお父さまの幻影を見たのね。


 振り返った優男の喉元に、キルシュは剣尖を突きつけて、


「騒いだら殺すよ」



 伸びやかな弦の音色に踊りの輪が花咲く広間を横目に、らせん階段を上る。

 廊下の突き当たり、優男は扉を叩いた。


「——緊急の報せでございます」


 ——だれか、たすけ—もががっー。

 ——後にしろ。


 優男を凍剣で殴り倒したキルシュは、腹底の魔力を解放。


 白魔——泡立つ数多の氷杭が鋭い音を残し。


 轟音、扉が消し飛んだ。


 粉塵が舞う薄闇の部屋に、キルシュは足を踏み入れる。

 がらんとした広間、罠だとわかっても漂うトルテ姉の甘い香りに胸をしめつけられて。


 ——わかってる、全ては僕の考えが足りなかったから。


 淡く光る凍剣を奥に向けると、天蓋つきの寝台で組み伏せられた——。


「来ると思ったぜ、お前がキルシュだな。領地を返してもらうぞ」


 トルテ姉の首に短剣を突きつけて勝ち誇る半裸の男。

 応えず、キルシュは目深の黒衣を払った。


「殺せーっ」


 奥の扉から蛮声が飛び込んだ。寝台の脇を駆ける二手の突撃。

 キルシュは爪先に魔力を込めて寄せ木の床を蹴る。くるりと天井に沈んで、


 白魔——泡立つ氷塊が鋭い音を残し。


 轟音、氷塊が天井を見上げた剣士どもを呑み込んだ。

 苦鳴で震える氷の小山に、キルシュは着地。


 薄闇に映える帝王紫の瞳が睥睨する。

 遅れて踏み込んだ近衛兵の足が止まった。

 黒の修道女が数多の泡立つ氷杭を侍らせて、


「一歩でも動いたら、殺す」


 半裸の男の顔が凶悪にゆがんだ。


「なにをしている、やれーっ」


 背後から駆け迫る裂帛の声、キルシュは振り向きざまに凍剣を一閃。


 轟音、白影が槍兵どもを廊下に弾き飛ばし。


「うぉおおおー」


 背を向けた黒の修道女に、近衛兵は突撃した。


 キルシュは懐の魔杖を握る。


 ——姉さまを吹き飛ばすわけにはいかないし。


 ずん、と腹底に満ちる魔力を解放。


 絶速——時は沈黙、海底で朽ちた一等船室のように暗い部屋が歪む。泡立つ氷壁を巡らせて。


「ぶべぇ」


 数瞬で屹立した氷壁に、近衛兵が次々と激突し崩れ落ちる。


 キルシュは凍剣を一閃。


 氷壁は斜めに滑り落ちて、凍剣は砕け散った。


 底光る帝王紫の瞳に半裸の男が握る短剣が震えて、トルテの白い喉にうっすらと血筋。


「あ、あ、痛い、いたいよ」


 消え入るような苦鳴、キルシュは片腕を突き出す。


 絶速——時は凍り、腕から生えた氷の蔦が半裸の男の首に巻きついて。


「うごぉ」


 ぎりぎりと軋む氷の蔦が、喉をかきむしる半裸の男を持ち上げる。


「姉さま、こちらへ」

「足が動かない、うごかないの」


 泣きじゃくるトルテ。

 敵の足音が聞こえない——キルシュは舌打ちをこらえた。

 氷の蔦を振り回し、半裸の男を壁に叩きつける。

 半壊の氷壁を飛び越えて、窓際へ。

 仰向けにのびた男の顔に、虚空から絞り出した冷水を浴びせた。


「うっ……うわぁあああー」

「黙れ」


 眼前であやすように揺れる剣尖に、半裸の男は口をつぐむ。


「エメンタール・アウスレーゼに伝えろ。僕の家族に手を出したら、生まれてきたことを後悔させてやる」


 半裸の男は、炯と光る帝王紫の瞳に思い出す。


「まさか、お前は、まぞ——」


 キルシュは一瞬で熾した魔力を持ち手に込める。

 剣身に走った紫黒の雷光が、恐怖にゆがんだ顔の眉間を貫いた。


「怖かったんだからぁー」


 腰に抱きついてきた姉の砂色の髪の一房を、キルシュはすくい上げた。


「帰りましょう」

「おんぶして」

「はっ?」


 トルテの吊り気味の目がいっそう吊り上がる。


「あんたがアウスレーゼ家をコテンパンにしたのが原因でしょうが! 心の底から女神のわたしに謝って!」

「姉さまは女神じゃないし、この格好で背負ったら階段で転びます」

「なによ、あんたはわたしの弟なの。お姉ちゃんの命令は絶対——」

「ねえさま」


 キルシュは魔力を絞って解放した。

 闇色の瞳に滲む帝王紫に、トルテは数瞬みとれて。


「あぁあああー、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい——」


 キルシュは、すがりつく姉を押し剥がした。

 強気で泣き虫な姉の唇に、人差し指を押しつける。


「おんぶは無理だけど、一つだけ願いを叶えてあげる」


 何か言い掛けた姉の手を引いて、気絶が横たわる広間を後にした。


 らせん階段を降りると、がらんとした舞踏会。

 玉ときらめく音に誘われ近寄ると、頭を小さく横に振って鍵盤を弾く青年だった。


 目の焦点が定まらない全盲の演奏——細く長い指が鍵盤を駆け上がり。


 どこか儚げな演奏、キルシュは小さく拍手。

 素敵な音色ね——トルテは、はにかむ青年に迫った。


 ちらりと覗く首筋の紋様は、奴隷の証。


「みんな帰ったわ、残っているのはわたしたちだけよ」

「おかしいと思ったんだ。教えてくれて、ありがとう」


 姉の流し目——キルシュも同じ気持ちだった。


「僕はキルシュ。よかったら、家まで送るよ」



 街外れの野道、ガレットと御者を残し馬車から降りた。

 トルテは短く唱えて杖を灯す。

 馬その他、ありふれた奴隷商の立て看板。

 並ぶ天幕を抜けて、焚き火を囲む下品な笑い声が消える。


「ぁん、なんだおめーら」


 一斉に向いた酔眼の危ない雰囲気に、トルテは弟の背に隠れた。慌てて全盲の青年を引き込む。

 キルシュは腹底の魔力を解放。


 無詠唱から泡立つ数多の氷杭に、男たちは腰を抜かした。


「おじさん、彼を奴隷から解放してよ」

「そ、そいつは金を稼ぐから純銀貨で、ひ、百枚だ」

「ごめん、お金はないんだ。でも、主人を殺せば解呪できるんだよね」


 薄闇に映える帝王紫の瞳に、小男は慄然する。


 底光る紫の瞳を探してるの——頭に角を生やす、


「主人は魔女だ! ここにはいない!」


 キルシュは眉をひそめた。


「その魔女とやらは、どこにいる」

「知らねぇ、空からやってくる、あんな風に!」


 夜空と黒い森の狭間、翼竜には小さい孤影がぐんぐん近づいて。


 小さな烈風と共に、黒の長衣をまとう魔女が降り立った。


 黒い翼を折り畳む少女の黒髪から突き出る小さな角と尖った耳、幼さが残る面差しに滲む清艶。

 宝石めいた深紅の瞳に、修道女姿のキルシュがおさまる。


 魔女は楚々と歩み寄り、すんすんと鼻をならして、


「プファオさま。やっと、会えましたの」


 忘れかけの幼名に、キルシュは目を見開いた。

 魔女のくっきりした目が、やわらかにしなり、


「フェネトラさまと同じスミレの匂いをまとうプファオさま、わたくしの話を聞いてくださいまし」

「ちょっと、あんた。誰と勘違いしてるの」


 トルテの半音低い声を無視、魔女はひざまずく。

 幼名にフェネトラ姉を知る者、たぶん敵意はない——キルシュは片手を差し出す。


「あぁ、プファオさま」


 手の甲に口づけから紫黒の魔力が滴る指を舐め始めた少女に、キルシュは奴隷の解呪を命じた。


 子供らを乗せた馬車が、ゆっくり先をゆく。

 解放した奴隷一行の最後尾、キルシュは足を止めた。角めく少女へ振り返る。


「君は誰」


 魔女は裾を両指でつまみ典雅な一礼。


「イズニィ・メルロでございます。フェネトラさまがご幼少のみぎり、恐れ多くもお遊び相手をつかまつりましたの——」


 馬車から離れ闇が立ちこめる野道、二人は並び歩く。


 ——わたくしを覚えていらっしゃいますか。


 キルシュは、ゆるく首を横に振った。


「話を聞かせてよ」


 笑みを消したイズニィは、魔王が統べるエアステス王国の危機を語り始めた。



「これはいったい何事ですか」


 冒険者ギルドの広間に降った冷たい声に、さっきまで奴隷の彼らが震えた。

 厨房で余ったパンとスープを配る三姉妹は、不安げな眼差しを持ち上げる。

 階段を下りて迫る騎士爵未亡人に、キルシュは寝椅子に腰掛けたまま。

 お姉ちゃん、怖い——奴隷商から解放された年の近い子供らにすがられて。


「気にしないで、いっぱい食べよ」

「説明なさい」


 厳かに令を下した騎士爵未亡人は、キルシュの背後で目深に頭巾を被る少女を訝しげに睨む。

 キルシュは灰色の瞳をみつめた。


「慈悲深い母さま、哀れな彼らに暖かい一夜の施しをお願いしとう存じます」

「ええ、いいわ。そのかわり、あなたの全てを話してちょうだい」



 毛布を配る侍女を残し、キルシュは居間の寝椅子に腰掛けた。

 低い机を挟んで、トルテ、ガレット、騎士爵未亡人は佇む黒ずくめの少女をみつめる。

 エシレの目が吊り上がり、


「その女は誰? なんでここにいるの!」

「エシレ姉さま、怒らない。彼女は——」


 キルシュの背後で控える少女は、目深の黒衣を払う。


「イズニィ・メルロでございます。幼少のみぎり、フェネトラさまとプファオさまのお遊び相手をつかまつりました仲でございますの」

「魔族……」


 黒髪からつんと突き出る小さな角に尖った耳、騎士爵未亡人は絶句した。

 エシレは深紅の瞳を睨む。


「キィくんを利用するつもりね」

「とんでもございません。プファオさまは、わたくしどもの希望でございます——」


 ——魔王が危篤。第一王子が次王と為れば、蛮人の街は火の海に包まれる。


「——このままいけば、休戦協定を破棄することになりましょう。わたくしは血みどろの未来を望みません」


 エシレの白貌が、くしゃりとゆがんだ。


 ——つまり、弟を魔王にするつもりなのだ、それではわたしが幸せになれない、それだけを夢見てきたのに。


「お姉ちゃんを捨てないで」


 すがるような懇願に、キルシュは微笑みを返した。


「僕は魔王に為ろうとは思いません」


 プファオさま——細い悲鳴が背に刺さり、キルシュは振り仰ぐ。

 泣き出しそうな白貌に滲む、無力の無念。


「僕は父さまの夢を継ぐ。魔族と人族が手を結び世界が愛で満ちるようにと祈らない。僕の力で世界を変えるんだ」


 お優しいプファオさま、嬉しゅう存じますの——小さく手を叩くイズニィ。


 キルシュは騎士爵位未亡人をみつめた。


「マドレーヌさま、僕は実の母と姉に会い出生の秘密を知りました。けれど、会ったこともない魔王を父とは思いません。僕の父は、命がけで魔物から街を守った剣聖クワルクです。父さまの剣と言葉が僕を作りました。だから、僕が父さまの夢を継ぐ」


 マドレーヌの冷艶の目が、やわらかにしなり。


「穢れた魔王の血胤であるあなたが、あの人の夢を継いではならない。考えなしに破滅の力を行使してはならない、慈愛に満ちたエシレがあなたを正しく導くでしょう。エシレの剣にして盾、それがあなたの幸せですよ」


 話にならない——キルシュはエシレ姉をみつめた。


「わたしは、王に為りたい。キィくんの力が必要なの」


 真剣な灰色の瞳に、キルシュは思い出す。


 ——王国の砦なる辺境暮らしは、剣聖の父さまと修行の日々。父さまが遠征すると、遊び相手はエシレ姉だけ。釣りに狩りとイヤな顔ひとつせず、真剣に競ってくれた。血縁がないと知りながら向き合ってくれた優しい姉さまの願いを。


「エシレ姉さまの願いが叶うように、力を尽くします」

「うれしい。でも、わたしの願いは王に為ることじゃないの」


 王に為りたいと言ってもそれは願いじゃない、トルテ姉みたいな感情を振り回す言動を思えば、わかるような気がする、けど。


「意味がわからない」

「いいの、わからなくて。キィくんは、お姉ちゃんを全力で守る。寝る時も、お風呂の時も、いつ何時も、ずーっと一緒なの」

「それは無理」

「とにかく、お姉ちゃんを守ると誓って」


 自分の言葉に酔ったかのような、とろんした目。

 矛盾が仲良く同居する姉さまの言葉の意味を考えるだけ無駄——虚空を両手で包み、魔力を絞って解放。


 白魔——しゅるしゅると練り上げた氷の杯を手に。


 火竜の炎でパンを焼くような、ありえない大規模魔術の繊細な制御に、騎士爵未亡人マドレーヌは息を忘れ、


 ——なんとしても、キルシュをエシレ陣営の柱に。そう、血縁はないのだから王配にしてしまえば、わたしの手に世界がおさまる。


 母の唇が声なく嗤うも、一同の目は冷気を放つ杯に集まり。


 キルシュは棚を指さした。


「トルテ姉さま、そこの酒を」

「あんたねぇ、女神のわたしは給仕じゃないの」


 文句を言いながらも、トルテは氷の杯に酒を注ぐ。

 まろやかな音が立ち、氷の杯がピキりと軋んだ。

 キルシュは紫黒に満ちた杯を掲げて、


「僕はエシレ姉さまを王にすると誓う」


 舐めるような一口から、向かいに杯を差し出した。

 エシレ姉は、ゆっくりと杯を傾けて。

 凍る喉に、歓喜がせりあがる。

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