第9話 哀れな人形を拾ってしまう

「聖眼のメルヴェーユさまと食卓を囲むなんて夢のようです」

「ふふふ、そんなに持ち上げられたら照れるじゃないか」


 ぴたりとキルシュに椅子を寄せたメルヴェーユ。

 シャルロッカは、うつむいた顔を持ち上げた。


「メルヴェーユさま、彼はお困りのようです」

「おやぁ、君は僕の物に手を出そうというのかい」


 その一言で、食卓は凍りついた。

 気にせず、キルシュは一切れのチーズを口に放り込む。


 ——トルテ姉ともガレット姉ともエシレ姉とも違う、母さまのような、そこはかとなく漂う暴君の香り。


「僕にも一口くれたまえ」


 キルシュは一切れを彼女の唇に差し入れた。

 くっきりした目がやわらかにしなる。


「それをいただこう」


 焼き魚の皿を取り寄せてパイ包みに手を伸ばすと、目の端に映る銀髪が物欲しげに揺れる。


 ——何を考えているのか、さっぱりわからない。


「僕をみたまえ」


 キルシュは小さく吐息をついた。首をひねると、


 琥珀色の瞳がうすく底光り——意識が蒸発。


 卒倒のキルシュを胸におさめた妖しい炯眼に、一同は息を呑む。

 メルヴェーユは唇をなめた。


「ふふふ、極上のお昼をいただくとしよう」


 ゆっくりと、キルシュの唇に甘い吐息が迫る。


「ごるぁーっ! 何してんの!」


 階段を上ったらとんでもない光景、エシレは寄せ木の床を蹴った。

 エシレの取り巻きが駆け足で続き、メルヴェーユの取り巻きも応じて。


 いきなりの修羅場に、食堂の喧噪が沈む。


 舌打ちのメルヴェーユは、ぱちんと指を鳴らし。

 エシレは弟を奪って抱きしめた。


 ——姉さま、痛い。


 灰色の瞳の底に滲む怒りが、仄光る瞳を睨みつける。


「キィくんに何をした」


 てへっ、メルヴェーユは小さく舌を出した。


「僕は何もしてないぞ」

「嘘つき、あなたは頭がおかしい」

「ふふふ、弟を野獣の目で見る君こそおかしいのだよ」

「なっ、そ、そんなことはない、キィくんはわたしの——」


 メルヴェーユは人差し指を立てた。


「ひとつ、警告する。血のつながりがなくとも、彼にとって君は永遠の姉だ」


 え、どうゆうこと——ざわめきがひろがる。


「そんなことはないよ、ねぇキィくん」


 半ば微睡むキルシュには、何がなんだかわからず。


「はい、姉さま」

「ふふふ、これ以上の醜態をさらしては、君と彼を追い込むぞ」


 エシレはあたりを見渡した。好奇の目がそれてゆく。

 婉然と微笑むメルヴェーユの蝶の髪飾りが七色に遊び、


「初めまして、エシレくん。僕はメルヴェーユ・ブロンシュ。仲良く食卓を囲もうじゃないか」


 エシレは弟を連れ出そうと一歩を。


「僕は彼の秘密を一つ知ったぞ」


 脅かし——思い当たることが多すぎて、何を知ったのかを探らなければ。


 上級生に席を譲ったキルシュの同級生たちは、いつもの一階の暗い席に落ち着いた。


「やっぱり、住む世界が違うよね」

「平民落ちとはいえ、国を救った剣聖の息子だからな。僕らとは毛並みが違うよ」

「あれ、シャルロッカは?」


 陣営を分ける食卓の末席から、赤髪のシャルロッカは主席のキルシュをみつめた。

 羨望の眼差しを集める彼女たちに挟まれても、闇色の瞳は凪いだまま。


 ——最近、ぼんやりが多いぞ。


 隣の口うるさい兄は、無視に限る。焼き魚を切り分けながら、耳を澄まし。


「あなた、キィくんを操ろうというのでしょ。残念でした、同じことを企んだ頭がおかしい人は、返り討ちで失踪したから」

「なるほど、彼の魔術の師は学院長だったのか」

「な、な、ち、ちがうから」

「エシレくん、控えめに言って君は馬鹿だ」

「なんですって、」


 椅子が悲鳴を上げると同時に、両手をつき身を乗り出すエシレ。

 取り巻きが諫めにかかり、キルシュは吐息をついた。


「姉さまを挑発しないで」


 そっぽを向いたメルヴェーユは、銀髪の一房をもてあそび。

 荒い息を吐いて、エシレは腰を下ろす。

 キルシュは料理の皿を押しやった。虚空を両手で包み腹底の魔力を解放。


 白魔——しゅるしゅると練り上げて三つの杯。


 その二つを、両隣へ差し出し、


「二人とも、頭を冷やして」


 冷気を放つ杯に、メルヴェーユは目を見開く。

 キルシュは空の杯を小さく弾いた。


「どなたか、飲み物を」


 驚嘆のさざめきを破って、競うように階下に消えた取り巻きが戻り。


 ——メルヴェーユさま、エシレさま、キルシュさま、失礼します。


 紫黒に満ちた氷の杯がピキりと軋む。


 乾杯——喉は凍り、ぼんやりした頭の芯が冷えてゆく。



 冴えた秋空の下、打ち合う木剣の音が演習場の底を震わせる。


「——そこまで」


 厳つい先生の声に、キルシュは木剣を下げた。

 稽古の相手は、取り巻きの犬めいた眼差しを見事に無視したエシレ姉。


「夏休みでゆるんだ貴様らに気合いを入れる。実戦形式での演習だ。班を作り大将を決めろ。大将の冠が奪われたら敗退。乱戦で勝ち残った班から解散、以上」


 キルシュはあたりを見回した。


 ——同級生は見あたらない、剣術課程は飛び級だから仕方ないけど。


 エシレは弟に飛びついて、


「キィくんは、わたしの班ね」


 取り巻きの歓声が上がった。


 ——おお、心強い。


 キルシュは、姉をそっと押しやり、


「僕は自分の班を作りますから」

「え、なんで」

「剣術試験の合格とは、僕からの巣立ちですよ」

「意味がわからない。キィくんはお姉ちゃんを全力で守るの」


 キルシュは吐息をついた。


 ——姉弟とはいえ、のし掛かってくるエシレ姉の愛が重すぎる。


「あの、君と一緒の班でお願いしたいな」


 澄んだ声が割り込んできた。

 みやると、新入生ながら帯剣のミセラ。


「取り込み中よ、後にして」


 吊り気味の目をさらに吊り上げたエシレ姉の尖った声に、ミセラはひるまず。


「聞きなさい、このわたしがお願いしているのだぞ」


 眉間にしわ寄せるミセラに、キルシュは手の甲を振った。


「ごめん、ちょっと離れてよ」


 跳び退り、懐の蔓薔薇の杖を握った。

 ずん、と腹底に満ちる魔力。

 エシレは木剣を放り投げた。すらりと剣を抜く。


 ——うぉおおおーっ、最強姉妹が決闘だーっ。


 班決めをよそに群がる生徒の輪の中は、エシレとキルシュに場違いな美少年。


「何をしている! 班を組め!」

「先生、邪魔しないでください。家族の問題なので」

「やぁあああーっ」


 地を蹴った裂帛の声に、キルシュは腹底の魔力を解放。


 白魔——幾重もの泡立つ氷塊が鋭い音を残し。


 戦場に割り込んできた間抜けの足下に、氷杭が突き刺さる。

 咄嗟に剣を抜いたミセラは、白影を斬り捨ての舞い踊り。

 低く唸る氷の弾幕に、エシレは猛然と剣を振るい寸毫の道を斬りひらいて、


 キルシュは真上からの一撃を凍剣で受け止めた。


「キィくんは、お姉ちゃんの物なの」


 鼻先に迫る交差の剣越しに、勝ち誇ったかのようなエシレ姉。

 キルシュは微笑んだ。


 ——姉さまにも切り札を見せるつもりはないから。


「降参です」


 剣圧がゆるんで、満面の笑みのエシレ姉に飛びつかれ。


 ——うぉー、エシレさまが勝ったーっ。


 姉にされるがまま凍剣を放ったキルシュの前に、ミセラが立った。

 胸元に手をあて、ちょぴり涙目のような。


「あんな分厚い氷の弾幕を無詠唱で展開するなんて、信じらんない! わたしの顔に傷が残ったら、責任を取ってもらうぞ」

「え、男の子の君が何を言ってるの」


 唇を噛んだミセラは、うつむいた。


「その子はキィくんと友達になりたいんだよ」


 欲しい——キルシュは片手を差し出した。


「ミセラくん、僕と友達になろう」


 ぱっと顔を上げたミセラは、つんと横を向いて、


「わたしは特待生なの。言葉遣いがなってない」


 やれやれ、トルテ姉みたいだな——キルシュは黒衣の裾を両指でつまみ典雅の一礼。


「ミセラくん、よかったら僕と友達になってくれませんか」



 あちこちで盾代わりの土壁が盛り上がり、乱戦が始まった。

 実戦形式は魔術ありあり、走る炎を水柱が消し飛ばし。


 桂冠を戴くエシレを守るように、取り巻きたちは土壁の守りを展開するも。

 水柱の一撃で土壁はぶち抜かれ、蛮声が飛び込む。

 あっという間に、取り巻きの木剣が宙を舞った。


「姉さまの家臣団、弱すぎる」

「あはは、やる気だけはあるんだけど」


 泥だらけの顔が吠える。


「恐れるなーっ、そこの魔女は不敗の半神ではない!」

「うぉおおおー」


 裂帛の突撃に、キルシュは腹底の魔力を絞って解放。


 白魔——凍った虚空が三人を守るように。


 突撃の彼らは薄い氷壁をぶち破るも無様に転ぶ。


 転瞬、降り注ぐ半端な炎球。

 キルシュは片手を向けた。


 白魔——幾重もの泡立つ氷塊が鋭い音を残し。


 青空を切り裂く白影が炎球を貫き、砕け散った火の粉が淡く溶けて。


 演習とは無関係の攻撃に、キルシュは高台をみつめた。木柵から人影が離れゆく。


 ——演習に顔を出さなかった彼に違いない。


「姉さま、僕は追いかけるので後よろしく」


 桂冠をミセラの頭に載せて、エシレは弟の背を追いかける。

 一拍の空白から、ミセラは我に返った。


「なんて自分勝手な姉弟なの。このわたしを戦場に置き去りとか信じらんない」



 静かな学院寮の階段を上って、廊下の突き当たり。

 キルシュは鍵のかかっていない部屋へ踏み込んだ。

 積み上がった行李に小さな机と、こんもりした寝台。


「起きなさい、頭のおかしい人」


 狭い部屋にエシレの声が響いた。

 キルシュは毛布を剥ぎ取る。

 焦げ茶の髪に包帯を巻いて腫れた横顔。ガタガタ震えるハルツァーは幼く見えた。


「わたしのキィくんが、あなたのしょぼくれた炎で何とかなると思ったの? それとも本当に頭がおかしくなっちゃった?」


 エシレ姉の挑発にも、丸めた背を向けたまま。

 キルシュは、彼を床に引きずり下ろした。


「何があったのかは想像がつく。僕に殺されろと、命令されたのだろ」


 仰向けのハルツァーは泣き出した。


「父上の言うとおりに生きてきたのに、命まで捧げるなんてイヤだ」

「見届け人は逃げたのか」

「あああー」


 舌打ちをこぼし、キルシュは腹底の魔力を絞って解放。


 白魔——しゅるしゅると練り上げた氷の細剣を手に。


「黙れ」


 眼前であやすように揺れる剣尖に、ハルツァーは息を呑む。

 キルシュは、足下の涙に濡れた顔をみつめた。


 ——アウスレーゼのような大貴族は、領地の喪失を招いた息子を追放しない。よそで勝手に血筋を作られては困るし、よくて幽閉、ありふれた末路は死刑。

 ——父のいいなりだったと言う彼は、老師を無邪気に信じた自分と同じだ。ひとつ間違えば僕も彼と同じ、操り人形の運命を呪ったに違いない、だから。


「ハルツァー、ここで死ぬか」

「いやだ、生きたい」


 包帯を巻いた焦げ茶の髪が力なく揺れた。

 キルシュは凍剣を放り、


「僕と契約を結べば身の安全を保障する。もちろん、仕事をしてもらうけど」


 がばっと体を起こしたハルツァーは、黒の修道女にすがりついた。


「あああー」


 キルシュはハルツァーを蹴った。


「そこに座れ」


 寝台に腰掛けてもすがってきそうなハルツァーから目を離さず、


「姉さま、そこの酒を」

「わかった、頭がおかしい人を気絶するまで殴ればいいのね」

「ちがうから」


 脱力したキルシュは、腹底の魔力を絞りながら解放。


 白魔——しゅるしゅると練り上げた氷の杯を手に。


「姉さま、酒を」


 琥珀色に満ちた氷の杯がピキりと軋む。

 キルシュは舐めるような一口——苦い。


「ハルツァー、僕に忠誠を誓え」


 差し出した氷の杯は、横から奪い取られ。


「ぷはー、お姉ちゃんはキィくんに忠誠を誓いましたー」

「ふざけないで」


 キルシュは杯を奪い返した。


 ——久しぶりに、お姉ちゃんとお風呂に入ろう。大きくなったか確かめてあげる。

 ——絶対にイヤです。


 半開きの扉から漏れる姉弟のじゃれ合いに、廊下で身を潜めるミセラの片頬がひきつる。


 ——ハルツァー、僕に忠誠を誓え。

 ——学院は辞めてもらう、シルヴァーナで鳥竜を操れるようになったら、僕の領地で仕事だ。


 ひっそりと、ミセラはその場を離れた。


 ——シルヴァーナて魔王国の……それに僕の領地? 君は何者なの?



 大通りで辻馬車から降りたキルシュとエシレは、我が家である冒険者ギルドの広間中央に進む。

 相変わらず男を侍らせやりたい放題のトルテ姉とガレット姉に一瞥をくれて、キルシュは椅子に立った。


「みんな、人探しだ。手を出さなくていい、僕が始末をつける」


 ——やべぇ、一番怒らせちゃいけない末っ子の嬢ちゃん相手に、何をやらかしたんだ。

 ——だな、狼藉者をこの街から駆除しねぇと、オレはやるぜ。


「報酬は、僕の領地に招待する」


 ——うぉおおおー。

 ——嬢ちゃんは領主さま、すげぇえー。


 キルシュは大歓声を沈めた。帯剣の中年男に鋭い目と人相を伝えて、トルテ姉がくつろぐ寝椅子に向かう。

 血走った目の冒険者どもが街に放たれた。 


「ちょっとトルテ姉、キィくんから離れて」

「ねぇ、あんたが領主てどーゆこと? てゆーか約束、忘れてないよね」


 寝椅子に腰掛けたキルシュは、首に抱きついてきたトルテ姉を押し返す。


 ——魔杖を拾えたのは、確かにトルテ姉のおかげだし。


「トルテ姉さま、どんな報酬がいいですか」

「あんたがわたしの従者になる」

「はぁ?」

「冗談よ、言ってみただけ。でも、領地には招待して欲しいな」


 トルテは小さく伸びをした。


「あんたとの冒険は怖かったけど、初めて生きてるって実感できた」


 キルシュはトルテ姉の横顔をみつめた。自称女神の白貌に滲む疲れ。


「今が楽しくないんですか」

「さてと、今夜は舞踏会、またね」


 ひらひらと手を振って階段を上るトルテ姉から、キルシュは目を戻した。

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