第7話 さよなら、老師さま

 キルシュは氷の階段を上った。

 陥没した演習場の縁から見上げると、高台に白の人影がずらりと並び、低い詠唱が降ってくる。


 ——威力を誇る合成詠唱、なんでそこまでするの。


「姉さま方、はやく!」


 切迫の声に、フェネトラとエシレは弟の腰へ飛びつく。


 合成詠唱が途絶えた。

 ごう、と天を焦がす炎の産声。


 キルシュは、とっくに腹底で練り上げた魔力を解放。


 白魔——絶死の凍気が足元からひろがり。


 キルシュは、吠えて迫る炎の大龍を見据えて。


 さらに魔力を解放——世界が白く眩む。


 炎の大龍は千千に裂けて、淡い火の粉が凍った世界に舞う。


「今度こそ終わりました」


 瞑った目をひらいて、フェネトラとエシレは立ち上がった。


 粉雪が舞う静寂の銀世界、見上げると氷に呑まれた校舎。


「さすがに、やりすぎではないか」

「学院が氷に埋もれちゃうよ」


 キルシュは、懐の蔓薔薇の杖を握った。


 白魔——氷の階段が蔓草のように斜面を這い上る。


 高台に上がると、氷に呑まれた白服ども。


 ——ごめん、どうすることもできないし。


 通りをまっすぐ進むと、駆けてくる足音は剣士の一団。


 エシレは剣を抜いた。

 キルシュも、しゅるしゅると練り上げた氷の片手剣を手に。

 二人に身を任せ、フェネトラは校舎を見上げる。

 紫の瞳が血赤に染まり、千里眼が虚空をさまよう。


「くっくっく、学院長室をみつけたぞ。こっちじゃ」


 階段を上って最上階、冷たく湿った廊下を進み。

 フェネトラは足を止めた。


「ここじゃ」


 キルシュは扉を叩く。


「編入試験を受けたキルシュです。合否を伺いに参りました。学院長、失礼します」


 扉は開かず、返ってきたのはくぐもった声。


「学院長は急病で倒れた。後日、改めて話そう」


 キルシュは扉をガンガン叩くも、開く気配はなく。


 ——しかたない、せめて結果を聞いて諦めよう。


「下がって。扉を壊します」

「わーっ、やめろーっ、いま開けるから!」


 扉が開き、暖気があふれた。

 ひっつめの金髪に怜悧が滲む顔を、キルシュは見上げて。


「あなたが学院長?」

「——の孫で本学院の教師をしている、クレムフカ・グローセス。可愛い顔で白魔を放ち全てを氷漬けとは末恐ろしいな、キルシュくん」


 クレムフカは、黒衣の少女二人に目をとめた。


「そちらは、高等部へ編入したエシレくんだな……で、君は誰だ」


 フェネトラは、目深の黒衣を払った。


「わらわは、キルシュの実の姉、フェネトラじゃ。さっさと学院長を出せ」


 クレムフカは眉をひそめた——黒髪に目元はそっくりだが。


「学院長はここにはいない。後日、改めて——」


 フェネトラは奥の扉を指さした。


「毛布をかぶり震えているではないか」


 キルシュは腹底の魔力を解放。

 暖炉の炎は消えて、ずしりと空気が重くなり。

 クレムフカは、わたわたと両腕を振った。


「わーっ、わーっ、いま開けるから!」


 部屋に入るなり、クレムフカは寝椅子の小山から毛布を剥ぎ取った。

 背を丸めたままの老人に、キルシュは目を見開く。


「老師さま?」


 学院長は体を起こした。

 濁った目が黒の修道女姿のキルシュを捉えて、


「剣聖の死も、お前の短慮を変えられなかった」

「どういう意味ですか」

「一月前は大雪、今日は剣士に白服どもを氷漬け。お前は怒りに支配されておる」

「そんなことは——」

「黙れ、お前は魔力を絞れるのに、そうはしなかった。だから、編入試験は不合格だ」

「なんで、そーなるの。確かに、キィくんは世間知らずの子供よ。だからこそ勉強が必要なの。このまま野に放ったら、世界が凍ってみんな死ぬわ」


 キルシュは唇を噛んだ。


 ——エシレ姉、きっついよ。僕は魔物じゃないし、ちゃんと考えて、みんなを守っているだけなのに。


 学院長は力なく首を横に振った。


「キルシュや、お前の編入を拒む大貴族の私兵団を子供扱いに沈める者に、何を教えればいい? 剣術を剣聖から受け継ぎ、大規模魔術の展開制御をわしが教えた。残った座学は、個人教師を雇えばいいではないか」

「老師さま、僕は……」


 キルシュは言葉を呑み込んだ。


 ——剣術試験の控え室で、ひとつ年下の人生を掛けた真剣な面差し、その重みに比べて友達が欲しいという軽さ、気恥ずかしい。


 うつむくキルシュに、老師は顔のしわを深めて微笑んだ。


「せめてもの、わしの誠意だ。本学院を主席で卒業した才媛クレムフカを、お前の個人教師につけてあげよう」


 キルシュは拳を握った。


 ——それでも、友達が欲しい。


「……絶対にイヤだ」


 クレムフカは目を吊り上げた。


「なんだ、その言い方は。乙女心が傷ついたぞ」

「おばさん。キィくんが怖がるから、あっちにいって」

「誰がおばさんよ、わたしは永遠の十六歳だ」


 フェネトラは弟の顔をのぞき込む。


「何故、この学院で勉強をしたいのじゃ? 正直に話せば、わらわが何とかしようぞ」

「ずっと剣術と魔術の修行に明け暮れて……友達が欲しい」

「ふむ。いとけない願いじゃが、叶えてやろう」


 フェネトラは学院長を見下ろした。

 紫の瞳は血赤に染まり、千里眼が過去を幻視する。


「貴様……まだ生きていたのか」


 半音低い声に、学院長はガタガタと震え出した。

 エシレとクレムフカは睨み合いをやめて。

 フェネトラの精緻な白貌が、ゆがんだ。


「下手な芝居はやめよ。わらわから弟を奪った人でなしめ」


 学院長の濁った目が細まる。


「天眼を越える千里眼とはな……姉弟そろって化け物だ」


 吐き捨てられた侮蔑に、キルシュはそっと懐に手を滑り込ませる。

 ずん、と腹底に満ちる魔力。


 ——さよなら、老師さま。


 老師は、寝椅子に立てかけの大きな杖を手にした。

 ゆっくりと立ち上がり、鷲鼻で嗤う。


 聞いたことのない禍々しい詠唱——キルシュは魔力を解放し。


 絶速——時は沈黙、海底で朽ちた一等船室のように暗い部屋が歪む。泡立つ氷塊を右手に侍らせ振り下ろし。


 轟音、手足をひろげて吹っ飛んだ老師が暖炉の灰を舞い上げた。


 クレムフカは、氷塊に埋もれる学院長を引きずり出し。

 のそりと、キルシュは姉二人と囲む。

 学院長は煙を吐いた。


「——何故だ、何故だ、なぜだ、ありえない……この忌み子め」


 見上げる憎悪の目に、フェネトラは冷笑をくれて。


「とうに、わらわが貴様の黒い切り札を解呪したのじゃ」

「馬鹿な、ありえない!」

「弟を合格にしろ。さもないと、貴様の悪巧みを全てぶちまける。そこの不細工な孫娘に軽蔑されながら、弟の手にかかり地獄へ堕ちるがよい」

「ぐぬ……」

「ちょっと、誰が不細工ですって!」


 迫るクレムフカを、エシレはなだめにかかる。


 編入試験合格の書面を手にするキルシュの胸元に、フェネトラは徽章をつけた。


「ありがと、フェネトラ姉さま」

「よかったの、友達作りに励むがよいぞ——」


 ゆっくりと振り向いて、執務机で茫然の学院長。

 フェネトラは、婉然と微笑んだ。


「貴様は用済みじゃ。地獄へ堕ちろ」


 弟に禁呪を掛けた老師のたくらみをぶちまけた。


 ——百年戦争を終わらせるため、魔王の血胤を人形にして相討ちに、そして魔窟の底へ。


「ちがう、信じてくれ——」


 よどみない言い訳とおべんちゃら、キルシュの背を冷たい魔が這い上がり。


「老師さま、二度と顔を見せないでください。でないと、あなたを永眠させてしまいます」


 老師の濁った目が据わった。


「お前に魔術を教えたのはわしだぞ。だから、お前はわしの物だ、わしの言うことを聞いていればいいのだ」


 エシレは、すらりと剣を抜いた。


「キィくんはわたしのだから」 

「どさくさに紛れて何を言う、弟は誰にも渡さんぞ」


 キルシュは魔力を解放。

 瞳に底光る帝王紫が、おののく濁った目を捉えて。


「老師さま、ありがと。目が醒めた」


 キルシュは半身で片手を突き出す。


 しゅるしゅると腕から生える氷の蔦が、老師の首に巻きつき。

 持ち上がった老体が、苦しげにもがく。


「やめて! 殺さないで!」


 クレムフカの悲鳴に、キルシュは腕を下げた。


 ——そのつもりはない、これは決別の儀。


 お前の信じる道を行きなさい——胸によぎった父さまの最後の言葉。


 ——やっと意味がわかった。父さまだけが、僕を信じていてくれた。

 ——父さまの夢は、母さまではなく、僕が継ぐ。


「フェネトラ姉さま、兵を差し向けた貴族はわかる?」

「生き残りがいれば一目じゃな」

「クレムフカ先生、三日後に学院を開講ということで失礼します」

「不細工よ、さらばじゃ」

「またね、永遠の十六歳さん」


 数拍おいて激怒したクレムフカの罵声を背に、キルシュたちは学院長室を後にした。



「お前たちと同じ年頃の息子がいるんだ。殺さないでくれ」


 氷に呑まれた石畳で這いつくばう剣士の命乞い。

 フェネトラは鼻先で嗤う。


「見え透いた嘘じゃの。飼い主の名を言え」

「せ、聖眼のメルヴェーユ・ブロンシュさまだ」


 紫の瞳を血赤に染めて、千里眼が過去を幻視した。


「見上げた忠義だが、わらわには通用せん。くっくっく、アウスレーゼ家か」

「アウスレーゼって、食堂でいきなり斬りつけてきた頭のおかしい人!」


 剣士の目が激しく瞬く。

 エシレ姉の言葉で、キルシュも思い出した。


 ——緑子鬼退治で立ち寄った村で、頑なに編入辞退を迫った平民嫌い、か。


「弟よ、どうするのじゃ?」


 口元を隠して嗤うフェネトラ姉に、キルシュは当然の答え。


「もちろん、片をつける」



 呼び戻した鳥竜に跨がり、粉雪が舞う街の広場に降りた。

 雪遊びを止めた子供たちに、親らが駆け寄り。


 ——かっこいい、鳥竜だ!

 ——見ちゃダメ、目が合ったら食べられちゃう。


 ひろがる大きな翼、悲鳴が逃げていく。

 角隠しの頭巾を被った家臣マホレノに、フェネトラは待機を命じた。


「エシレ姫は、わらわと市場で買い物じゃ。弟よ、地図と契約書の専門家を連れてくれまいか」



 キルシュは裏通りの魔道具屋に入った。

 禿頭はカウンターに両手をついて、


「嬢ちゃん!」


 キルシュは銀貨の詰まった革袋をカウンターに置いた。目深の黒衣を払う。


「僕は男だ。名はキルシュ。アウスレーゼ地方の地図と土地売買の契約書を作成できる者を今すぐ紹介してよ」


 中性的な面差しを包む黒髪に、店主の禿頭は目を見開く。


 ——この間は金髪に灰色の瞳、今日は黒髪に闇色の瞳、その意味は……口外したらただではすまない。


 革袋の重みを確かめるまでもなく。


「それで、物をどこへ届ければいい?」

「広場」


 背を向けたキルシュに、禿頭は声をかけた。


「一月前の大雪も、嬢ちゃんの仕業なのか」


 キルシュは無言で店を後にした。



「たんと食べるがよいぞ」


 カタカタとくちばしを鳴らす鳥竜に、フェネトラは油漬けの魚を放る。

 キルシュとエシレは、先に昼食をすませることにした。

 荷車に腰掛け、チーズに白身魚のパイ包みを頬張る。

 果物をかじって、一息。


「キィくん、お母さまに内緒でやるの?」

「当然。それと、姉さまは留守番だから」

「なんでよ、わたしもいくの」

「退学になるのは僕だけでいい」

「キィくんのばーか、ばーか。絶対ついていくから」


 ——エシレさまだ。

 ——キルシュさまよ。


 大通りから覗う黒の外套の一塊は、エシレの取り巻きだった。

 鳥竜に怯えながらも、一団は二人の前へ。


「エシレさま、修道服もお似合いです。まさに、聖女さまー」

「あはは、ありがと」


 赤髪の少女は、キルシュに迫った。

 胸元の徽章をみとめて、


「キルシュさま、編入おめでとうでございます」

「ーん、ありがと」

「それにしても今日は寒いですね。氷漬けの学院寮を出てきたんですけど、その寒さを吹き飛ばす驚きです。宮廷魔術師さまが師と仰ぐ学院長が失踪したらしいですよ。キルシュさまの編入が原因だとか変な噂が立ってますけど、絶対にそんなことはないですよね!」


 苦笑いのキルシュの目に映る、魔道具屋の主と鞄を抱えた男。


「ごめん、また後で」


 キルシュは残りの昼食の籠を手に二人を迎えた。

 引き連れて、鳥竜の喉をなぜるフェネトラ姉の下へ。


「弟よ、あの者らを追い払ってくれ。邪魔じゃ」


 キルシュはささやいた。


 ——僕たちが去ればいい。


「くっくっく。やはり、そうでなくては。血を分けたわれらだけで成し遂げようぞ。して、鞄の男が契約書の専門家じゃな」



 冷たい烈風に、エシレは目を細めた。

 見上げると、鳥竜に跨がり舌を出して挑発するフェネトラの腰に手を回す——。


「キィくん! おいてかないでーっ!」


 エシレ姉の絶叫に、キルシュは振り返らず。


「姉さま、夕食前に片をつけましょう」

「まかせるのじゃ」


 フェネトラの紫の瞳は血赤に染まり。

 鳥竜は両翼をしならせ粉雪が舞う曇天を切り裂いてゆく。



 夕闇に映える山頂のアウスレーゼ城は、山腹に林立する百塔に守られていた。


 キルシュは懐に下げる魔杖を抜く。

 ずん、と腹底に雪崩れる魔力を練り上げながら。


 ——魔族が誇る竜騎士の攻撃を、百年戦争で退け続けたという。


「姉さま、作戦通りに」

「しっかりつかまっておれ」


 滑空の鳥竜は両翼をしならせ上昇。

 たなびく紫紺の雲を目前に巨躯を翻し翼を折りたたむ。


 大地へと真っ逆さま——全身の穴が縮む恐怖に負けまいと、キルシュは目を凝らす。


 視界を埋める黒の山腹に生える百塔が一斉に青光り。


 魔雷弾がくる——キルシュは杖を振り下ろした。


 白魔—一侵入を拒むようなデタラメにひろがる青い雷光は砕け散り。


 遅れて、ビリビリと震える大気の甲高い叫喚。

 虚空に散った茫漠の魔力が、空を七色に遊ばせて。


 軋みながら凍る大地の呻きに、キルシュは引き結んだ唇をひらいた。


「やっかいな百塔は沈黙、残るはアウスレーゼの傲慢貴族だ」

「さすがじゃの、わが弟よ。われら不敗の半神の始まりじゃ」


 氷に呑まれた山頂の城は、虹色を硬く弾き。

 鳥竜は粉雪が舞う極光の空を滑りゆく。

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