第6話 生き別れの姉さまと大人の口づけを

 轟音——キルシュの放った数多の氷杭が、氷像と化した緑子鬼の軍勢を粉々に貫いた。


 振り向かずに、キルシュは引き結んだ唇をひらく。


「お姫さま、地獄の底へ参りましょう」

「そなたのよそよそしい態度に、わらわは傷ついたぞ。フェネトラ、もしくはお姉さまじゃ」


 ——生き別れの弟と願いながら手を結び。


 まっすぐな坑道の果ては青緑の淡い光で満ちる巨大な円蓋、緑子鬼の巣は氷に埋もれていた。


「では、フェネトラ姉さま。道を開くので僕の背に隠れてください」


 フェネトラは、持ち上がったキルシュの片腕を制した。


「もう道はない。ここが廃鉱の底じゃ」

「僕を騙したのか」

「そうではない。二人きりで話がしたいのじゃ」


 だから、子供のように暴れてエシレ姉を追いやった——キルシュは予感を胸に待つ。


「大事な話であるぞ。そなたは、自身の生まれについて聞いておるか」

「戦争孤児の僕を父さまが拾ってきた、と」

「それはおそらく違う。じゃが、言葉では足りない。わらわの思い出を、そなたに捧げようぞ」


 鼻孔をくすぐる花の香りは、どこか懐かしく——キルシュは頷いた。


「わかった、でもどうやって」


 見つめ合う黒と紫の瞳が血赤に染まり。


 白の繊手がキルシュの頬を包む。


 大人の口づけ——キルシュの頭の中に温かい波が押し寄せた。



 ——円卓の真ん中に骨付き肉の唐揚げが山盛りの大皿、一家団欒の笑みがこぼれて。


「おじちゃん、いただこうぞ」


 幼い感謝の言葉に、壮漢の両頬の傷がゆがんだ。


「フェネトラ、おじちゃんじゃのうて、クワルクおじさまじゃ」

「クワルクおじさま、いただこうぞ」

「クワルクおじちゃん、ありがと」


 幼い男の子の声に、壮漢の目尻がさらに下がる。

 黒髪に紫の瞳の淑女が微笑んだ。


「プファオ、ゆっくりお食べ」


 黒髪に闇色の瞳の幼い男の子は、肉を頬張ったまま——。



 フェネトラは唇を離した。


「わらわの生き別れの弟が、そなたじゃ」


 キルシュは目を閉じた。


 ——瞼の裏に焼き付いた泡沫の夢、両頬の傷はどう見ても。


「父とは、どういう関係だったの」

「積もる話は、母を交えてじゃ」


 キルシュは目を見開いた。

 潤んだ血赤の瞳に見返され。


 どちらともなく、二人は互いを抱きしめた。


 わらわに甘えるがよいぞ——湿った声が、キルシュの耳朶の中で回る。


 そっと、小さく震える体を離して、


「甘え上手なお姉さま、地上へ戻りましょう」


 精緻の白貌が、くしゃりとゆがんだ


「そなたの首に二重の呪いが掛かっておる。かなり大規模な術式ゆえ、わらわの魔力では……」


 涙をこぼした姉に、キルシュは魔杖を差し出した。


「姉さま、僕を自由にしてください」


 フェネトラは杖を握った。腹底に雪崩れる魔力に意識が呑まれ。

 崩れ落ちる姉を、キルシュは両手におさめた。


「姉さま、無理しないで」

「ううっ……大丈夫じゃ、ゆっくり降ろすがよい。そう、そなたの膝枕がよい」


 フェネトラは瞑った目をひらいた。

 宝玉めいた血赤の瞳が底光る。


「では、始めようぞ」


 キルシュの首に淡い光が泡立ち——。



 坑道を抜けると、野原に舞い落ちる粉雪で霞む峡谷。


「姫さま、お怪我はありませんか」


 家臣に囲まれ、フェネトラは微笑んだ。


「大丈夫じゃ、館へ戻るぞ」


 歓声が散った。鳥竜に跨がる家臣たち。


「キィくん、お姉ちゃんは眠いの。頑張ったご褒美におんぶしてぇ」

「姉さま、少し寄り道しましょう」


 ひろげた両手を下げるエシレに、フェネトラは微笑む。


「緑子鬼に魔物を殲滅した礼じゃ。わらわの館で旅の疲れを取るがよい」

「気持ちだけ受け取っておくわ。眠いし——」

「エシレ姉さま、大事な話があるんだ」


 見返す真剣な黒い瞳に、エシレは唇を噛む。


 予感はあった——あの子の黒髪に高貴な面差し、なにより笑顔のタレ目はキィくんの生き写し。


 フェネトラは鳥竜に跨がり手招きする。


「エシレ姫は、わらわと短い空の旅じゃ」


 それでも、わたしとキィくんの十年の絆が壊れるとは思わない——エシレは一歩を踏み出す。



 峡谷を抜けて、赤煉瓦の街並みを見下ろす白亜の館の庭に降りた。

 鳥竜の鳴き声に、角めく使用人たちが駆けてくる。


 フェネトラは片膝をつく家臣たちを見回し、


「ごくろうであった。休むがよい」


 動かない家臣たちに、フェネトラは眉を寄せた。


「なんじゃ、言うてみよ」

「姫さま、いつものように、われらを食卓に招いてくださらないのですか」

「む、今日は特別じゃ。身内の話であるからの」

「姫さまに命を投げ出すと誓ったわれらは、家族も同然ではありませんか」


 立派な角を揺らす厳つい面々のつぶらな瞳に、フェネトラはたじろいだ。


「だ、駄目じゃ。皆の衆には後で話す」

「ひめさまぁー」


 フェネトラは哀願に背を向けた。

 苦笑いのキルシュとエシレに、あらためて両指で裾をつまみ典雅の一礼。


「二人とも、慣れない鳥竜の背でお疲れじゃろ。まずは温かい料理で歓待しようぞ」



 玄関広間を抜けて、らせん階段から最上階へ。

 廊下の突き当たり、先導の侍女が扉を叩く。


「ご当主さま、フェネトラさまがお戻りになりました」


 くぐもった声が返り、侍女は扉をひらく。

 陽光に満ちた広間、暗紅色の絨毯を踏む。

 侍女は、軋む車椅子をゆっくり向けた。


「珍しいの。フェネトラのお友達じゃな」


 車椅子の淑女は、婉然と微笑むも。

 修道女姿に惑うことなく、黒髪に白皙の面差しの吸い込まれるような闇色の瞳に目を見開く。


「プファオ……夢じゃろうか」


 キルシュは車椅子の淑女へ歩み寄った。


「お帰り、わが息子」


 両腕をひろげる淑女の足元で、キルシュは両膝をついた。

 白髪交じりの黒髪に紫の瞳、三日月の目がしなり、こぼれる涙——すとんと直感は胸に落ちて。


「ただいま、母さま」


 膝上に埋むキルシュを愛おしげに抱く母、フェネトラは目尻を拭う。

 エシレはうつむいた。


 侍女たちは退出、身内だけの朝食の席。

 車椅子の淑女は、杯に手を伸ばさず。

 キルシュは、母が言葉を待っているのに気がついて、


「僕に剣術を教えてくれた父は、魔物を食い止めて立派な最後を遂げました」


 車椅子の淑女は、黙祷の両手を解く。


「あやつは、血の盟約を守り抜いたか。この杯を剣聖に捧げようぞ」


 一同は、紫黒に満ちた杯を掲げた。


 温かい食事に話が弾む。

 優しさに満ちた思い出は胸に迫り、あっという間に時は流れ。


 淑女は円卓の鈴を鳴らした。

 角めく侍女たちは、皿を片づけて白磁のカップを並べる。


 キルシュも食後のお茶を一口。


 忘れていた母の名を反芻——パルフェ。

 フェネトラ姉は、三つ年上でエシレ姉と同い歳の十六歳。


 次第に元気を取り戻したエシレ姉は、亡き父と僕の思い出をしゃべり続け。


「——体は大きくなっても、まだまだいとけないのう」


 淑女パルフェは、口元を隠して忍び笑い。

 フェネトラはカップを置いた。


「さて、弟よ。これからどうするのじゃ。わらわは、元の親子三人で暮らしたいと切に願うがの」


 しん、と静まりかえり。


 キルシュは、瞑った目を見開いた。


「僕は勉強がしたい。王立学院に編入できたら、いままで通りの生活を続けようと思う」


 淑女パルフェは微笑んだ。

 フェネトラは肩を落とし。

 エシレは満面の笑みを持ち上げた。


「キィくんは、絶対編入試験合格だから」

「わらわは寂しいぞ。鳥竜で送り迎えするゆえ、週末は当家で過ごすがよい。十年の空白を埋めるのじゃ」


 キルシュは夢を想う。


 週末——友達ができたら釣りに狩りに忙しい。


「そなたの友を連れてくるがよい。このあたりの野山に廃鉱も、当家の庭じゃ」


 ——豪華な餌で釣るなんて卑怯よ。

 ——くっくっく、男の子おのこは冒険が大好きなのじゃ。


「フェネトラ姉さま、週末はお世話になります」

「遠慮はいらぬ。ここは、そなたの家なのじゃから」


 ——わたしもキィくんについていくから。

 ——くっくっく、そなたはいらないのじゃ。


 笑顔で睨み合いを始めた姉さまたちに、キルシュは吐息をついた。


「血縁がなくとも、自慢の姉さまです」

「キィくん、もっと言って。僕のお姉ちゃんは、エシレだけって」

「……」

「くっくっく。欲しがるだけの姉さまはポイじゃ。わらわの胸で甘えるがよいぞ」

「やっぱり……わたしは、いらない子なんだ」


 はぁ、また始まった、困った姉さまだな——キルシュは席を立ち、背もたれごと姉をやさしく抱きしめた。


 フェネトラは指を突きつけ、


「ああーっ、こやつ舌を出しおった。弟よ、騙されるな」


 キルシュは腕輪を解いた。


 ——初めての徹夜明けは、目眩と全身が妙に熱く。それに解呪の首が鈍く痛む。


「母さま、少し休みたいです」


 淑女パルフェは頷いた。


「エシレ姫にも部屋を用意しようぞ。侍女に足りない物を言いつけるがよい」

「わたしはキィくんと一緒に寝るから」

「駄目じゃ、駄目じゃ、だめじゃー」


 がおうと、フェネトラが吠えて。

 淑女パルフェは、ころころと笑った。



 目覚めると夕方、キルシュは忘れていることに気がついた。


 ——村で待ちぼうけの荷物持ち、怒ってるかな。


 元の修道女姿に着替え、備え付けの鈴を鳴らす。


 扉がひらいて、ささやかに角めく侍女。


「若さま、お呼びでしょうか」

「……フェネトラ姉さまに、お願いがあるんだ」


 かしこまりました——侍女は扉を閉める。



 フェネトラが操る鳥竜は、篝火の広場に降りた。

 物陰に隠れていた荷物持ちの大男は、雇い主の黒の修道女をみとめて。

 鳥竜を刺激しないように、ゆっくりと歩み寄る。


「戻ってきた猟師は魔族しか言わないし、とんでもなく強い嬢ちゃんに限って、もしやと寝ずに心配したんですから」


 大男の目の隈がゆがみ、キルシュは苦笑い。


「廃鉱の底に巣くう緑子鬼は殲滅したよ。それと、お粥は本当においしかった」


 大男は、報酬が詰まった革袋を両手におさめた。


「少し多いような気が——」

「見たこと聞いたこと、忘れてよ。それと、僕らは鳥竜で街に帰るから、ここで解散。お疲れさま」


 動かない大男に、キルシュは小首を傾げる。

 大男は片膝をついた。


「オレ、口は堅いです。だから、これっきりじゃなくて嬢ちゃん専属の荷物持ちとして雇って欲しい」


 腕組みのキルシュに、フェネトラはささやく。


 ——そなたに魅了されたのであろ、お金では心を買えぬぞ。


 キルシュは片手を差し出した。


「わかった、メルツェン。冒険者ギルドで契約を詰めよう」


 ああ、キルシュさま——大男は、白の手を愛おしげに両手で包み。


 次第に荒くなる大男の鼻息、キルシュは手を振り解いた。




「食べ盛りの息子につられて、つい食べ過ぎてしまったわ」


 こじんまりしたバルコニーでの朝食の席、微笑む淑女パルフェのカップに侍女がお茶を注ぐ。

 キルシュも、お茶を一口。


「フェネトラ姉さま、そろそろ学院の街へ戻ろうと思います」

「そうせかすでない、お茶を飲んでからじゃ。当家の鳥竜は、おそらく世界最速じゃからの」


 エシレは、向かいのフェネトラを見据えた。


「わたしも連れてってくれるのよね」

「もちろんじゃ」


 フェネトラはカップを置いた。侍女に伝言を命じて、


「さて、久しぶりに蛮人の街で遊ぶとしよう」



 庭に出ると、家臣たちが小競り合いをしていた。


「なにをしておる」


 フェネトラの一喝に、騒ぎは一旦沈むも。


 ——姫さま、わたくしめに若さまのお供を命じてください。

 ——姫さま、口だけの若造はいけません。百年戦争を生き残ったこの老骨にお任せを。


 小競り合いが始まり、


「うるさいのじゃ!」


 主の雷に、家臣たちは片膝をついて頭を垂れた。

 フェルトラは両手を腰に睥睨。吐息をつく。


「蛮人の街へ向かう。じゃから、恐がりの鳥竜の扱いに最も長けたレノ爺、頼むぞ」


 白髪の痩躯は、満面の顔を持ち上げて、


「姫さま、若さま、この老骨マホレノを存分にお使いください」



 鳥竜は両翼をしならせ峡谷を越えた。

 秋に色づいた山腹を下ってゆく。


 馬とは比べものにならない速さ——冷たい風がキルシュの耳を削り。


「若さま、見えてきましたぞ」


 彼方に霞む林立の尖塔は王立学院の街——編入試験が合格なら、今日から学院生活の始まり。

 さっきの言葉に甘えてみようと、キルシュは切り出した。


「マホレノ、僕でも鳥竜を操れる?」

「おお、もちろんですとも。この老骨の持てる技を、若さまに捧げましょう」



 二頭の鳥竜は、驚きに見上げる人々を音なく横切る。

 マホレノは目を見開いた。


「若さま、あれはなんでしょうか」


 街外れの王立学院へと続く道にひしめく剣と鎧は、鈍色の川のよう。


 キルシュは、口の端を吊り上げた。


 ——これは、平民である僕とエシレ姉の編入を頑なに拒む者たちの差し金か。


 学院の裏手の大きな窪地の底に、二頭の鳥竜は降りた。


 ——こっちだー、囲め、囲め。


 フェネトラは短く命じた。

 鳥竜に跨がるマホレノは、主の鳥竜を連れて空へ。

 窪地の縁に、ずらりと人影が立つ。


「ずいぶんな歓迎じゃの」

「キィくん、二人でやっつける?」


 柄に手をかけたエシレ姉を、キルシュは制した。


「いや、相手するだけ時間の無駄だから。姉さま方、僕の側へ」


 二人の姉に挟まれながら、腹底で魔力を練り上げる。


 ——いけーっ、殺してもかまわん。


 一斉に斜面を駆け下りる蛮声。

 キルシュは魔力を解放した。


 白魔——軋むように足元から黒の表土が凍ってゆく。


 突撃の兵士どもは雪波に呑まれ、沈黙。


 フェネトラは声なく嗤う。

 エシレは唇をなめた。

 キルシュは鮮やかに想い描く。


 しゅるしゅると、青空を円く切り取る縁へと氷段が這うように伸びて。


「参りましょう、姉さま方」

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